(この記事は、当ブログでいったん発表した内容を、修正・加筆後、月刊誌に再掲したものです。)
福島に住むようになって以来、4年以上購読してきた「河北新報」を9月末で打ち切った。宮城を基点に、東北の視点に徹する報道がすばらしくて購読してきたが、3.11以降この新聞もすっかりダメになった。それも、肝心の震災・原発事故報道が全くダメ。8月頃から購読打ち切りを考えていたが、10月がひとつの区切りと思ったのだ。
●凄まじい東北の情報統制
震災・原発報道に関し、東北のメディアで合格点をつけられるところは残念ながら全くない。原発爆発の映像を使用して制作された独ZDFテレビの番組「フロンタール21~福島原発事故その後」がインターネットの動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップロードされると、福島中央テレビ(FCT)は原発爆発の映像が自分たちの撮影であることを理由に「著作権侵害」として削除要請。山下俊一をたびたび登場させ、安全デマを垂れ流した福島民報、福島民友の地元紙の論調についてもコメントは不要だろう。
本当にありがたいことだが、筆者には名古屋時代、JR東海の安全問題などに一緒に取り組んでいた仲間がいる。浜岡原発廃止運動にも熱心に取り組んでいる人で、今も中日新聞の切り抜きを送ってくれている。送られてきた記事の中には、例えば「被ばく不安 苦悩の親~鼻血 放射線被害では?」(「中日新聞」6月22日付け)や、「南相馬 振り回される教育~窓閉め切り冷房なし」(「中日新聞」6月24日付け)といった記事がある。ところが驚くことに、こうした記事は東京新聞など他の系列紙には掲載されているのに東北地方だけ不掲載だったのである。
インターネットがなかったとしても、通信手段が発達した現在ではこのように地方紙同士の記事の比較もできるし、どの新聞がどんな記事を重視しているかの比較も容易である。こうした中、原発事故に伴う福島の人々の健康状態に関する記事が、それを最も必要としている地元では隠され、中日新聞を読んでいる愛知県民や、東京新聞を読んでいる東京都民のほうがそれをよく知っているという状況が6月頃から次第にわかってきた。こうしたことは、地元メディアがどのように言い繕おうとも明白な情報操作であり、この頃から地元メディアに対する不信感が募った。
震災に関しても、現実に半年経っても多くの人が失業したまま再就職の見通しがないという事態に対し、どうしたら新たな仕事作りができるのか無能な政府に代わって提言すべきなのに、東北は被害者だという意識ばかりで代案も何もない。阪神・淡路大震災の時、京都新聞の施設・設備を借りながら1日も欠かさず新聞発行を続け、地元にとって都合の悪いニュースも臆せず掲載した神戸新聞のような報道を期待していたが、全く期待はずれだった。
東北差別は何も今に始まったことではない。白河以北一山百文(白河以北の東北では山ひとつがたったの百文で買える、の意)とか、勿来(なこそ)の関(「なこそ」は「な来そ」=来るなの意)などの表現はまさに東北への蔑視が込められている。金融恐慌と飢饉に襲われた昭和10年代、農村で娘の身売りのような悲しい事件が起きたのは東北だったし、東京都民が豊かな消費生活を送るために原発という重荷を背負わされたのも東北だった。
東北は沖縄と同じ植民地経済で、働いても働いても自らは決して豊かになることがない――戦後の経済発展の中で隠し通されてきたこの重い事実が東日本大震災によって再びあぶり出された。そうした東北のあり方と対峙し、問い直すことこそ地元メディアに課せられた使命だったと筆者は思う。しかし東北のメディアはこの使命に応えるどころか「都合の悪い情報は伝えなければいい」とばかりに東北の民衆を愚民扱いし、情報操作に加担した。自らの役割を自覚せず惰眠をむさぼり続ける地元メディアは、いずれ民衆への裏切りに対して高い代償を払うことになるだろう。筆者の地方紙購読中止も、その代償のひとつだとご理解いただきたい。
●大手ゼネコンに食い物にされた東北
宮城県での震災がれきの処理事業は、談合情報が事前に寄せられていたにもかかわらず県が入札を強行。石巻地区の事業は大手ゼネコン・鹿島を代表とする計9社の共同企業体(JV)、また亘理(わたり)地区の事業は大林組を代表とするJV、山元地区の事業はフジタを代表とするJV、岩沼地区は間組を代表とするJV、そして名取地区は西松建設を代表とするJVが受注した。亘理地区については「落札業者が大林組に決まっている」という事前通報通りの受注だった。
