四季・めぐりめぐりて

諸々の事情から最近は遠出の城めぐりができませんので、近場の城館跡めぐりをぼちぼちながらやっています。

浅羽城(埼玉県)

2018年02月24日 | 城館・城跡


城 名:浅羽城(あさばじょう)
別 名:萱方城(かやがたじょう)
形 態:平城
時 期:中世(室町―戦国期)
築城者:浅羽氏?
城 主:浅羽下総守?
遺 構:なし
指 定:― 
所在地:埼玉県坂戸市鶴舞1丁目

埼玉県坂戸市内にある浅羽城跡を訪ねてみました。城跡は完全に住宅団地(鶴舞団地)や水田となり遺構はなく城跡の面影はと
どめておりません。団地内にある公園付近一帯が城跡と推定されているようです。
浅羽氏は、武蔵七党のひとつ児玉党の一族である入西三太夫資行の子小太郎行成(行業)が浅羽に住して浅羽氏を名乗ったのに
始まるといいます。弟の次郎大夫遠広は小代(現在の東松山市正代)に住して小代氏を名乗り、新大夫有行は越生(入間郡越生
町)に住し越生氏をそれぞれ名乗りました。




鶴舞団地の中にあるこの公園付近一帯が浅羽城跡とされています。この公園の名称はタイヤ公園




浅羽城跡(萱方城跡)の説明板
萱方城とはかつてここが萱方村であったことからのようです。




上述の通り遺構はありませんので写真を撮っても意味はないのですが、一応、このあたりだということで・・・




タイヤ公園と道を挟んでこちらの公園は「城跡公園」の名称になっています。
道路より一段高くなってはいますが、城跡の名残ではなく、単に住宅地造成による産物でしょう。




左側が城跡公園 中央がタイヤ公園




城跡公園の北側に広がる田園地帯




浅羽氏の祖である浅羽小太郎行成(行業)の供養塔(板石塔婆)が建立されている「万福寺」(坂戸市北浅羽193)
この万福寺から八幡神社にかけて館(北浅羽館)が築かれていたと考えられるとのことですが、遺構等はありませんので?です。




覆屋の中にある供養塔(板石塔婆)と説明板




供養塔(板石塔婆)の説明板①




供養塔(板石塔婆)の説明板②




覆屋の中にある供養塔(板石塔婆)




覗きをしてみました(笑)




始祖浅羽小太郎行成(行業)が鶴岡八幡宮から分祀したと伝わる八幡神社(坂戸市北浅羽262)




八幡神社社殿

散策日:平成30年(2018)2月24日(土)
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北新波砦(群馬県)

2018年02月21日 | 城館・城跡


城 名:北新波砦(きたあらなみとりで)
別 名:―
形 態:平城(砦)
時 期:15世紀末か?
築城者:長野氏か?
城 主:新波新左衛門?
遺 構:郭・土塁・空堀 ・虎口
指 定:県指定史跡  
所在地:群馬県高崎市北新波町

群馬県高崎市内にある北新波砦跡を訪ねてみました。現在は、北新波砦史跡公園として整備されています。
砦と言うものの方形の館(平城)と言ったほうがよいかもしれません。
訪ねたのは午後の遅い時間帯であったうえに強風であったということもあり、方形の郭内を斜めに横切ってきた程度の散策で
したので細部は見てきませんでしたし、肝心なものの見落としもありました。

冒頭の写真は、南側虎口から郭内を見たものです。




砦跡西側の状況です 
砂利が敷かれた部分は堀跡のようですが埋められています。右端に駐車場があります。




駐車場と堀跡の境に設けられている「北新波砦史跡公園」案内板




案内板の見取図部分を拡大表示しておきます




西側の階段上から見た北側土塁と郭内(本丸広場)




同じく西側の階段上から見た郭内(本丸広場)南北方向  
中央に見えるのは満勝寺 この満勝寺も郭跡(満勝寺郭)




