教育放談

学校教育についてさまざまな視点から考えようとしています。

飛行機人間かグライダー人間か

2007年05月27日 | Weblog
 何かを学ぼうとすると、そのことについて指導してくれる人を探すことが多い。
 英語を学ぶために英会話スクールに入ろうとか、パソコンの操作方法について覚えるためにパソコンスクールに入ろうといった具合に、まず「教えてくれる人や場所」を探すことがごく当たり前のことのように行われている。
 学生だけではない。大人ですら、子どもに手がかからなくり、いくらか余裕ができたので町や市の生涯学習講座で念願の絵画を習おうとか手芸を教えてもらおうといったように、学ぶにはまず「教えてくれる人」が必要だと考える向きが多い。
 そうした「教えてくれる場所」では、教科書と教えてくれる人がいて、その人の教えに従って学ぶのが正統だし、間違いがない、と多くの人が考えているということなのだろう。

 生涯学習を標榜していながら、生涯教育と混同して、まずは「教えてくれる人と場」を設け、『こんなことを教えるから、教えて欲しい人はどうぞ』と呼びかける公共の講座が多いのも、こうした事情によるのかも知れない。
 生涯学習とは、学ぶ主体が自らの関心事(調べたい、知りたい、探りたいこと)を追究することを認め・保障しようとする概念である。それは、人間とはもともと知的好奇心の旺盛な、いわば「知りたがり」な存在であるという人間観を基盤としている。
 すなわち、その知的な欲求を充足させ、自らの世界を広げることが「学ぶこと」であると広く捉えているのが生涯学習における学習観なのだ。
 しかし、調べたい・知りたいという欲求が生じても、調べることのできる施設や設備、人的環境などの手段が手近になければ、学び手は探究活動を十分に行うことができにくくなる。そこで、社会全体でそれを保障しようというのが、「生涯学習社会」なのだ。

 一方、生涯教育は、学び手の論理より教える側の論理が先立ち、『このようなことを教えるから、習いたい人はどうぞ』と導くことを一義としている。
 また「教育」という語からもわかるように、生涯教育の根底には『人間は生涯にわたって学び続けるべきだ(教育されなければならない)』とする人間理解がある。
 生涯学習と生涯教育の二つの考え方には、これほど多くのひらきがあるにもかかわらず混同され易いのは、「教えてくれる人」に従って「教わること」が正統な学習だという学習に対する抜きがたい思いがあるからなのであろう。

 ところで、外山滋比古(お茶の水女子大教授)は、かつてこのように指摘していた。
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 ところで、学校の生徒は、先生と教科書にひっばられて勉強する。
 自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。
 いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。
 グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。
 学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、
エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっばられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。
 優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。指導するものがあってのグライダーである。
グライダーとしては一流である学生が、卒業間際になって論文を書くことになる。これはこれまでの勉強といささか勝手が違う。何でも自由に自分の好きなことを書いてみよ、というのが論文である。グライダーは途方にくれる。突如としてこれまでとまるで違ったことを要求されても、できるわけがない。グライダーとして優秀な学生ほどあわてる。
~略~
 いわゆる成績のいい学生ほど、この論文にてこずるようだ。言われた通りのことをするのは得意だが、自分で考えてテーマをもてと言われるのは苦手である。長年のグライダー訓練ではいつもかならず曳いてくれるものがある。
 それになれると、自力飛行の力を失ってしまうのかもしれない。
                              思考の整理学(ちくま文庫)1986  p.11..12
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 これが書かれた当時よりも、変化の激しい社会、予測のつかない社会に生きている我々にとって、さらに地球規模の難問を抱え、その解決に向かうことを余儀なくされるであろう将来の人間にとっては、新しい解決への道筋を見つけ出すだけの「考え」を創出することが不可欠だ。グライダーでは対処しかねる場面との遭遇が予想されるからだ。
 人間を「教育されるべき存在」と規定して「教わるべき・学ぶべき」であると、教え手の論理を強調していては、自力で飛行できる飛行機人間の育ちは望めそうもない。

 そして一人一人の人も(大人も子どもも)、教えてくれることを待たず、自らの手で学びを創りあげていこうとする意志や意欲、学び取って自らの世界を広げていけるのだという自信を取り戻す必要があろう。
 先に書いたように、誰もが生まれつき知的好奇心、知的欲求を持っているのだから、それを充足させるために大いに「学ぶ意欲」を発揮してよいし、学んでよいのだ。
教えてくれることを待つ必要などないのだ。
学校で教えてくれる知識だって、先人が手探りで、まさに手と足と頭と心で見つけ出し、体系化したものなのだ。
同じように、自分の全身を働かせて納得のいく知を見いだしつくりあげていくことは最も心が弾む作業ではないか。
 勿論、納得のいく解を見いだすということは、知に対する謙虚さも自ずと要求される。
 独断と偏見による解であっては、自らが納得できないだろうからである。
 ほんとうにこれでよいのか、と「問う」姿勢からしか納得のいく解など生まれないだろうからである。

 そうしたモノゴトに対する能動的な働きかけが「学び」であり、よりよい解を見つけて試行錯誤することは「自分を生きる」ということだ、という意味で、それこそが人間として「生きる」あかしであり、充実した生活を送ることにつながるのだ、ということを再認識すべきであろう。
 一人一人が、そしてお互いが幸せで満ち足りた生涯を送ることを考えたとき、「生きることは学ぶこと」という言葉の真の意味が見えて来るであろうし、取るに足りない目先の利益のためにやむを得ず勉強するという学びからの逃避から脱却できるであろう。

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