図らずも歴史的なシーンに立ち会うことができました。
図らずも歴史的なシーンに立ち会うことができました。
流山に行ってみました。
流山にはかつて、糧秣廠とよばれた陸軍の施設がありました。
ここにあったのは糧秣廠の本拠地ではなく、倉庫(
今はイトーヨーカドーやビバホーム、流山南高校がある場所です。
流山は江戸川の水運と流鉄線という鉄路に恵まれ、
ここから江戸川の堤防まで200メートルほど、
施設の痕跡を探るべく、周囲を歩いて一周してみましたが、
残っているのは当時から施設の一角にあった千草稲荷という小さな
この神社は大正14年(1925年)
戦勝を願って働く工員たちの心の拠り所として信仰を集めたのでし
面積は20坪ほどでしょうか。
この台座には、陸軍糧秣本廠流山倉庫職員一同、大正15年7月1
建立時に作られたものだと思われます。
この灯篭には昭和11年6月1日とあります。
こちらの手水鉢の裏側には、陸軍糧秣本廠流山出張所所員一同、昭和17
つまり、この頃から出張所に昇格したと。組織としての機能を持ったということだと思われます。
神社の裏側(県道側)にはこんな掲示板が掲げられ、
元所長の瀧上浦治郎さんが執筆したようです。
以下、起こしてみました。
元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑
元陸軍糧秣本廠流山出張所跡碑について
当所は元陸軍馬糧倉庫として、
流山がこの基地に選定された主因は、干草、ワラの主産地が千葉、
やがて終戦となり、進駐軍に英和文リストを提出し接収された。
回顧すれば、大戦中は敵機の攻撃目標となり、爆弾も投下され、
右の実情に鑑み、ここに本碑を建立して、史跡の標識とし、
昭和五十五年八月十五日
元陸軍糧秣本廠流山出張所長
記念碑建設委員長 瀧上浦治郎
松戸市八柱に都立八柱霊園という広大な墓地があります。
千葉にあるのに都営とは奇妙ですが、昭和10年に東京市営として
嘉納治五郎といえば講道館を作った人であり、「柔道の父」
僕が訪ねたのはパリ五輪の柔道競技開幕の日です。
墓前には立派な鳥居がでんと構えています。
嘉納は昭和13年5月に没したそうです。
1938年、
最近知ったのですが、
ときは1896年、
1899年には亦楽書院を
弘文学院で学んだ留学生の中にはかの魯迅や黄興、
嘉納は日本における中国人留学生育成の祖でもありました。
灼熱の八柱霊園にはほとんど人の姿はなく、
嘉納は今年で没後86年です。
今や柔道は世界中で愛されるスポーツに成長し、
嘉納さん、
新京成線新八柱駅近くの踏切でこんな石柱を見かけました。
陸軍の境界石です。
当時ここにはどんな軍事施設があったのでしょうか。
ネットで探ってみると、
ということは、
演習場があったとされるのはみのり台駅の南側のようですので、
国立映画アーカイブ歴史映像ポータルに八柱作業場で行われた演習
なんとも迫力のある映像です。戦車が縦横無尽に走り、
この石柱もこれらの演習を見ていたのでしょうか。
かつて、松戸市に陸軍の飛行場がありました。
場所は今の陸上自衛隊松戸駐屯地とその西側に広がる松飛台地区で
何か痕跡が残っていないか、歩いてみました。
松飛台は工場や住宅が集まる場所です。
松戸飛行場が完成したのは戦時下の1940年です。
東西と南北にそれぞれ1.2キロメートルの滑走路があったのだと
建前としては民間パイロットの養成を目的としていたようですが、
実際、設立当初は逓信省航空局が管理していますが、1944年に
この南北に続く直線道路は消失点が見えなくなるまでひたすらまっ
東西にも同じく1,400メートルほどの直線道路があります。
これだけ長い直線道路は地図で見ても目を引きます。
松戸は下総台地のへりに当たるので比較的起伏が多いのですが、
しかし、今の松飛台はすっかり宅地化が進んでいて、
松戸駐屯地の中には飛行機の格納庫が残っているそうですが、
ネットの情報によると、
この空き地です。
いかがでしょうか。
この小石が混ざったモルタルはいかにも194
もはや掩体壕の形は残っていませんが、
モルタルからアンカーがはみ出しています。
しかし、雑草や枯れた木枝に覆われていて、
当時、東葛エリアは軍事施設が多かったの、