土塁の上部




郭内(本丸広場)から見た南側の虎口




南側南側の張出部の内側




南側土塁の張出部




南側虎口から見た西側土塁と郭内(本丸広場)




同じく南側虎口見た郭内(本丸広場)北東方向




南側虎口の東側土塁




南側史跡広場内に設けられている「北新波砦史跡公園」解説板




郭(本丸広場)東側にある休憩広場の南側にある長屋門




休憩所に設置されている北新波砦史跡公園の空撮写真




周辺史跡案内図




年表




満勝寺

城館跡散策である意味一番肝心な城館跡碑(標柱)、ここの場合は砦跡標柱になりますが見事に失念してしまいました。
また、満勝寺内にも遺構があったようですがこれも失念・・・次の機会に(次の機会があれてばの話ですが)

散策日:平成30年(2018)2月17日(土)
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箕輪城 ② (群馬県)

2018年02月20日 | 城館・城跡


引き続き箕輪城跡の曲輪等を紹介します。




御前曲輪 現在整備工事中の本丸のほぼ北側に位置し、実質的には本丸の一部であったようです。




国指定史跡箕輪城跡の標柱




御前曲輪の説明板




同じく御前曲輪の説明板




御前曲輪の井戸




御前曲輪井戸の説明文




御前曲輪西虎口門跡




御前曲輪西虎口門跡の説明板




箕輪城将士慰霊碑




空堀(本丸堀) 左側が蔵屋敷跡 右側が本丸跡




この上にある曲輪が蔵屋敷で、備蓄穀物を保管する建物があった場所と考えられるとのこと。




三の丸跡




三の丸門跡と石垣




三の丸門跡と石垣の説明板




三の丸石垣




三の丸石垣の説明板




鍛冶曲輪




鍛冶曲輪の石垣




虎韜門跡




虎韜(ことう)とは虎の巻の事と説明があります。




白川口埋門跡の標柱と説明板




白川口埋門跡




大堀切  二の丸と郭馬出の間にある大堀切の延長です




虎韜門跡方向を振り向いて




御前曲輪北堀




御前曲輪北堀の説明板




稲荷曲輪と御前曲輪の間の堀




稲荷曲輪 南方から北方に




稲荷曲輪 北方から南方に




稲荷曲輪 標柱と説明板




稲荷曲輪東側の堀跡




新曲輪




丸馬出 標柱と説明板




丸馬出

この箕輪城 ②で紹介させていただいた曲輪等は、大堀切と木が伐採された本丸堀を除けばほとんど以前のままの状態です。
これからも順次整備されていくことを願っています。

攻城日:平成30年(2018)2月17日(土)
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箕輪城(群馬県)

2018年02月19日 | 城館・城跡


城 名:箕輪城(みのわじょう)
別 名:―
形 態:山城 → 平山城
築城年:永正7年(1510)ころ、永禄9年(1566)、天正15年(1587)、天正18年(1590)
築城者:長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政
城 主:長野氏、武田氏、織田氏、後北条氏、井伊氏
遺 構:郭・土塁・堀切 ・石垣
指 定:国指定史跡  日本100名城(16)
所在地:群馬県高崎市箕郷町西明屋

箕輪城を久しぶりに訪ねてみました。今回で3度目の攻城になりました。つい2、3年前に訪ねたように思っていましたが、
前回は平成24年(2012)4月のことですので約6年を経過していたわけです。
この間に郭馬出西虎口門が復元されたり、杉林の伐採や、城跡路の整備、駐車場の整備等がなされていましたので、新たな気
持ちで攻城してきました。




新たに整備された「史跡箕輪城跡駐車場」




駐車場には水洗トイレも併設されています
この駐車場に我が愛車を駐車していざ攻城を始めようとしたところ、風も強くなり白いものが舞い始めました。
しかし、このまま帰るわけにはいきませんので様子を見ながら攻城しようと・・・




