私の原爆に対する思いを、FBや手配りニュースなどに書いたことから、小倉が原子爆弾の投下目標だったことを初めて知った方もいるようだ。
なぜ、小倉だったのか。
それは、「ふ号作戦」の武器である風船爆弾の全国最大の工場が、小倉にあったからである。
第二次世界大戦末期、アメリカが原爆を開発し、ドイツがV2号ロケットを開発しているときに、日本は和紙とコンニャクで風船爆弾を作り、7000キロも離れたアメリカ本土を攻撃しようと計画し、実行した。
これが「ふ号作戦」である。
当時の金にして2億5000万円の巨費をかけた重要作戦だ。
この作戦は、日本本土へのB25爆撃機による空襲が始まり、ミッドウェー海戦に敗れ、ガダルカナル島から撤退した1942年、アメリカ本土攻撃はできないかという大本営の指示で始まった新兵器開発であった。
参謀本部では、北半球に日本からアメリカに向かって吹く偏西風、いわゆるジェット気流を利用して、アメリカ本土を攻撃する事が、真剣に話し合われ始めた。
この作戦には、東大航研、中央気象台、精工舎、藤倉工業、国産科学、中外火工、横河製作所、久保田無線、三田無線所などが協力したという(水素ガスは昭和電工が供給)。
当時の日本の最高の頭脳を集めて、この作戦は進められたのであった。
1944年になると、手漉き和紙の伝統ある産地に増産命令が出される。
参謀本部は2万5000個の生産命令を出した。
このころ、障子、奉書、襖、傘、提灯などの和紙の生産は、中止され、コンニャクも店からなくなった。
原紙張りは、新京(満州)、山形、福島、埼玉、長野、小田原、静岡、岐阜、高岡、福井、鳥取、京都、大阪、島根、岡山、広島、山口、香川、徳島、愛媛、高知、八女、佐賀、大分、熊本などで行われた。
この原紙の組み立て工場は、造兵厰以外に、国際劇場、東宝劇場、宝塚劇場、有楽座、日劇、国技館などでも行われた。
完成品は千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の3基地からアメリカに発射された。
9300個を打ち上げ、約1000個が、アメリカ大陸に到着した。
アメリカでは、1944年11月4日に海軍パトロール機がカリフォルニア州で発見したのをきっかけに、次々と発見されたが、歴史上初の敵空襲であり、知らされると国民の不安も大きいと、徹底した報道管制を引いたらしい。(1945年の牧師一家の爆死事故が、オレゴンの悲劇として報道され、管制は破れた)
そして、気象学者をはじめ、徹底研究がされ、日本のどこから放球されたかなど調べあげた。
1945年2月に、製造は中止され、アメリカへの攻撃は3月に2500個、4月に400個で中止となった。
もともと、偏西風の吹く3月までが計画だったと考えられるが、八女では終戦の前日の8月14日まで原紙張り作業が行われているところから、45年の秋には、再開するつもりでいたようである。
しかし、アメリカの報道管制もあり、日本には到着確認情報が1件しか入ってきていないことは、参謀本部の意欲を失なわさせていたようだ。
この風船爆弾が、一貫して大量に製造されていたのが、小倉の軍事工場であった。【写真の小倉城は、軍事工場の北側にあった】
西日本最大の軍事工場が、街の中心にデーンとあり、軍都であった。
この街に原爆が落とされ死の街になっていたら、今日、つれあいの親族は、ほとんどこの世にはいない。
当然、つれあいも、そして、わが子たちも。
戦争とはなにか、平和な世界をつくるために人類はなにをしなければならないのか、私たち大人には、子どもたちの世代に伝えていく責任がある。
広島、長崎、ビキニ、福島。
私たちがしなければならないことは、核兵器をなくし、放射能の危険から、子どもたちとわが星・地球を守る事である。(^-^)/
なぜ、小倉だったのか。
それは、「ふ号作戦」の武器である風船爆弾の全国最大の工場が、小倉にあったからである。
第二次世界大戦末期、アメリカが原爆を開発し、ドイツがV2号ロケットを開発しているときに、日本は和紙とコンニャクで風船爆弾を作り、7000キロも離れたアメリカ本土を攻撃しようと計画し、実行した。
これが「ふ号作戦」である。
当時の金にして2億5000万円の巨費をかけた重要作戦だ。
この作戦は、日本本土へのB25爆撃機による空襲が始まり、ミッドウェー海戦に敗れ、ガダルカナル島から撤退した1942年、アメリカ本土攻撃はできないかという大本営の指示で始まった新兵器開発であった。
参謀本部では、北半球に日本からアメリカに向かって吹く偏西風、いわゆるジェット気流を利用して、アメリカ本土を攻撃する事が、真剣に話し合われ始めた。
この作戦には、東大航研、中央気象台、精工舎、藤倉工業、国産科学、中外火工、横河製作所、久保田無線、三田無線所などが協力したという(水素ガスは昭和電工が供給)。
当時の日本の最高の頭脳を集めて、この作戦は進められたのであった。
1944年になると、手漉き和紙の伝統ある産地に増産命令が出される。
参謀本部は2万5000個の生産命令を出した。
このころ、障子、奉書、襖、傘、提灯などの和紙の生産は、中止され、コンニャクも店からなくなった。
原紙張りは、新京(満州)、山形、福島、埼玉、長野、小田原、静岡、岐阜、高岡、福井、鳥取、京都、大阪、島根、岡山、広島、山口、香川、徳島、愛媛、高知、八女、佐賀、大分、熊本などで行われた。
この原紙の組み立て工場は、造兵厰以外に、国際劇場、東宝劇場、宝塚劇場、有楽座、日劇、国技館などでも行われた。
完成品は千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来の3基地からアメリカに発射された。
9300個を打ち上げ、約1000個が、アメリカ大陸に到着した。
アメリカでは、1944年11月4日に海軍パトロール機がカリフォルニア州で発見したのをきっかけに、次々と発見されたが、歴史上初の敵空襲であり、知らされると国民の不安も大きいと、徹底した報道管制を引いたらしい。(1945年の牧師一家の爆死事故が、オレゴンの悲劇として報道され、管制は破れた)
そして、気象学者をはじめ、徹底研究がされ、日本のどこから放球されたかなど調べあげた。
1945年2月に、製造は中止され、アメリカへの攻撃は3月に2500個、4月に400個で中止となった。
もともと、偏西風の吹く3月までが計画だったと考えられるが、八女では終戦の前日の8月14日まで原紙張り作業が行われているところから、45年の秋には、再開するつもりでいたようである。
しかし、アメリカの報道管制もあり、日本には到着確認情報が1件しか入ってきていないことは、参謀本部の意欲を失なわさせていたようだ。
この風船爆弾が、一貫して大量に製造されていたのが、小倉の軍事工場であった。【写真の小倉城は、軍事工場の北側にあった】
西日本最大の軍事工場が、街の中心にデーンとあり、軍都であった。
この街に原爆が落とされ死の街になっていたら、今日、つれあいの親族は、ほとんどこの世にはいない。
当然、つれあいも、そして、わが子たちも。
戦争とはなにか、平和な世界をつくるために人類はなにをしなければならないのか、私たち大人には、子どもたちの世代に伝えていく責任がある。
広島、長崎、ビキニ、福島。
私たちがしなければならないことは、核兵器をなくし、放射能の危険から、子どもたちとわが星・地球を守る事である。(^-^)/
父は、小倉に勤労動員で行かされていました
風船爆弾を作る工場があったから、というのは初めて知りました。