ほたに けいいちろう のブログ

浦安が好きな一市民のブログです。

底辺拡大予備軍のあきらめた子供たち

2012年02月29日 | 日記

優秀な人たちは自分たちの改革がなぜ成果をもたらさないか疑問に感じているのではないだろうか。頑張ればば道は開けるように改革しているのになぜ頑張らないかわからないのではないだろうか。色々改革は行われているが、むしろあきらめてしまう子供が増えて大人になってもあきらめてしまい底辺を拡大し、社会市場全体を縮小させてしまい母体の市場が縮小してしまうので頑張る人も頑張った割には以前ほど成果を得られなくなってしまっているのではないだろうか。

日本は世界の中では豊かな社会となっている。あきらめていても生きてはいける。家族は持てなくとも自分一人なら生きていける社会ではないだろうか。かと言ってアメリカのようにスパニッシュ系の人々を肥やしに出来るような社会でもない。肥やしがなく、土がどんどん活力を失っている社会ではないだろうか。活力を失った土に立派な植物を植えても砂上の楼閣と言うものではないだろうか。一見成功者に見えても明日の事はわからない不安な時間が過ぎていく。

あきらめてしまった子にいくら発破をかけても無駄である。かえって自分の殻に閉じこもってしまう。現代は昔より閉じこもれる場所も増えている。しかも逃げ込む道をふさぐ事は不可能と言う状況ではないだろうか。追い込んでも逃げ道に逃げ込んでしまうだけだ。逃げ道に逃げ込んでも将来は底辺になると言っても効果は無い。今が大事なのであるのだから。明日生きていけないのに10年後の事を言われても考える事は出来ない。

悪循環に陥っているのは確かだろう。その悪循環を断ち切るのは難しいし、現代にはそれを解決できるようなリーダーとなりえる人もいない。


肉食系橋下流教育改革で草食系子供は生き返るだろうか。

2012年02月28日 | 日記

橋下大阪市長が肉食系である事には異論はないだろう。肉食系らしい改革案を色々打ち上げている。閉塞感のある時代には大衆をひきつけるものであり扇動のうまさを感じる。しかし教育関係に関しては疑問符をつけざるを得ない。

橋下市長自体相当な負けず嫌いであり、上昇志向の強い人物である事は異論はないと思う。その教育改革も負けず嫌いであり、上昇志向の強い子供を意識しているように感じる。本人自身そうでなければこれからの社会では役に立たないと考えているのではないだろうか。極論すれば負けず嫌いでなく、上昇志向もない人間は意欲が無く淘汰されても良いと考えているのではないだろうか。おそらく草食系特に男子には不満を持っているに違いない。草食系は社会に寄生するだけで価値は無いと考えているんじゃないかとさえ思う。

そもそも橋下改革で救われる生徒がどれだけいるだろうか。橋下改革で生き返る事が出来るような負けず嫌いで上昇志向の強い子はそもそもあまり落ちこぼれる事は無い。何かのきっかけで道を外れて落ちこぼれただけで何かの機会があればすぐに立ち直れる。

多くの落ちこぼれた子は橋下流に対して最初からあきらめてしまうだろう。戦後直後のような貧しい時代なら生きるのに必死でそんな事も言っていられないだろうが、現代はそういう時代でもない。生活保護も整備されている。生きている価値が無いと切り捨てる事も出来ない。社会の負担となるだけだろう。

今までも色々な教育改革が考えられてきたが、エリートは育てられても落ちこぼれは救えていない。しかし落ちこぼれを底上げしないと社会全体は沈滞してしまうのではないだろうか。教育改革は優秀な人たちが考えてきた。優秀な人たちはあきらめてしまう子の事は理解出来ていない。空回りし続けているのが橋下流も含めた今までの教育改革ではなかったのではないだろうか。

 


学校は勉強を嫌いにさせる所?

2012年02月27日 | 日記

学校で教わって勉強が好きになった科目が無かった。嫌いになった科目はあるが、好きになった科目はなかった。それは特に中学校に入ってからはそうだった。小学校で特定の科目が嫌いにはあまりならなかった。音楽くらいだったような気がする。音楽自体ではなく、音楽の授業は嫌いだった。

なぜかと今考えてみると中学校からは先生は自分の専門の科目を教える、小学校でも高学年では音楽は専門の先生が教えていた。小学校の先生には子供が好きだから先生になった人が多いのではないだろうか。中学校も教える事は好きと言う共通点はあるが、自分の科目が好きだからその科目の先生になったのではないだろうか。

ここに大きな違いと原因があるような気がする。自分はその科目が好きだったからその科目を選択したと思うが、生徒の誰しもがその科目が好きだとか関心があるとは限らない。興味の無い子も多いだろう。ところが多くの先生は教えれば誰でも好きになると思っているんじゃないか。少なくとも嫌いになる理由がわからない。自分は好きになったのにどうしてその子は興味すら持たないのか。いくら先生が好きでもそれを押し付けても好きにはならない。嫌いになってしまうものではないだろうか。いくら自分で美味しい食事だと思っていても嫌いな子に食べていないから美味しさがわからないのだと無理に食べさせても嫌いになっても好きになる事は少ないのではないだろうか。子供の頃好き嫌いをなくすと言う事で無理やりナスを食べさせられたが、トラウマで今でもナスは食べないで捨てている。