以前は写真の左下にある道を通って二の丸前にある駐車場まで行ったものですが。




搦手口
風が強く幟がまくれ上がっています。




郭馬出西虎口門方向への道は新しく整備されたようです
右側の坂道が従来からの登城口で二の丸前に通じていますが、今回は郭馬出西虎口門方向への道を進んでみました。




見るからに新しい道です。先のほうに郭馬出西虎口門の屋根が少し見えています。




木俣 郭ですが、他所(城)には「木俣郭」というのは存在せずこの箕輪城のみにあるようで、謂れは諸説あるようですが、井
伊氏の重臣であった木俣守勝の屋敷があったことからとの説が有力のようです。




木俣の発掘調査の説明板




木俣と大堀切を挟んだ北西方向に郭馬出西虎口門が見えます。




郭馬出西虎口門




郭馬出西虎口門説明板全体




郭馬出西虎口門の説明部分




郭馬出西虎口門  正面から
平成26年(2014)から復元工事  平成28年(2016)年11月完成




郭馬出西虎口門  正面から




郭馬出西虎口門 屋根部




門から郭馬出を見る




郭馬出内から西虎口門を見る




同上




郭馬出西虎口門内側




郭馬出




郭馬出 標柱と説明板




奥から 郭馬出 大堀切と土橋 二の丸




大堀切 標柱と説明板




大堀切  左側が二の丸  中央が土橋と石垣  右側が郭馬出




大堀切土橋説明板




大堀切の堀底から見た郭馬出西虎口門




二の丸




二の丸に設置されている箕輪城跡見取り図
御前曲輪へお越しの・・・の文言と矢印は現在本丸を整備中のために迂回路を表示したもので、一時的な表示。




二の丸前の広場
史跡箕輪城跡駐車場が整備される前は、ここが駐車場になっていました。




広場からの眺望




かつてはこの中に100名城スタンプが置かれていたようですが盗難にあってからはスタンプを押した紙と箕輪城跡の説明書が
置かれています。




本丸門馬出し




二の丸と本丸の間の空堀(本丸堀)




城郭整備工事中の本丸跡
立ち入り禁止ですので工事内容は分りません。果たしてどのような整備がなされているのか・・・

今回の箕輪城攻城は復元された郭馬出西虎口門を見ることが第一の目的でしたが、冒頭でも触れたよう整備が進んで以前訪れた
時とは全く雰囲気が変ってしまっていました。

これ以外の曲輪等は「箕輪城②」として追って投稿します。

攻城日:平成30年(2018)2月17日(土)
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バスツアー武蔵武士の本拠を訪ねる「児玉党諸氏の本拠」

2018年02月10日 | 講演会・企画展


平成30年(2018)2月9日(金)に催行された武蔵の中世文化活用プロジェクト実行委員会(埼玉県立嵐山史跡の博物館・早稲田
大学・埼玉県立熊谷図書館等)主催によるバスツアー武蔵武士の本拠を訪ねる「児玉党諸氏の本拠」に参加させていただきまし
た。
定員40名に対し倍以上の応募があったようですが幸い抽選に当選することができました(文化財巡りには何回か応募しています
が当選と落選の繰り返しです)
冒頭の写真のパンフレットは受付時に頂いたもので、A3判の4つ折りのものの表紙と背表紙です。開くと見学先の写真や情報が
登載されています。




今回の集合場所は東武東上線森林公園駅北口です。




参加者が集まりました。
お名前は分りませんが、歴史講座や講演会でよくお見掛けする方たちが多数おりました。




バスに乗車して出発です。
武蔵武士の本拠を訪ねる(見学=観光する)バスツアーだけにバスは「武蔵観光バス」です。偶然か計画的にか?




