京都府亀岡市で登校中の小学生の列に車が突っ込み10人が死傷した事故で、遺族らが2日、無免許運転で事故を起こした無職少年(18)をより重い危険運転致死傷罪で起訴するよう求め、京都市などで署名活動を行った。
遺族らは、亡くなった家族の写真をプリントしたTシャツを着て署名を呼び掛けた。死亡した松村幸姫さん(26)の父中江美則さん(48)は「死んでいった子どもたちの悔しい気持ちを伝えていきたい」と訴えた。
亡くなった小学2年小谷真緒さん(7)の母絵里さん(30)は「無免許運転の人はもっといると思うが、また真緒みたいな被害者が出るのはつらい」と話した。 (時事通信 6月2日(土)12時14分配信)
法改正を求める署名運動なら理解できるが、適用についての署名運動には同意出来ない。検察は熟慮して適用が困難ととして危険運転致死罪での起訴を見送っている。危険運転致死罪の要件を満たしていないためだが、要件は立法で定められるべきものであり適用において変わってはならない。署名によって要件が変わるような事があっては法治国家とは言えない。
刑罰において以前は被害者感情が軽視されていると言われていたが、最近は逆に被害者感情が強調され過ぎているのではないだろうか。家族を失う被害者遺族としては殺人であろうが、過失による交通事故であろうが家族を失った事には変わりない。法律で被害者意識を満足させようとなるとどうなるか。交通事故でも死刑となりかねない。がそんな事が認められるわけではない。それを補うものが損害賠償と言う民事訴訟ではないだろうか。
法律は万能ではない。刑事、民事を組み合わせる事によって補完しあい、被害者を救済しようとするものではないだろうか。損害賠償は交通事故などであれば保険制度で加害者に過分な負担がかからないように考慮されている。一方今回のような無免許運転では保険の適用は制限され加害者が重い負担を負う事になる。飲酒運転も同じことである。
刑事と言う一面だけでなく、民事も含めて考えてみる必要があるのではないだろうか。
ただ民事で損害賠償義務の履行責任の担保は別途必要であると思う。履行責任を果たさない場合の刑事罰は認められるべきだろうが、該当事案そのものの刑事罰がそれに代わるものではないと考える。
・事実を単純化しやすい報道に影響された市民が署名の目的が実現したばあいにおきる影響をよくかんがえずに感情にまかせて署名してしまう。
・署名は遺族感情をバックにした「民意」となるために、司法や政治では異論をはさむのがむずかしくなる。
マスコミがさわいだ事件ほど重罰化されやすく、署名活動がもりあがりやすいのは被告人の権利保護からいうとよいことではないとおもいます。
この10年間の交通事故報道は被害者の属性と加害者の悪質性というミクロの視点にとらわれているようにおもいます。今回の事故では、交通死亡事故がへっていること、これからは高齢者の事故が問題になってくることをもっと報道すべきだったはずです。
交通事故の重罰化は刑期をおえた加害者を社会がどうむかえいれるかという視点がぬけおちており、被害者遺族への賠償をむずかしくするという弊害にも注目されるべきではないでしょうか。