長良川温泉 ホテルパーク

人気温泉旅館ホテル250選!岐阜城に一番近いホテル★桜満開お花見に! 高橋尚子マラソン・温泉エステがオススメ!

加納城

2021-01-25 22:33:00 | 岐阜周辺お城巡り

 天下分け目の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、大坂城の豊臣氏に対するため、合戦直後、加納に城を築きます。




その場所は戦国時代の城館の跡で、東・南は荒田川、北は清水川に囲まれた場所でした。さらに西には長刀堀(なぎなたぼり)を掘り、四方を川と堀で囲まれた、水に浮かぶ城を造り上げました。  




 初代城主には長女亀姫(かめひめ)の婿である奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を任じ、10万石を与えました。その後奥平氏3代、大久保氏1代、松平(戸田)氏3代、安藤氏3代、永井氏6代といずれも譜代(ふだい)大名が城主となり、明治を迎えます。




明治5年から6年にかけて、城内の建物は取り壊されてしまい、その後堀も埋められてしまいましたが、本丸周辺や二の丸の北側など石垣が残り、当時の姿を偲ぶことができます。 





 本丸は東に出っ張りを持つ、凸の字形をしています。これは出枡形(でますがた)という防御施設を、本丸の正門に設けたものです。






この形は初期の徳川の城に見られる特徴で、加納城はその初現にあたることから、「加納城型」ともいわれています。  







 昭和58年本丸が国の史跡に指定されて以降、発掘調査を実施しています。平成11年度の発掘では、南門の土塁(どるい)の跡が見つかると同時に、江戸時代の加納城の下に戦国時代の城館の土塁が見つかりました。






言い伝えの裏付けができた大発見といえます。平成16・17年度には、大手口北の堀から堀障子(ほりしょうじ)が見つかりました。今まで全く想定されていなかったもので、新たな事実が明らかとなっています。平成19年度には、大手口の石垣や櫓門(やぐらもん)の柱を支えた礎石(そせき)が発掘されました。石垣はこの部分だけ綺麗に平らに割った石を使っており、本丸正門の美観を意識したものと見られます。  




 現在の二の丸は北側を除き、石垣が埋められてしまっているので正確な範囲が分からなくなっています。発掘調査で、東側の石垣や厩曲輪(うまやぐるわ)との通路の石垣が見つかり、範囲が明らかになっています。






また二の丸には城主が暮らす御殿がありましたが、平成12年度の発掘調査で、その一部と見られる礎石が発見されました。

加納城散策 彼岸花が満開です

2020-09-29 09:20:00 | 岐阜周辺お城巡り
岐阜市
加納城今が彼岸花が満開です。

令和二年九月二十九日撮影











天下分け目の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、大坂城の豊臣氏に対するため、合戦直後、加納に城を築きます。その場所は戦国時代の城館の跡で、東・南は荒田川、北は清水川に囲まれた場所でした。さらに西には長刀堀(なぎなたぼり)を掘り、四方を川と堀で囲まれた、水に浮かぶ城を造り上げました。








  
 初代城主には長女亀姫(かめひめ)の婿である奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を任じ、10万石を与えました。その後奥平氏3代、大久保氏1代、松平(戸田)氏3代、安藤氏3代、永井氏6代といずれも譜代(ふだい)大名が城主となり、明治を迎えます。明治5年から6年にかけて、城内の建物は取り壊されてしまい、その後堀も埋められてしまいましたが、本丸周辺や二の丸の北側など石垣が残り、当時の姿を偲ぶことができます。 









 本丸は東に出っ張りを持つ、凸の字形をしています。これは出枡形(でますがた)という防御施設を、本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川の城に見られる特徴で、加納城はその初現にあたることから、「加納城型」ともいわれています。 






 
 昭和58年本丸が国の史跡に指定されて以降、発掘調査を実施しています。平成11年度の発掘では、南門の土塁(どるい)の跡が見つかると同時に、江戸時代の加納城の下に戦国時代の城館の土塁が見つかりました。言い伝えの裏付けができた大発見といえます。平成16・17年度には、大手口北の堀から堀障子(ほりしょうじ)が見つかりました。今まで全く想定されていなかったもので、新たな事実が明らかとなっています。平成19年度には、大手口の石垣や櫓門(やぐらもん)の柱を支えた礎石(そせき)が発掘されました。石垣はこの部分だけ綺麗に平らに割った石を使っており、本丸正門の美観を意識したものと見られます。 






 
 現在の二の丸は北側を除き、石垣が埋められてしまっているので正確な範囲が分からなくなっています。発掘調査で、東側の石垣や厩曲輪(うまやぐるわ)との通路の石垣が見つかり、範囲が明らかになっています。また二の丸には城主が暮らす御殿がありましたが、平成12年度の発掘調査で、その一部と見られる礎石が発見されました。

加納城巡り

2019-09-29 09:13:06 | 岐阜周辺お城巡り
加納城は徳川家康の義理の息子である奥平信昌の居城として知られています。


「関ケ原の戦い」後に岐阜城は破却され、その代わりとして天下普請として築城されました。

縄張は家康自ら行ったとされ、普請奉行は本多忠勝が務めたそうです。

建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城山頂にあった天守を移築して、二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられています。

また、歌川広重の『木曽海道六十九次』のうち「加納」に加納城の一部が描かれています。




令和元年9月29日
彼岸花が咲き誇る
加納城です。







日本どまんなか お城スタンプラリー

2015-06-09 15:12:58 | 岐阜周辺お城巡り
日本どまんなか
お城スタンプラリー
のご案内
平成27年3/28~11/30まで

お城を巡ってスタンプを集め、
ステキな賞品をもらおう!