最初の目的地である大久保山遺跡のある早稲田大学本庄キャンパスに到着です。




早稲田大学本庄キャンパスの見取図 現在地とある本庄セミナーハウス前に到着しました。




ここでも資料を頂き早稲田大学の先生(お名前は失念しました。申し訳ありません)の案内と解説で大久保山遺跡の見学です。
見学と言っても、発掘したところは埋め戻されて、建物が建っていますので場所だけになってしまいますが。




見学出発です。




左手にある山並みが塚本山古墳群




考古資料館に向かいます




考古資料館入口
全員一緒は無理ですので半々ずつ入館




多数の出土品が保管されています。
そんな中から特異なものをいくつか見せていただけました。




文様のはっきり遺っている瓦
個々の写真を撮れればよかったのですが、皆さんも撮っていましたので一人だけじっくりとはいきませんので・・・




次に「宥勝寺」に向かいます。




「宥勝寺」に向かう途中にも遺跡についての説明がありました(遺跡名は失念)




西光山宥勝寺に着きました。




宥勝寺説明板




宥勝寺本堂




荘小太郎頼家の墓説明板




荘小太郎頼家の墓(五輪塔)
宥勝寺で荘小太郎頼家の墓を見学したあとは古墳に・・・




前山一号墳の説明板




前山一号墳の墳頂に上がります。説明板にあるよう高さ7mの前方後円墳です。




墳頂部は広く、ツアー参加者全員が上がれるだけの余裕がありました。
ここでも早稲田大学の先生の説明があったことは言うまでもありません(古墳が専門のようです)




前山一号墳見学の後は昼食のため、セミナーハウス前に駐車のバスに戻り、早稲田大学本庄キャンパス内にある「早稲田リサー
チパーク・コミュニケーションセンター」前までバスで移動。




センター内で昼食・休憩




陽あたりがよいのでしょう。早くも紅梅がほころんでいました。




昼食休憩ののち、再びバスで神川町に向いました。見学予定地である金鑚神社前を素通りして、一旦、藤岡市(旧鬼石町)に入
った後再び神川町に入り「阿久原牧」跡が見える場所を走行(遺構がないことから立ち寄りはなし)し、「神泉道のオアシス」
にバスを駐車。




神泉道のオアシスから徒歩で「有氏神社」まで




有氏神社に到着




「有氏神社の盤台祭り」説明板
児玉党の祖・有道惟行をまつる神社と伝えられているとの記述があります。




有氏神社社殿 人の背丈の2倍程度の小さな社です。




有道氏の祖廟についての説明板




室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたと推定される石塔




最期の目的地「金鑚神社」の社殿前で説明にあたってくれた神川町教育委員会文化財担当の職員の方




「金鑚神社」説明板




金鑚神社多宝塔




「金鑚神社多宝塔」説明板




神川町教育委員会文化財担当の職員の方の多宝塔の説明を聞き入るツアー参加者
この多宝塔見学を最後に集合場所であった森林公園駅北口まで帰り解散となりました。

以上、ツアーの行程の説明のみで、学術・専門的なことは書けませんが、非常に有意義なツアーでした。




大久保山遺跡見学に際し頂いた資料  A3判7枚13ページ うち2枚はカラー4ページ




金鑚神社見学の際に頂いた資料 右のものはA4判2枚4ページで今回のツアー用に作成されたようです。

文化財見学バスツアー参加日:平成30年(2018)2月9日(金)
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歴史手帳2018

2018年02月01日 | エトセトラ


吉川弘文館発行の「歴史手帳2018」を購入してきました。
過日開催されたシンポジウム「武蔵武士とその本拠」の会場で、吉川弘文館さんも歴史書のロビーを販売していて、この歴史手帳
も中にあったのですが買いそびれてしまいました。そんなことから、取り寄せ覚悟で近隣の書店を見て歩いたらところ、某書店に
運よくありましたので購入した次第です。




予定等を書き込む手帳としての活用もさることながら、今までネットでその都度調べていたものが、この手帳の資料・図録の中に
大分含まれいますので助かります。ただ、文字が小さいので裸眼では読むのが難しいですが(泣)
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シンポジウム『武蔵武士とその本拠』

