今日で三月が終わりです。
新型コロナウイルス感染防止には 三密を避けることが大切
三密 = 密集 密閉 密接 で 三密
今は さんみつ と キーボード入力すると 正しく密の字が出てきますが
最初は 蜜が表示さることが多く 友人に 間違ったまま送信したり 訂正したり(*'▽')
小池知事の『ナイトクラブ』って言葉に 蜜に集まる夜の蝶々を思い浮かべたりヽ(^o^)
三密って 真言密教の修行の事なんですね
「三密」修行が目指すものを「加持」 三密加持
☆ ☆ ☆
真言密教の修行を「三密」の行といい、修行が目指すものを「加持」といいます。 この「三密」についてですが、仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いています。顕教では、人間のこれら三つのはたらきは、煩悩に覆われ汚れているということで三業(ごう)と呼んでいます。ところが、法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説く密教では、人間の三つのはたらきも大日如来の現れであるから、本質的には人間も大日如来と同じであるとしています。ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れないということから、密なるものという意味で「三密」と呼んでいます。
また、「加持」については『即身成仏義』の中で、次のように記されています。「加持とは如来の大悲と衆生の信心とをあらわす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」つまり、「加持」とは、人々の苦を憐れみ救おうとする大日如来の慈悲と、人々の信心とを表しており、あたかも太陽の光のような仏の力が、人々の心の水に映じ現れるのを「加」といい、 修行者の心の水が、その仏の日を感じ取ることを「持」といっています。
このことから「三密加持」とは、自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくことをいいます。 弘法大師は、 この修行によって授かる功徳の力と、大日如来の加護の力(加持力)が同時にはたらいて互いに応じ合う時、即身成仏が可能になると説いています。
■あるがままに自らの心を知る--------如実知自心
弘法大師は、悟りとは何かという点についても説き明かしています。経典である「大日経」の中には「云何(いかん)が菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」と記されており、「悟りとは何であるかというならば、あるがままに自分の心を知ることである(語訳)」と説いています。 私たちは、悟りといえば、 ごく限られた者だけが到達することのできる遠い彼方を想像しがちですが、弘法大師は、自らの心をあるがままに知ることであると教えているのです。
人は、ともすると弱者を思いやることを忘れ、自らを戒めることもなく、耐え忍ぶことを知らず、怠惰に過ごし、その結果として悩み、迷っています。弘法大師は、自らの心に目を向け、汚れた心を知り、省みることが大切であるといっているのです。 これが、真言密教の「如実知自心」という教えです。因みに「如」という字は大日如来の「如」と同じ意味であり、「如来」とは、「あるがままに、あるが如く、 世の中を見る仏の世界から来る」仏様という意味です。
(弘法大師の教えより)
この記事に接したのは 『Dr和の町医者日記』のお医者様のメルマガです。
その後 ずっと『Dr和の町医者日記』を拝見しています。現場の先生のギリギリの声が伝わります。
医療の現場で日夜頑張ってくださってる医療者のみなさん 感謝と感動です。
新型コロナウイルス感染防止には 三密を避けることが大切
三密 = 密集 密閉 密接 で 三密
今は さんみつ と キーボード入力すると 正しく密の字が出てきますが
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三密って 真言密教の修行の事なんですね
「三密」修行が目指すものを「加持」 三密加持
☆ ☆ ☆
真言密教の修行を「三密」の行といい、修行が目指すものを「加持」といいます。 この「三密」についてですが、仏教では、生命現象はすべて身(身体)、口(言葉)、意(心)という三つのはたらきで成り立っていると説いています。顕教では、人間のこれら三つのはたらきは、煩悩に覆われ汚れているということで三業(ごう)と呼んでいます。ところが、法身である大日如来を宇宙の根源的な生命力とみなし、森羅万象を大日如来の現れと説く密教では、人間の三つのはたらきも大日如来の現れであるから、本質的には人間も大日如来と同じであるとしています。ただ、大日如来のはたらきは通常の人間の思考では計り知れないということから、密なるものという意味で「三密」と呼んでいます。
また、「加持」については『即身成仏義』の中で、次のように記されています。「加持とは如来の大悲と衆生の信心とをあらわす。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく。」つまり、「加持」とは、人々の苦を憐れみ救おうとする大日如来の慈悲と、人々の信心とを表しており、あたかも太陽の光のような仏の力が、人々の心の水に映じ現れるのを「加」といい、 修行者の心の水が、その仏の日を感じ取ることを「持」といっています。
このことから「三密加持」とは、自らの身体、言葉、心という三つのはたらきを、仏様の三密に合致させ、大日如来と一体になることであり、具体的には、手に仏の象徴である印を結び(身密)、口に仏の言葉である真言を唱え(口密)、心を仏の境地に置くこと(意密)によって、仏様と一体になる努力をしていくことをいいます。 弘法大師は、 この修行によって授かる功徳の力と、大日如来の加護の力(加持力)が同時にはたらいて互いに応じ合う時、即身成仏が可能になると説いています。
■あるがままに自らの心を知る--------如実知自心
弘法大師は、悟りとは何かという点についても説き明かしています。経典である「大日経」の中には「云何(いかん)が菩提とならば、いわく、実の如く自心を知るなり」と記されており、「悟りとは何であるかというならば、あるがままに自分の心を知ることである(語訳)」と説いています。 私たちは、悟りといえば、 ごく限られた者だけが到達することのできる遠い彼方を想像しがちですが、弘法大師は、自らの心をあるがままに知ることであると教えているのです。
人は、ともすると弱者を思いやることを忘れ、自らを戒めることもなく、耐え忍ぶことを知らず、怠惰に過ごし、その結果として悩み、迷っています。弘法大師は、自らの心に目を向け、汚れた心を知り、省みることが大切であるといっているのです。 これが、真言密教の「如実知自心」という教えです。因みに「如」という字は大日如来の「如」と同じ意味であり、「如来」とは、「あるがままに、あるが如く、 世の中を見る仏の世界から来る」仏様という意味です。
(弘法大師の教えより)
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その後 ずっと『Dr和の町医者日記』を拝見しています。現場の先生のギリギリの声が伝わります。
医療の現場で日夜頑張ってくださってる医療者のみなさん 感謝と感動です。