日記は再び東京編に戻りますが、まだ中国で撮りためた写真がたくさんありますので、ぼちぼちご紹介していくことにします。
軍機処は皇帝直属の軍事諮問機関です。雍正帝の時代に設立されました。
内廷の入口である乾清門の西側にあります。
小説「蒼穹の昴」には軍機処がよく出てきます。
小説では光緒帝の側近だった梁文秀や楊喜楨がここで執務を行い、出入りするシーンが描かれています。
実際に行ってみると、その規模の小ささと質素ぶりに驚きます。平屋建てで養心殿の南側に「ついでに」くっつけられているような感じです。
皇帝を支える大事な決定を行い、取り仕切ってきた重要な役割を果たした機関なので、もっと立派な建物を想像していましたが、拍子抜けするほどです。
そのせいもあってか、軍機処に注目している様子の観光客はほとんど見かけません。
これが全景です。長屋風です。壁の向こう側は養心殿です。
今は改修中とのことで、中に入ることはできませんでした。
牛街の東側です。
寺がつくられ始めたのは645年だそうですから、唐の第二代皇帝李世民が高句麗侵攻をしていた時代です。日本では大化の改新の年です。
中国語の文献によると、この寺の成り立ちにはこの高句麗遠征と関係があるようです。
遼の時代(916-1125年)の北京の中心地は、ちょうどこの辺りだったと伝わります。今は故宮を中心ににて南北の中軸線があって、東西に街が広がりますが、当時は違いました。
唐の時代からこの辺りが中心だったのでしょうか。
南側の山門をくぐると、樹高のある老木と広大な広場が出迎えます。右に鐘楼、左に鼓楼があります。
以降、北に向かって順に天王殿、大雄宝殿、観音殿、毘盧殿、大悲殿、蔵経楼とお堂が続きます。
法源寺の敷地内には中国仏学院と中国仏教図書文物館があり、多くの若い僧侶が行き交う姿がありました。
構内のいたるところに古そうな石碑が立っています。
北京でこの手の石碑を見かけると、たいていは乾隆帝のものですが、どうやらここのそれはそれ以前のものが多いようです。
風化で文字が読み取れなくなっているものもありますが、元や明代のものがあります。歴代皇帝から受けた信仰の篤さが伝わってくるようです。
このシロマツも古そうです。樹齢数百年はありそうです。
何気なく置いてあるこの大きな石鉢も古そうです。
風雪に耐え、動乱に耐え、よくぞここまで残ってきたものです。
明と清の時代はここが天下の中心と考えられてきました。
ここが北京中軸線のさらに中心です。この国の人々にとっては神聖な場所です。
太和殿は大理石が積まれた3段の台座の上に建っているので、上ってみるとなかなか高さがあります。
現存する中国最大の木造建築だそうです。
歴代皇帝により様々な国事や祭事が執り行われました。
近づいてみると、その壮大さに圧倒されます。
現在、一般客は殿の中には入場できず、入口付近から眺めるしかありません。
映画「ラストエンペラー」のラストシーンで年老いて背中の丸くなった溥儀がここの玉座の後ろ側に隠しておいたコオロギの虫壺を取り出し、「おじさんも皇帝だったんだよ」と言いながら守衛の少年に差し出す印象的なシーンがありました。
映画では溥儀役のジョン・ローンがこの龍の石刻を登るシーンがありました。
太和殿は「蒼穹の昴」シリーズでもたびたび登場しました。
太和殿の前に広がる広場はかなり広大です。皇帝の儀式の際にはこの広場に官吏や宦官たちがひれ伏したのでしょうか。
「蒼穹の昴」では、科挙の最終試験である殿試を終えた梁文秀が、保和殿からここまで歩いてきて立ち止まり、空耳で母の声を聴きます。
そして亡くなった母を思い出をめぐらせ、石に膝をつき、両手を地につき、額を地に打ちつけ、涙を流しながら母に対する感謝の言葉を語りましす。とうとうやったんだと。自分は進士になったんだと。
これが文秀が額を打ち付けた太和殿前の広場です。
この土台の角に飾られている角のない龍のような怪獣は、「螭」とよばれる想像上の動物です。
よみかたは「ち」または「みずち」です。むしへんに璃のつくりです。
魔除けの役割でしょうか。雨が降るとこの獣の口から勢いよく水が飛び出してきます。
紫禁城のいたるところで見かけます。よく観察するとひとつひとつ微妙に違っていて、愛嬌があります。