2018年01月28日 | 講演会・企画展


1月27日(土)・28日(日)の2日間、国立女性教育会館 講堂を会場として開催された シンポジウム『武蔵武士とその本拠』
を聴講してきました。

例年、埼玉県立嵐山史跡の博物館の主催で開催されるシンポジウムですが、今回は、平成29年度文化庁 地域の核となる美術館・
歴史博物館支援事業として「躍動する武蔵武士」を今に活かす地域連帯プロジェクト」の一環として、武蔵の中世文化財活用プロジ
ェクト実行委員会により開催されたもので、2日間にわたるのは私の知る限りでは初めてです。

週初めに降った雪がまだまだ残る女性教育会館です。




会場の国立女性教育会館 講堂




受付で受講票と引き換えにシンポジウムの資料集を受領します。
例年ですと、資料代を徴収されますが、今回は上記のとおり文化庁の支援事業と言うことで無料でした。




シンポジウム『武蔵武士とその本拠』資料集 と 日程表(チラシ裏面から抜粋)




今年も歴史関係の書物を扱う出版社数社がロビー販売をしていました。
ほしい本が何冊もありましたが、歴史関係の書物はお高いんでなかなか手が出ませんが、安価なものを2冊ほど購入してきました。
また、埼玉県立史跡の博物館の刊行物(図録等)も販売されておりましたが、前日、博物館に行って何部か購入したばかりでした。




基調講演
「中世前期の東国武士とその本拠」
  高橋一樹 氏 (武蔵大学)




報告1
 「北武蔵の武士本拠と湧水開発」
   渡邊浩貴 氏 (神奈川県立歴史博物館)




2日目(28日)
報告2
 「北条氏の伊豆国の本拠について」
   池谷初恵 氏 (伊豆の国市教育委員会)




報告3
 「考古学から見た武蔵国府と周辺武士」
  深澤靖幸 氏 (府中郷土の森博物館)




討論
 パネリスト
  高橋一樹 氏・渡邊浩貴 氏・池谷初恵 氏・深澤靖幸 氏



討論
 コーディネーター
  落合義明 氏 (山形大学)
  水口由紀子 氏 (埼玉県立歴史と民族の博物館)

会場内には、これらの方とは別に何人もの専門家(博物館等)がお見えになっていて、それぞれの意見を述べられていました。

私には難しいことは分りませんから、先生方がお話になった内容を書くことはできませんので写真のみでご勘弁を・・・




女性教育会館内の庭園の池は凍っていましたし、残雪も・・・

聴講日:平成30年1月27日(土)・28日(日)
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虎ヶ岡城(埼玉県)

2018年01月11日 | 城館・城跡


城 名:虎ヶ岡城(とらがおかじょう)
別 名:円良田城(つぶらたじょう)
形 態:山城 標高337m・比高200m
時 期:室町時代か?
遺 構:郭・土塁・堀切
指 定:―
所在地:埼玉県児玉郡美里町円良田・秩父郡長瀞町矢那瀬

虎ヶ岡城は、室町期に藤田氏によって花園城の支城として築かれたとも、戦国時代に北條氏邦の鉢形城の支城として猪俣小平太
範綱によって築かれたものとも言われるようですが、その実体は不詳のようです。戦国時代には鉢形城の兵糧庫としての役割を
担っていたようです。豊臣秀吉による天正18年(1590)の小田原攻めによる鉢形城攻撃の際に、この虎ヶ岡城にも真田昌幸の大
軍の攻撃を受けて落城したとのことです。
また、一時期、虎ヶ岡城と円良田城は別の城との見方がされたようですが、今では同一の城であるとの見解に落ち着いているよ
うです。