岐阜県内は
岐阜城
大垣城
墨俣一夜城
郡上八幡城
の四城です。

ステップ1
ラリーカードをゲット!

ステップ2
お城を巡ってスタンプを押そう!

ステップ3
大垣城を含めた
五つ以上のスタンプを集め、
奥の細道むすびの地記念館へ!

ステップ4
もれなく参加賞ゲット!
巡ったお城の缶バッチと
おいしい大垣の水
がもらえます。

富山県
福井県
長野県
岐阜県
静岡県
愛知県
滋賀県
三重県
神奈川県
以上の21城が対象です。

皆さん
じっくりお城巡りいかがでしょうか。

信長夢街道 スタンプラリー 2014 のご案内

2014-08-17 14:17:35 | 岐阜周辺お城巡り
信長夢街道スタンプラリー2014のご案内
平成26年11月30日まで
岐阜城
清洲城
小牧城(小牧歴史館)
安土城(安土城郭資料館)
でスタンプラリーを開催しています。


アクセスは

お車では

JR東海、名鉄では

岐阜城
清洲城
小牧城(小牧歴史館)
安土城(安土城郭資料館)
を巡り、スタンプをすべて集めたら
記念品がもらえます。

天下布武の岐阜城
信長公の集大成 安土城
天下統一への第一歩 清洲城
美濃攻略の拠点 小牧城

一日でスタンプラリーを巡る旅
いかがでしょうか?

岐阜周辺お城巡り 墨俣一夜城編

2014-06-30 21:29:05 | 岐阜周辺お城巡り
築城時期は不明である。
長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた
(墨俣川の戦い)。

斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、

木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。

これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。

現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。

公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実上の外観とは異なる、

また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。

岐阜周辺お城巡り 加納城編

2014-06-30 21:14:55 | 岐阜周辺お城巡り
加納城は2重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約600メートル、東西約300メートル)であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、外堀は、荒田川(東側)、清水川(北側)、長刀堀(西側:現在の加納長刀堀(かのうなぎなたぼり))、加納中学校付近に南の外堀があった。

本丸は方形を成し、そこから外枡形が突出している。これは初期徳川系城郭の特徴とされており、「加納城型」とも呼ばれている。主な曲輪として本丸とその西に二ノ丸、北に厩曲輪・三ノ丸、南に大藪曲輪がある。

本丸に天守台はあったが天守は建てられず、代わりに二ノ丸に御三階櫓が建てられていた。当初は天守の建設が予定されていたが、名古屋城に天守が建設された為に必要が消えて造られなかったという。この城の石垣には加工するにはあまり適さないチャートが使われている。

城下町・加納は、東に配置された武家地と、北側にある中山道53番目の宿場である加納宿。

御三階櫓
御三階櫓は、享保13年(1728年)に書かれた城絵図[1]によれば独立式層塔型3重4階である。二ノ丸の東北隅に建てられ、現存当時は「お三階」と呼ばれていた。 慶長6年(1601年)廃城となった岐阜城山頂にあった天守を移築したものと伝えられ、絵図面からは、東西面と南北面とで柱間寸法に違いがあるなど改変の跡と見られる構造が覗える。[2]

享保13年に落雷による大火で焼失し、そのまま廃藩置県を迎える。現在は同地に岐阜地方気象台がある。

歴史・沿革編集

前期加納城
文安2年(1445年)に川手城の備えのため、土岐氏の家宰の斎藤利永によって沓井城として築城された。船田合戦では斎藤妙純の居城となっていた。しかし、天文7年(1538年)にはすでに廃城となっている。

後期加納城
関ヶ原合戦の結果、それまで岐阜城を本拠地にしていた織田秀信(信長の孫息子)が追放され、慶長6年(1601年)に岐阜城は破却された。そして、都市名は関ヶ原合戦前の「岐阜」から「加納」に改名され、岐阜城の代わりとして翌1602年7月1日から加納城が築城され、9月に徳川家康の義理の息子である奥平氏が入城した時には本丸・二ノ丸は完成していたようである。縄張は徳川家康自身が行ったとされ、普請奉行は本多忠勝とし近隣の大名を動員した。いわゆる天下普請である。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二ノ丸御三階櫓として利用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長7年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。

寛永9年(1632年)に奥平忠隆が死去、嫡子がいないために改易されると従兄弟の大久保忠職が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代にわたり城主を務めるが移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井信陳が加納藩主となり、明治維新に至るまで永井氏の居城となった。

近代
明治4年(1871年)、廃藩置県によって加納県の県庁が置かれたが、同年11月に岐阜県へ合併した。翌、明治5年(1872年)、廃城令により城は廃城処分となり建物は破却。城門などは売却された。明治33年(1900年)、岐阜県師範学校が跡地に置かれ、本丸跡を運動場とした。明治39年(1906年)三の丸跡に加納尋常小学校が移転される。昭和14年(1939年)、本丸跡が陸軍第51航空師団司令部となり、戦後は昭和29年(1954年)から昭和50年(1975年)まで自衛隊の駐屯地が置かれるなどした後、昭和58年(1983年)10月28日に加納城跡として国の史跡に指定された。

近年の発掘調査で枡形や前期加納城の土塁・礎石の跡、埋没した石垣や井戸跡、多くの土器などが出土した。遺構は調査後に埋め戻され、現在では加納公園(本丸跡)と周辺に石垣、堀跡などがわずかに見られるのみである。