語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【原発】札幌市はなぜガレキ受け入れを拒否したのか ~内部被曝~

2012年07月26日 | 震災・原発事故
(1)同調圧力
 この1年、報道の危険性を強く感じた。社会全体向へ突っ走ることの恐ろしさを痛感した。「絆」という言葉ですべてを、また皆を一つの方向へ向かわせようとして、おかしな議論がなされている。そして、そのことに異を挟むことができないような状況が作られつつある。廃棄物や震災ガレキの問題に関しても、それを受け入れないことは、日本人として許しがたい、というような言説が作られている。まるで国民全員がそう考えているようにマスコミが報道してしまう恐ろしさは計り知れない。日本国憲法成立後、価値の多様性を大切にしながら冷静にものを考えていこうとする社会が、このままでは崩壊するのではないかという恐ろしさだ。私たちの社会システムの問題として、非常に危機的な状況なのではないか。

(2)ガレキ受け入れ拒否の根拠
 (a)震災ガレキを受け入れない理由は、放射性物質を拡散させるべきではないからだ。
 (b)放射性物質を拡散させるべきではない理由は、放射性物質との闘いは時間的な闘いだからだ。放射性物質を粒子ではなくロットで考えれば、例えばセシウム137は30年の管理では絶対に足りない。
 (c)また、放射性質が水溶性であれば、生活圏に溶け出し、地下水などから人体や環境を汚染する。国は、8,000Bq/kgまで安全性が確保されている、とする。が、これは外部被曝のみを考えた数値でしかない。溶け込んだ放射性物質は、最終的に土壌や川に流れていく。必ず食物に伝播していく。内部被曝について考えねばならない。しかるに、現在は内部被曝を考慮した基準がまったくない。8,000Bq/kgという数値には根拠がない。
 (d)内部被曝の問題・・・・給食食材の線量測定で不検出だとしても、4Bq未満は計量できない状況での結果だ。母親たちは非常に意識が高く、それが自治体を支えているので、そこに応えるかたちで、トレーサビリティも重視しながら食材の安全性をしっかりチェックしていくことが、自治体の政策を推進していく力になる。
 (e)ガレキを他のものと混ぜて薄めると線量が半分になるとしても、実際にはその過程で汚染される総量が増えてしまう。結局あまり変わらない。それどころか、より管理しにくくなる。
 (f)何十年、何百年の単位で、内部被曝も含めた被曝がない状態を作るには、自治体だけの力では到底及ぶものではない。国が責任を持って厳重に、かつ特別な管理方法をしていく必要がある。
 (g)中間貯蔵施設は、最終処分の方法も技術もまだ確立されていない状況の中で提案されている。この問題も、やはり百年の単位で考え、1ヵ所ないし数カ所に集約すること、そして水を厳重に遮断できる施設を造っていくことが大事で、それを国レベルでやるべきだ。

(3)ガレキ受け入れの選択肢 ~パスカル的賭け~
 次の(a)の場合、市長の判断は妥当で、市民に被害は出ない。(b)の場合、市長の判断は妥当でなく非難されるかもしれないが、いずれにせよ市民に被害は出ない。結果として(b)であっても、市民の安全が保たれるのであれば、市長たる自分が馬鹿にされることは些細なことだ。それが究極の判断基準であり、多くの市民にこのように考えた上での決断であることを訴えていきたい。
 (a)「受け入れない」と市長が判断 → 「ガレキによる被害」有り、と後日評価 ⇒ 市民に被害は出ない。
 (b)「受け入れない」と市長が判断 → 「ガレキによる被害」無し、と後日評価 ⇒ 市民に被害は出ない。
 (c)「受け入れる」と市長が判断 → 「ガレキによる被害」有り、と後日評価 ⇒ 市民に被害が出る。
 (d)「受け入れる」と市長が判断 → 「ガレキによる被害」無し、と後日評価 ⇒ 市民に被害は出ない。

(4)国の政策の失敗
 (a)ガレキの広域処理は国の政策だから、万が一それ以外に選択の余地がないということになれば、受け入れざるを得ない。ただ、この政策はハッキリと間違っている。ガレキの量についても、合理的と言われている処理基準がまったくわからない。非常に恣意的だ。しかも、どれだけお金をかけるつもりなのか。政治は費用対効果を必ず考えなければならないが、その議論が一切わからない。すると、その手前の段階でもうお付き合いできない、ということになってしまう。これは政策の失敗だ。
 (b)「被災地に住んでいる人は我慢している。そのことをどうするのだ」と問われることもある。しかし、ここから、せっかく風向きや地理的な要因で被曝から免れることができた人もガレキ処理によって汚染地域と同じ状況に置かなければならない、という論理は出てこない。札幌に避難してきた被災者も大勢いるが、皆さん、「絶対に受け入れるな」と言っている。
 (c)自分たちの地域のことは自分たちで考えるのだ、という姿勢で、「右にならえ」/上意下達の風潮から離脱していくという文化を作っていかねばならない。今回の問題では、民主主義や自治の根本が問われている。

(5)ガレキ問題が問いかけるもの
 (a)原発安全神話が崩れた今回の原発事故で、私たちが学んだのは、絶対とされてきたものを疑ってみる文化だ。そして自分で検証していく姿勢だ。
 (b)この姿勢をガレキ処理に当てはめるなら、ここにももはや想定外はあり得ない。放射性物質に関して、ある基準を定めて、それ以下であれば絶対に安全だとは誰にも言えるはずがない。
 (c)原発事故は、新しい考える文化へと飛躍する契機でなければならない。民主主義や、さらにその根源にある自分と隣人の命、身の回りの人々の安全を考えるために知恵を本気で絞り出していくという思考形態や地域を作っていく。それを実践している人を励まし合いながら議論・行動していかなければ、そのなかに新しい命が吹き込まれていくことは起こらない。

(5)政策の倫理性
 (a)放射性物質が一番怖いのは、長きにわたる問題だからだ。ごく短期的には技術をもって管理することができるけれども、長期にわたっては不可能だ。私たちの世代だけですべてを循環し完結できない。次の世代に処理・管理の課題をのすべてを背負わせる。残ったゴミは後の世代にとって何のメリットもない。自分の世代がよければそれでよいとし、ただ自分たちの被害を軽減するためだけに後の世代に災いを残していくのは、あまりにもわがままだ。政策の倫理性が問われている。
 (b)高レベル放射性廃棄物に関して「トイレなきマンション」という言葉があるが、たとえトイレができても、そのトイレがものすごく長く管理を要するものであれば意味がない。有機物なら分解していくが、放射性廃棄物は減衰するまで万年単位で付き合わなければならない。どんな優れた技術があっても放射性物質を無害化することはできないことに気づけば、原発について、そして事故後の処理の問題に対してどう考えるべきことは明らかだ。事故後の放射性物質については国家がしっかり管理していく姿勢が必要だ。
 (c)ましてや、放射性物質をばら撒く危険を侵すことなど、決してあってはならない。

 以上、上田文雄(札幌市長/弁護士)「政策の倫理が問われている ~札幌市はなぜ瓦礫受け入れを拒否したのか」(「現代思想」2012年7月号)に拠る。

 【参考】「【原発】米子市の震災瓦礫受け入れ撤回要請書
     「【原発】ガレキ処理はなぜ進まないのか ~環境省の「環境破壊行政」~
     「【原発】放射能を全国にばらまく広域処理 ~バグフィルターの限界~
     「【震災】原発>亡国の日本列島放射能汚染 ~震災がれき広域処理~
     「【震災】ガレキ広域処理は真の被災地支援になっているか?
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