語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【中東】崩壊の抑止というシンポ ~「イスラム国」どこから来たか~

2015年02月06日 | 社会
 行事:国際シンポジウム「中東崩壊の抑止」
 期日:2015年1月28日
 場所:同志社大学

(1)講演
 (a)ヤシャル・ヤクシュ(トルコ、元外相)「介入は対立あおるだけ」
  「イスラム国」は突然あらわれたのではない。
  2003年の米軍によるイラク侵攻が、「イスラム国」が勢力を伸ばす遠因になった。サダム・フセイン・イラク大統領(当時)の軍は、米国の侵攻に対抗するために、2004年に組織「タウヒード・ワ・ジハード(統一と聖戦団)」をつくった。この集団が「イスラム国」の前身になった。
  いま、イラク、シリア、イエメン、リビアの人々の安全や人権は深刻な状況にある。これらの国々に共通するのは、外国の介入を受け続けたということだ。
  まず混迷が続くイラク。原因は2003年の米国による侵攻にある。多くの人が命を落とすなど犠牲が払われたが、イラクがより安全になったとは誰の目にも映らない。
  シリアも外国が介入した不幸な例だ。アサド政権は専制で、武力で民衆を弾圧したのは確かだ。だが、外国が反体制派に武器を与えたために、政権側の兵士も容赦なく反体制派を攻撃するようになり、多くの人命が失われた。「死者を減らすために武器を与える」という論理は成り立たない。
  各国が抱える問題は複雑で、簡単な処方箋はない。各国が自身で解決しなくてはならない。外部からの内政干渉は最低限に抑えるべきだ。干渉が民主主義を改善するものでなければ、結局は対立をあおり、「イスラム国」のような勢力が支配地域を広げるだけだ。

 (b)ムハンマド・ホサム・ハフェズ(シリア、反体制派外交部門トップ)
  フセイン政権で支配層のイスラム教スンニ派がシーア派の人々を迫害していた。フセイン政権が倒れた後も、宗派や民族の対立から一方を抑圧するような政策が続いた。「イスラム国」の台頭は、こうした不公正の土壌があったからだ。

 (c)バシル・アブドルファッターハ(エジプト、デモクラシーレビュー前編集長)
  中東が抱えるさまざまな難問が「イスラム国」の存在意義になっている。
  イスラム世界と、米国が支援するイスラエルは60年にわたる紛争を続けてきた。水利権や資源、国境についての問題もずっとあった。「イスラム国」はこうした誰も解決できなかった問題を、自分たちなら解決できると主張する。中東の諸問題の存在が「イスラム国」樹立につながった。

 (d)レジェプ・シェンチュルク(トルコ、ファーティフ・スルタン・メフメト・ワクフ大教授)
  「イスラム国」は、預言者ムハンマドの代理人である「カリフ」が統治する「国」を称する。
  「イスラム国」は同じイスラム教徒も殺している。イスラムの名を使って自分たちを正当化している。命を大切にするのがイスラムの教えであり、彼らのやっていることは全く逆だ。

 (e)内藤正典(同志社大大学院教授、司会進行)「内戦見捨ててきた」
  シリア内戦はすでに4年にわたっており、率直に言って国際社会はこれを見捨ててきた。
  今の世界で最も困難に直面している人々と社会、その多くは中東とイスラム世界にあり、そこに向きあうことで、新しい学問や知の体系を生み出していける。

(2)討論
 (f)アブドル・バリ・アトワン(英国、ラーイアルヨウム編集長)
  「イスラム国」の統治について、土地を持ち、軍を持ち、内閣を持ち、通貨を持ち、国旗を持ち、テレビ・ラジオ局を持ち、メディアを持ち、11の油田を持つ。住民を残虐な行為で恐怖に陥れる一方、税金をとって、見返りにサービスを提供する。これは「国」だ。

 (g)田原牧(東京新聞特別報道部記者)
  中東のこれからをどうみるか。「イスラム国」をことさらに特別視するべきではない。カリフ制を名乗る勢力はこれまでにもあった。現状は、「アラブの春」(2011年に拡大)の長いプロセスの一過程だ。独裁が倒れて、別の政治思想が台頭しているということだ。

 (h)末近浩太(立命館大教授)
  軍事的な解決策は、短期的な解決にはなっても、長期的にはしこりを残す。中東の人々が主人公になって平和的に過激派を退けるべきだ。

 (i)/(d)’シェンチュルク教授
  中東各国がそれぞれの宗派や政治思想にこだわり、分断が深まっている。EUは、国民国家としての垣根を下げて、域内の多様性を守ろうとしている。中東の各国は、宗派間の争いが激しく、多様性を受け入れられず、紛争の原因になっている。これまでの国民国家という形を超えて、少数派を権力に受け入れる「包摂」の概念で紛争を予防するべきだ。

(3)総括「安定化の手立て、容易な答えはない」/石合力・朝日新聞国際報道部長
 列強が人工的に引いた国境線が崩れ、権力の空白を「イスラム国」が埋める。宗派対立が極限に達し、周辺国への圧力や難民の流出が続く。
 イラクとシリアにまたがって勢力を拡大した「イスラム国」。支配面積は英国にも匹敵する。人質殺害で世界を揺るがす「中東で最も過激な組織」はなぜ急速に台頭したのか。
  (a)現在の混乱は、第1次大戦後のオスマン帝国崩壊の延長線上にあるのか。
  (b)過激で復古的なイスラム解釈の一方で、メディア戦略にも長じた彼らの動きを「脱近代化」で説明できるのか。
  (c)独裁に代わる安定化の手立てはないのか。
 どれも容易な答えはない。スンニー派至上主義をうたう「イスラム国」の源流は、米国が主導したイラク戦争後の宗派別支配にさかのぼる。戦後復興を宗派ごとの分割統治で進めた結果、宗派対立は修復不可能なまでに広がった。米国こそが、このモンスターを生み出した。
 その米国が維持しようとする中東諸国の国境線は、第1次大戦中に英仏列強が秘密裏に結んだ「サイクス・ピコ協定」に基づく。何という不条理!
 グローバル化と情報革命がもたらした一時的な「春」の後、中東は、安定につながる新たなパラダイム(規範)を探しあぐねている。

□記事「「イスラム国」どこから来たか シンポ「中東崩壊の抑止」」(朝日新聞デジタル 2015年2月3日)
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