鶴と亀は長寿の象徴です。いずれも銅製です。
これは日時計です。
ここは浙江工業銀行漢口支店があった場所です。
行政が文物指定したことを示すパネルもありますが、調べたところ、実はこの建物は再建したものだそうです。
浙江工業銀行は1907年に設立されました。漢口支店は翌08年に設立しました。南四行とよばれる中国で最も初期の商業銀行のひとつです。
この地に銀行ビルが建設されたのは1925年です。
日本が武漢を占領すると、1940年5月、日本軍の計画支援で浙江興業銀行漢口支店は中江実業銀行となります。太平洋戦争が始まると銀行は閉鎖を余儀なくされました。
そして近代になった1995年に火災が発生し、ビルは取り壊しになりました。その後このビルを再建したというわけです。
古写真と比較すると、たしかに忠実に当時の姿に再建されていることがわかります。
かつての景観を守ろうとするこの意気込みには惜しみなく拍手を送らなければなりません。
ところで、浙江興業銀行漢口支店は清代の末から民国時代にかけて武漢で流通した「漢鈔」とよばれた紙幣を最初に発行した銀行です。
銀行は漢口に支店を設立してからすぐに漢鈔を発行しました。外国銀行の漢口支店もこれに続き、漢鈔を発行するようになりました。
1935年に国民政府が紙幣改革を行い、紙幣を統一すると、漢鈔の流通は次第に減っていきました。
この前を通るたびに、競馬ファンとしてはいつか一度入ってみたいものだと思っていたところ、幸運にもメンバーだった知人が招いてくれました。
香港競馬の主催機関である香港ジョッキークラブが運営する施設ですが、馬券を発売しているわけではなく、競馬を啓蒙している様子もなく、きわめて競馬色は薄い、セレブ向けのラグジュアリーな空間でした。
香港ジョッキークラブはなぜ馬券を発売していないメインランドにこんな施設を作ったのでしょうか。あれこれと考えを巡らせてみると、この国ならではのいろいろな事情があるのだろうな、と思わせます。
施設内には3つのレストランがありました。このほか、ボールルームや会議場、宿泊施設もあるようでした。
広東料理のコースです。とても上品な味わいです。
中庭では夏場になるとBBQも楽しむことができるのだとか。
図らずも、しばしの時間、セレブ気分を味わうことができました。
香港競馬の展示エリアです。
2020年12月の香港カップを勝った日本馬のノームコア(萩原厩舎)が紹介されていました。
梁啓超は戊戌の変法(1898年)を主導した人物で、維新に失敗した後、日本に亡命しました。
ここは亡命生活を終えて1912年に帰国したときに暮した場所だそうです。
ネットで調べたところ、所在地は北溝沿胡同23号で、壁に「梁啓超旧居」という文物指定を示すパネルが嵌め込まれているようです。
そのパネルをよりどころにして探します。
北溝沿胡同は南北に300メートルほどあるようです。パネルがあるならすぐに見つかるでしょう。
ところが、一往復しても見当たりません。
僕の探し方が悪いのでしょうか。
おかしいな、と思ってスマホを取り出して地図アプリで23号を調べてみると、ここでした。
なんと、パネルが取り換えられていました。
僕が調べた情報が古かったようです。
たぶん、僕のように物見にきた観光客が住民が暮らす四合院の中に入ってきて迷惑になるから、という理由からだと思います。
さて、ともあれここが梁啓超が暮した場所です。
日本から帰国した梁は袁世凱から法部次官に任用され、新しい人生をスタートさせます。翌1913年には司法総長に任命されます。その後、14年に袁世凱と袂を分かつと天津に移ったとされます。
したがって、ここで暮したのはこの12年から14年にかけての2年間ほどだったのでしょうか。
解放後、ここは鉄道部の幼稚園となり、その後宿舎に改造され、鉄道部の職員家族が暮らしたようです。
梁啓超が暮したころは広い中庭があった四合院だったようですが、今は細かく仕切られており、70から80世帯の鉄道部関連の人たちが暮らしているそうです。
通りの向かい側(東側)には梁啓超書斎と記されたパネルがありました。
ということは、23号だけでなく向かい側も自宅にしていたのでしょうか。
そうだとすると相当広い敷地だったということになります。
