教育放談

学校教育についてさまざまな視点から考えようとしています。

暴走と逆走の挙げ句

2021年09月07日 | Weblog

 菅総理が次期総裁選挙への不出馬を表明した。あまりの「私利・私欲」、そ
して人事権を盾に権力をふるうことに執着する“自分のための政治”への姿勢
等々が露呈し、市民からの信頼を失ってしまったことに依るのであろう。
 どうみても深遠な知性に根ざす見識や常識、危機を回避するための想像力や
懐の深い人間観、先見性に基づく幅広い世界観など、国のリーダーとして持つ
ことが望まれる「知力と人間力」を欠いたこの人物の姿が、信頼できる姿では
ないこと、遠く隔たったものであることが白日の下にさらされてしまったから
ではないかと思われてならない。

 菅政権の発足からの一年は、コロナ禍をどう乗り越えるかが政府にも市民に
も問われた一年であった。問いを解決するには、何よりもその問いに真っ正面
から向き合い、不都合な真実にも耳を貸し、科学的な予測や判断に立って対策
を立て、結果を検証しつつさらに次の対策を施していくことが必要だ。
 理系の科学であれ人文系の科学であれ、はたまた社会系や医系の科学であれ、
学問に対する研究の姿勢はそうした“問いに対する謙虚な”態度に尽きる。
 ところが、学問を軽んじる安倍・菅と続く政権からは、そのような態度は窺
えず、むしろ独善と独断に立つ“問いへの真摯な構え”からは大きく乖離した
浅慮としか思えない姿ばかりが目についたというのが偽らざる感想だ。

 以前にもこのブログに書いたことであるが、「学問」とは、“問いに対する
正解、答え”を教わって“覚える”ことではない。それは“問うことを学ぶ”
ことであり、そこで培った力や構えを生かして“問い”に対するよりよい答え
を粘り強く見いだすことのできる人間として自らを育てていくことである。
 今次の新型コロナウィルスは、そしてその多様な変異株には未知の部分も多
く、対処に世界中が苦慮している。だからこそ一層、問いに対して真っ正面か
ら向き合う科学的な態度で対峙していくことが肝要であるにもかかわらず、科
学を無視した楽観的かつ独断的な姿勢は慎むべきであるはずだが、この一年間
の政府の対応は残念ながらそのようなものではなかった、と言って良い。

 ビル・ボールディング(デューク大学フュークアスクール・オブ・ビジネス
学長)は、「リーダーにはIQとEQだけでなくDQが必要である」と説く。
 IQは「知能指数」、EQは「心の知能指数」であることは周知のことであ
ろう。彼が言うには、リーダーには加えてDQ(良識指数)が必要だという。
 EQ(心の知能指数)は、他人と自分の感情を理解し、いわば共感できるこ
とによって、それに基づいた行動をとろうとする能力や態度である。
 しかし、と彼は言う。『他人の感情に気づいたり、共感を抱いたりすること
は、思いやりや品性があることとは違う。EQを利用して、人を都合よく操る
こともありうる。EQの高い人が、正しいことをするとは限らないのだ』と。

 以下引用である。『良識指数(DQ)は、EQを一歩進めたものだ。DQが
高いということは、社員や同僚に共感するだけでなく、彼らの力になりたいと
純粋に願っていることを意味する。職場の全員にとってポジティブなことをや
ろうとし、全員がリスペクトされ、大切にされていると感じられるようにする。
DQは、人を正当に扱うことを重視するのだ。』
 
 翻って考えてみよう。その三つの指数のうち、菅総理が高く持っているもの
はどれであろう。残念ながら、官房長官時代を含めてこれまでの振る舞いから
察するに、合格点を見いだせるものがなさそうである。共感や納得を伴って、
信頼できると思えた政策が見つからないからだ。
 さらに、多くの国民が“尊重され大切にされている”と心底実感できるよう
な施策も見いだすことができないのだ。
 一方で、良識を疑うような“説明に事欠く”施策、納得の行かないチグハグ
あるいは筋違いで行き当たりばったりとしか思えない施策などは枚挙にいとま
が無い程にある。
 リーダーとして備えることが望まれる三つの指数が示す能力や態度が不十分
であるにもかかわらず、権力をいたずらに乱用し、服従を迫る態度からは、こ
の人物が国や国民のために自らを捨てても責任をもって舵を取り、努めるとい
う姿は窺えない。政権の座に就いたのも、大きな展望があってのことではなく、
単に“権力をふるって”“自己の権勢を誇り”たいというだけのことだったの
ではないかと思われてならないのだ。
 いやしくも政治を志すのであれば、中学生や高校生程度の「公民」や「憲法」
についての知識を常識程度には持っていても良いだろうと思えるのだが、国会
を軽視したり、三権分立を無視するかの如き姿勢からは、それさえも満足でき
るようなものではなかったように見受けられる。
 
 政治家として自己を高める、深める、磨くといったことを棚上げする一方で
奸計と呼んでも良いような企みや策を弄することには長けていることに、国民
の多くが気づいてしまったのだ。しかも、言論の府に身を置く国会議員であり
ながら、言葉にも内容にも説得力がない、さらに議論を避けようとする姿勢に
もリーダーとしての資質を疑うようになってしまったことは疑いようがない。
 議論を避ける、そして多くの懸念に耳を貸さず、GoToキャンペーンや五
輪の開催を強行する姿勢に、なお一層の不信感が募り、それが「この首相のも
とでは衆議院選挙が戦えない」という与党議員の危機感につながり、首相から
距離を置く動きや反発が高まったことが首相自身の“総裁選不出馬”という判
断をもたらしたのであろう。

 この一年間の動きと総理辞任の動きを見ると、私には次のような光景が思い
浮かぶ。
 それは、急な下りの坂道で対向車線を逆走し、しかもブレーキとアクセルを
踏み違えて止まることを知らず、猛スピードで対向車線のガードレールに衝突
し自爆するという光景だ。
 己の力量を過大評価し、己の策に溺れ、己の政権維持だけに執着した挙げ句
の退陣としか思えないが、この一年間、さらには前安倍政権から屋台骨として
活動してきたことを考えると、この数年間に及ぶ安倍・菅がもたらした政治の
崩壊と劣化についての責任、強権的な政治によって国民を危難に陥れた責任は
重大で、まさに“人災”と言って良いが、こうした非常識かつ勘違いに充ちた
人物を総理・総裁として選出した政権与党の自由民主党の責任も問われなけれ
ばなるまい。
 与党議員として、安倍・菅両氏の“自爆事故”だと言ってヒトゴトのように
責任逃れができる立場ではないのだ。いずれ近いうちに衆議院議員選挙が催さ
れるが、私たちが主権者として政治にかかわる権利を行使できる唯一の機会で
あるその選挙に於いて、どういう選挙行動をするかも問われていることは疑い
ようがない。
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