そんな虎ヶ岡城跡を今年(2018年)最初の城攻めとしましたが・・・

攻城(登城)ルートは複数あるようでしたが、いろいろな方の攻城記を参考にして、陣見山林道の途中にある東屋の少し下にあ
る登山口からの攻城をまず選んでみました。
この林道はあることから何度も何度も通ったことがあり、東屋についてもよく知るところでしたが、最後にこの林道を利用して
から10年以上は過ぎていました。

冒頭の写真は、林道を東屋まで向かう途中の開けた場所から見える虎ヶ岡城跡で、写真中央に見える東屋のある所が本郭跡のよ
うです。




東屋のある場所に着きました。すでに1台駐車車両がありましたが、城攻めの方ではなく、車内で休んでいるだけでした。




東屋のある場所に愛車を駐車して上ってきた道を200mほど下って、多分ここで間違いないとここから山に入りました。




これは歩いてきた道を振り向いて撮ったものですが、ここより更に上(奥)へと登って行ったのですが、城跡方向への分岐点が
見つからず、あまり深入りして迷い込んでしまってはとここからの攻城は諦めて東屋の所まで引き返しました。
東屋の更に上の方にも登城口があるとのことでしたので、更に林道を上りそれらしきところを見つけたのですが、今一つ自信が
ありませんでしたので、峠を下って戻り、別の登城口を目指しました。




虎ヶ岡城址(東側) 730m(22分) と表示のある登城口です。
陣見山林道を上がる前に下見はしてありました。ここからではかなり厳しいようでしたので攻城口の2番候補でしたが、第1の候
補が失敗に終わりましたので、改めてここからの攻城に挑戦となりました。ここに至るまでだいぶ時間を浪費してしまいました。




何を祀った祠かまでは確認しませんでしたが、それぞれ別の場所に祀られていたものをここ1か所に集めたのでしょう。




写真で見るよりは急な道です。




階段状の坂道を過ぎると若干緩やかな山道となりましたが、すぐに・・・




足元が埋まってしまうほどの落葉の坂道です。自前のステッキを持って行ったのは正解でした。




ひたすら尾根を歩きますが、堀切らしきものは見当たりません。まだ城域ではないようです。




再び落葉道です。まあ、落葉のない所は僅かですが。




かなりの急坂です(振り返っての写真です) こんな急坂か所々にあります。




僅かに視界が開けたところから。円良田の集落でしょう。




所々に瘤のような高い場所がある山道をひたすら歩き続けます。一見、平坦なのようですがさに非ず。




歩き始めてかなりの時間が経ちましたが、本郭跡らしき場所に遭遇しません。もう少し歩けばもう少し歩けばと・・・




ここが限界です。上に向うには急斜面です。少し上がってみましたがとても登りきれたものではありません。かといって回り込
めそうな場所も見つかりません(落葉が覆ってたので見つけられなかったのかもしれませんが)
これより先に進める道を探せたとしても、帰路のころには陽が落ちてしまう可能性がありましたので、無理は禁物とこのルート
での攻城も諦めて来た道を戻ることに・・・
上がってくる時も落葉で大変でしたが、帰りの下りは更に大変でした。片手ににステッキを持ち、もう片手で木や枝に掴まりな
がら一歩一歩慎重に下りてきましたので登った時以上の時間を費やしてどうにか麓までたどり着きましたが、足はパンパンにな
っていましたし、痛めている膝がさらに痛くなってしまっていました。

※後日、コースを間違ったのでないかと調べてみましたら、間違ってはいなかったようで、引き返した場所の斜面の右側を更に
進むと本郭跡(東屋)の方に向かって行けたようです。しかし、あの時点では戻って正解だったかもしれません。




来るとき前を通ってきたときは開いていた円良田特産センターはすでに閉まっていました。




虎ヶ岡城跡ハイキングコース 約1.3㎞ 徒歩35分

いったい私は何分歩いたと言うのだ!!  それでも城跡にたどり着けなかったという不甲斐無さ
決して無計画で来たわけではなく、久しぶりの山城であったからそれなりに情報を集めて挑んだのに・・・
機会を見つけて別ルートで再攻城したいものです。