まあ、当時梁は中華民国の閣僚だったわけですから、こういう待遇だったとしても不思議はありません。
梁啓超が天津で暮らした場所は、2024年2月24日の日記でご紹介しました。
シンプルなレンガ造りの2階建てです。
アグネス・スメドレー(1892-1950)は共産党に共感して中国で取材活動を行った米国人ジャーナリストでした。
中国での暮らしの拠点は上海でしたが、1938年に日中戦争を取材するため、ここで10か月間を暮したことがあったようです。
当時、ここは漢口聖公会の米国人宣教師だったルッツ主教の邸宅でした。
スメドレーはミズーリ州の農家出身で、幼少時代は貧しさゆえ教育を受ける機会に恵まれなかったものの、長じてから師範学校で特待生として修学し、学内で学生新聞の編集といった課外活動を行いました。
やがてインド人の共産主義者との出会いをきっかけに運命が動き始め、ドイツを経て上海に拠点を移すことになります。上海ではソ連のスパイだったゾルゲと関り、尾崎秀実を紹介したとされます(この話は諸説あるようです)。
そして1930年代から40年代はじめに中国国内の共産主義者に密着し、国共内戦や日中戦争の取材を行いました。
スメドレーは武漢での滞在中、在武漢米国総領事や英国大使に対し、赤十字社の救急隊を編成して八路軍を医療支援するよう粘り強く説得し、その道筋をつけたとされます。
没したのはロンドンですが、墓は北京の八宝山墓地にあります。それだけ近代中国に愛され、大事にされた人物ということでしょう。
湖北省の文物保護単位になっていました。
この胡同には溥儀の妹だった金韞穎(1913-1996)が暮らした家があるそうです。
1959年に溥儀が特赦を受けて釈放されたされた後、一時的に暮らしたとも書かれています。
通りの15号だそうです。ふむふむ、それは一度見ておかなければなりません。さっそく15号を探してみました。
ここです。
案内板から南側に50メートルほどの場所でした。
金韞穎のもともとの名前は愛新覚羅韞穎でした。父は醇親王載灃、母は正妃だったグワルギャ氏幼蘭で、溥儀と同じです。溥儀にとっては3番目の妹でした。
韞穎は1913年生まれですので、溥儀より7歳年下です。異母きょうだいの存在が珍しくなかった時代に同じ母だったということもあって、溥儀は特に可愛がったそうです。
1924年、溥儀を紫禁城から追放され、日本の支援を受けて天津に移ると、韞穎も同行しました。韞穎は毎日日本語を学び、溥儀ら兄弟たちと暮らしました。
19歳のとき溥儀のすすめで婉容の弟だった郭布羅潤麒と婚約しました。
1931年、満洲国が樹立して溥儀が長春に移ると、韞穎はまたも同行します。
そこで潤麒と結婚すると、その直後、溥傑と潤麒は日本に軍事留学することになります。韞穎は同行し、日本で2年間を暮らします。
韞穎は日本の皇族に囲まれるようになり、昭和天皇の義理の妹に中国語を教えたりしたそうです。
この義理の妹とは誰でしょうか。
秩父宮の勢津子さまか高松宮の喜久子さまか三笠宮の百合子さまのいずれかになりますが、年齢的に考えて勢津子さまか喜久子さまでしょうか。
韞穎にとって日本での暮らしは窮屈だったらしく、溥儀にたびたび手紙を書いたそうです。
1933年、韞穎は長春に戻ります。潤麒も帰国し、以降長春で暮らします。
1945年に日本が降伏すると、韞穎は溥儀らとともに通化に逃れますが、溥儀はソ連軍に囚われます。
1949年に北京が解放されると潤麒は北京に戻ることを許され、3人の子供と義母と暮らしはじめます。
1951年に父親の醇親王が逝去するとわずかな遺産を受け取り、古い部屋を借りて生活を始めました。
1956年には撫順戦犯刑務所に収監されていた溥儀への面会が実現します。
そして1959年、溥儀が釈放されると、溥儀は一時的にこの家に身を寄せることになった、というわけです。
ここでどの程度の時間を暮したのかは正確ではありませんが、決して長い時間ではなく、その後東単に移動したようです。
そうであったとしても、溥儀にとってこの場所は撫順戦犯刑務所で長い辛酸の時代を過ごして最初に得た安住の地であったのではないでしょうか。
北京はこの発展を極めた現代になってもなお、当時の胡同を面影を残している場所がたくさんあります。