化学は嫌いだったが、中学の頃課題レポートを出したが、そこに書かれていたのは「汚染されているのは君の頭だ」。下水の汚染問題だったが、工場排水は法で規制もでき、大規模だから対策も可能だが家庭排水は法でも実際でも難しく家庭排水による汚染が問題ではないかと書いたレポートの評価がこうだった。それですっかり化学の教師自体への不信感が芽生えた。高校で数年ぶりに化学の授業があったが、最初に原子記号表?原子記号の配列表の試験があったが事前に予習などしていなかった自分は全く記憶になくまるで出来なかった。3年前には覚えたがその頃にはすっかり忘れていた。言われていれば少しは勉強していたかも知れないが、興味が無い科目だったので予習など全くしていなかった。それをその先生がこちらに聞こえる様に担任の先生に原子記号表を覚えていない生徒がいると嫌味を言っていた。化学の先生からすれば事前に原子記号くらい覚えているのが常識だったんだろう。しかしそれは化学に特に関心の無かった自分には常識ではなかった。ぎりぎりで赤点はのがれたが進級した時化学関係の教科書などはすべてすぐゴミ箱に捨てた。

素直な子であれば自分のような事は無いだろうし、多くの子素直であるだろうが、素直な子ばかりではない。なんでこんな事勉強しなきゃならないんだと思う子も多いのでは。学生は勉強するものだと言われてもそう思う事は無いだろう。自分の好きな学問に興味を持ってもらえないのは残念だろうが、誰しも興味を持ってくれるものではないと言う意識が先生には必要ではないだろうか。


目先の票欲しさに配偶者控除廃止を撤回するのか。

2012年02月26日 | 日記

岡田副総理は25日、三重県四日市市の講演で、民主党が2009年の衆院選政権公約(マニフェスト)に盛り込んだ配偶者控除の廃止について、撤回する可能性を示唆した。

岡田氏は「配偶者控除の廃止はマニフェストに書いているが、党でも意見が分かれてしまう。(党内の)議論は停滞しているのが現状だ。次のマニフェストにどう書くかきちんと党の中で議論したい」と述べた。 民主党はマニフェストで、専業主婦がいる世帯の税負担を軽くする配偶者控除を廃止し、子ども手当の財源に充てるとしていた。しかし、同党は主婦層の反発を恐れて廃止決定を先送りした経緯がある。
2012年2月25日20時06分  読売新聞)
 
年金制度の破たんも昔から言われていたが、高齢者の票を失う事を恐れ改革を先送りした結果手遅れとなり大手術が避けられない状況に追い詰められているが今度は配偶者控除廃止も主婦層の票を失う事を恐れ先送りしてしまうのか。配偶者控除廃止は夫は外で働き妻は家庭で家を守ると言う古典的家庭観に固執する旧守層も反対する事であり、抵抗感は強いが与野党なく論議すべき事項ではないだろうか。
多くの女性が外で働くようになり、夫は外で働き妻は家庭で家を守ると言う古典的家庭観は時代にそぐわない事は事実ではないだろうか。多くの社会制度モデルが時代にそぐわない古典的家庭観を前提に構築されている事も制度が円滑に機能しない原因だと考えるべきだろう。
いきなり配偶者控除を廃止しろとは言わないが廃止を検討すべき時代になっている事は確かではないか。その他の社会制度も家族単位ではなく、個人単位に前提を変えない限り機能不全に陥る事は明白な事実であると認めるべきだろう。幾ら旧守層が反対しても古典的な家庭はどんどん減少していっている。この流れは止まらない。流れを変える事も出来ない。
家族単位から個人単位に社会制度の前提を変え、社会制度の再構築が必要だろう。

教育を人気取りに利用してはならない。留年ではなく、日々の補習を考えるべきではないだろうか。

2012年02月25日 | 日記

児童・生徒を人質にするような政治闘争もすべきではないが、教育問題を人気取りに利用すべきではない。自由さが強調されてきた反動でスパルタ式がもてはやされる傾向もあるが、日本人はどうしてこうまで極端から極端になるのか。個性の重視の反動が今度は個性の無視となる。戦前の全体主義の反動の戦後の個人主義の反動で再び全体主義。

民族的にまじめな日本人は良い所だけを取り入れると言うのが苦手なのだろうか。左右を混ぜ合わせて新しい体系を作るのが苦手なのであろうか。左右対立か今度はあいまいで問題の先送りとなる。

人間は全知全能の神ではない。人間には絶対的な最善策を見出す事は出来ない。試行錯誤に連続が人間の宿命ではないだろうか。

ところが絶対的な回答らしきものは素晴らしいものと感じてしまう。これが最善なのだと自信を持って言い切られてしまうと最善があるのだと錯覚してこれを支持してしまう。これを行えばすべてがバラ色の世界になると思い、熱狂してしまう。古くはヒトラー、最近では小泉首相、今の橋大阪市長などではないだろうか。

しかし現実の世界はわけのわからない要因で結果が左右される。いつかは熱は冷めてしまい、残るのは焦燥感だけである。これを人類は繰り返してきたのではないだろうか。

教育を根本的に変えるような万能薬は無い事を知る事が大事ではないだろうか。今出来る事は留年などの制度を新たに導入する事ではなく、日々の補習を行う事ではないだろうか。雑用が多くて先生もなかなか補習までには手が回らない。雑用から先生を解放して、補習を行える環境作りが先ではないだろうか。長い期間をかけないと効果の見えるものではない。焦って改革するのではなく、気持ちの余裕を持ちゆっくり少しずつ改善していくことが必要なのではないだろうか。