ということで、本年最初の城攻めは見事に失敗でした。

攻城日:平成30年(2018)1月9日(火)
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岡部陣屋(埼玉県)

2018年01月05日 | 城館・城跡


埼玉県深谷市岡部(旧大里郡岡部町岡部)にある岡部陣屋跡を訪ねてみました。

元今川家家臣で後に徳川家康に仕えた安部信勝が5200石を領し、その子信盛の代に加増をうけ、慶安2年(1649)に1万石を加増
され諸侯に列した。信之の代に2万200石、信友の代に2万2,200石となった。陣屋は信友の子信峯により築かれた。陣屋は土塁と
空堀を巡らせていたと言われるが、今は跡形もない。
幕末には砲術家の高島秋帆の身柄を預かっている。現在は陣屋址敷地に石碑がある。その後、明治維新まで安倍氏の居館として
用いられたが、慶応4年(1868)、藩主信発が明治新政府側に自ら願い出て三河国半原藩(愛知県新城市)へ移転したため、岡部
陣屋は廃止された。                                 (Wikipipediaより引用)

「安倍」=「あんべ」と読むようです。
岡部陣屋跡は、岡部藩陣屋跡の名称で、埼玉県指定旧跡(昭和13年(1938)3月31日指定)となっています。
指定概要は、幕末の兵学者でわが国近代砲術の祖、高島 秋帆が讒訴され、一時幽閉されたところ。
ということで、陣屋跡そのもの価値でなく、高島秋帆が一時幽閉されたところに価値を見出しているようです。何もない陣屋跡
では仕方ない話ですが・・・




国道17号線(中山道)を群馬方向に進んだ場合、岡部(北)交差点の左一角に「史跡 高島秋帆幽閉地入口」の標柱ががあります。
一瞬、団地入口なんて読んでしまいそうですが、ここを左折(写真を撮る角度を失敗しました)




左側にある岡部郵便局を通り越して少し行った右側に「高島秋帆史蹟」の標柱がありますので路地を右折(やはり写真失敗)




少し進むと左進行方向側に石碑と説明板があります。このあたり一帯が陣屋跡のようですが、遺構はありません。




石碑は、残念ながら岡部陣屋跡碑ではありません。高島秋帆の事が細々と書かれた碑です。




この説明板も岡部陣屋跡についてのものでなく「高島秋帆幽閉の地」の説明板です。
高島秋帆の存在がなかったら、ここには何も建てられず、ただの畑か住宅になっていたでしょう。




やはり岡部地内にある岡部藩主安部氏の菩提寺である源勝院




門前にある岡部藩の説明板 安部氏についての説明がなされています




本堂




院号「源勝院」の扁額




安部大蔵元真の碑




2代から13代の墓




同上 反対方向から




陣屋跡地を訪ねたにも関わらず陣屋の痕跡を見ることなく散策を終えるのは寂しいものですから、市内岡3313にある金昌寺に
移築されている岡部陣屋の長屋門を見に・・・大分改修されていますが大きな長屋門です。




狭い道路からでは、長屋門全体を撮るのは難しいので・・・




3方向から撮った3方向目の写真です。




これは境内から。




そしてこれは市内某所の民家に移築されている岡部陣屋の通用門。
一般の民家ですので失礼にならないよう外から1枚だけで・・・

散策日:平成29年(2017)12月14日(木)・19日(火)
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上杉館(埼玉県)

2018年01月03日 | 城館・城跡
深谷上杉氏 ⑩
深谷上杉氏に関連する史跡等を数回にかけて紹介してきましたが、一旦、この「上杉館」で終了とします。



埼玉県熊谷市千代(旧大里郡江南町)にある上杉館跡を訪ねてみました。
上杉氏と言ってもいくつもの系統がありますが深谷上杉氏です。深谷上杉氏の興りから述べると長くなりますので省きますが、
天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐の時、後北条氏の傘下にあった深谷城主・上杉氏憲(深谷上杉家8代当主)は小田原城
に詰めていました。深谷城は、重臣の秋元長朝、杉田因幡が守備していましたが、前田利家らの深谷城攻めに際し、城下を戦火
から守るため、秋元長朝、杉田因幡は前田利家らに城を明け渡しました。
所領没収となった氏憲は嫡男とともに信濃に移りましたが、その後上杉氏は、ここに来て居を構え上杉館を築いて小久保氏を名
乗ったということです。                       (この写真は西側雑木林の道から撮影)




北側の道路から館があったと思われる場所を。近年、樹木や竹が伐採されたようです。




やはり北側の道路から同所を西方向に。雑木林の更に西側に上杉家の墓所があります。




北側道路から見た館跡東側の土塁(写真中央あたり)




館跡西側の雑木林に通ずる道。写真右側が館跡で土塁も残っています。




同じく雑木林に通ずる道から見た館跡と館跡南側土塁




館跡南側土塁




雑木林の西側道路にある「ふるさと歩道休憩所」
上杉家墓所はこの南方にあります。




上杉家墓所




墓所の中に建立されている墓誌

天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略に対し深谷城主上杉氏憲公は、止むなく城を開け渡し、嫡男憲俊と共に信濃国
大豆島(現在の長野市)に移る。
三男憲成はこの地に来りて居を構え、上杉館を築きて住し小久保氏を名乗る。氏憲公もまた後に、信濃より此の地に来り寛永
十四年(一六三七年)正月二十二日卒す。
上杉家は代々氏憲公を祖として崇敬し、爾来凡そ四百年連綿として今日に至る。(以下は没者の戒名のため省略)

深谷上杉氏は、小田原征伐で後北条氏が敗れた後、豊臣秀吉によって所領を奪われ同族の上杉景勝を頼って信濃国に移住した
ようです。

墓石の写真はあえて載せませんが、この墓所の墓石等には、上杉氏の家紋である「竹に雀紋」ではなく「五七の桐紋」(上杉
桐)が入っています。自身には、その理由は分りませんが、こうして使われているというのは「五七の桐紋}も深谷上杉氏の
家紋なのでしょうね。

上杉謙信は、五七の桐紋を大親町天皇から下賜され、上杉氏の家紋のひとつにしています。景勝は謙信の養子(また謙信の甥
でもある)です。そんな関係から深谷上杉氏も五七の桐紋(上杉桐)を使うようになったのではないかと推測します。




南側の道路から




南側から見た館跡東側を南北に走る空堀と土塁  土塁上の竹も伐採されています。

実際の館跡(敷地)はもっと広範囲にわたるようですが、樹木や竹が伐採されて更地状態になっている場所を自身の勝手な推
測で館跡として捉えて説明をさせていただきました。
樹木伐採前の土塁はもっと高く、空堀はもっと深かったことが容易に想像されます。

上杉氏・小久保氏に関する話は色々あるようですが深くは考察しないことにします。
なお、上杉氏は現在もこの付近にお住いのようです。

10回にわたって深谷上杉氏を取り上げてきましたが、ここで一旦終わりにしたいと思います。
記事ごとにコメントを付けたため、他の記事との整合性がない個所もあるかとは思います。また、同じことでありながらも記
事によっては、関東入国、関東入府などと異なる表現をしましたが、そこは大目に見ていただければ幸いです。
深谷上杉氏(家臣等を含め)に関係する場所や史跡などはまだまだ沢山ありそうです。今回の一連の記事以前にも、「杉田因
幡の墓」や「平山館」を投稿していますし、まだ行ってはいませんが、「矢井伊勢守屋敷」などもあります。
また機会を見て散策してみようと考えています。

散策日:平成29年(2017)11月17日(金)他1日
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