被災者向け仮設住宅の建設事業も、地域事情を知り尽くした地元業者ではなく関西の業者に発注された。このような事態になったのは、地元自治体が地元業者を無視して「社団法人プレハブ建築協会」(東京)に住宅建設の要望を出し、この協会に加盟する建設業者が工事を優先的に受注するという手法が採られたためである。この協会の常勤専務理事を務めているのは元国土交通省九州地方整備局副局長の菊田利春氏である。
結局、宮城・南三陸町の仮設住宅ではその後、雨漏りやアリが発生し、被災者が県に苦情を伝えたが、東京や大阪の業者であるため「すぐに対応できない」と言われたという。地元の気象条件や地域事情を知り尽くした地元業者を優先して発注していれば、このような事態は防げたはずだ。しかし実際には、仮設住宅で儲けたかった大手ゼネコン、工事発注に采配を振るいたかった国土交通省の天下り法人、大企業本位で住民無視の村井嘉浩・宮城県知事の思惑が絡み合った結果、大手ゼネコンへの「お手盛り発注」となり、粗悪な仮設住宅を押しつけられた被災者だけが不利益をこうむることになったのである。
東北が真の意味での「復興」を果たしたいなら、植民地経済からの脱却と奴隷根性からの自らの解放を併せて進める必要がある。しかし、東北各県自治体のやっていることはこれと正反対である。大企業優遇の地元切り捨て、地元にカネも落ちず地元での雇用も生まれない「名ばかり復興」だ。このような中央依存、被災者不在のプランテーション型「復興」では、東北は豊かになることも、中央支配の鎖を断ち切ることも決してできない。
●食い尽くされる中国を見て進路を変えた魯迅
「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という一節であまりに有名な中国の小説「故郷」の作家・魯迅は、初めは作家ではなく医者を目指していた。日本に留学したのも、明治維新でいち早く西洋医学を取り入れた日本ならレベルの高い医学を勉強できると考えたからである。仙台の医学専門学校で親身に指導を受けた魯迅は、恩師への感謝を表すため、わざわざ「藤野先生」という作品まで残している。
ある日、専門学校で講義の間に流されるスライド映写を見て魯迅は大きな衝撃を受ける。そのスライドに映っていたのは、日露戦争でスパイの容疑をかけられ斬首されようとしている中国人と、それを笑いながら見ている同じ中国人の姿だった。
その姿の中に耐え難い奴隷根性を見た魯迅は「医学よりも文学によって市民の意識を変えるべきだ」と決意し、医者から作家へと進路を変えた。
魯迅は、市民的自由がほとんど認められていなかった当時の中国で、闘う文学作品を次々と発表した。その中で最も特徴的な作品が「狂人日記」だ。狂人を主役にし、彼をして中国の封建的社会を「人を食う」ものだと徹底批判させる。文学を舞台とした魯迅の闘いは生涯続いた。魯迅が死去したとき、妻の許広平は弔辞の中で亡き夫を休みなく働き続ける役牛に例えたといわれる。
奴隷に甘んずることを潔しとせず、自分たちを奴隷に落とし込んでいる者たちと闘うため進路を変えた魯迅のように、東北の労働者や農民たちは今こそ自立し決起すべきだ。中央からの涙金にすがって東北を腐らせてきた自治体首長たちに退場を宣告し、子どもを放射能から守るために東北独特の家父長制を突き破ろうともがいている母親たちをみんなで守らなければならない。
●それでも愛する東北と福島へ
「会津の三泣き」という言葉があるそうだ。福島県会津地方に引っ越してきた人は、そのあまりの豪雪と「排他性」に泣かされる(実際は会津方言へのコンプレックスからよそ者と距離を置きがちになるだけで排他的なわけではない)。やがて地元に受け入れられると、その人情の厚さに感動して泣く。そして会津を離れる時が来ると、人情厚い会津人との別れが辛く、去りたくないと涙を流す。
転勤族の筆者にとって福島は仮の居住地だと思っていた。しかし、このまま何事もなかったかのようにここを去るにはあまりにいろいろな体験をし過ぎた。福島がどの程度復興できるのか、それ以前に放射能汚染されてしまった福島に復興という選択肢そのものが果たしてあり得るのか。福島県内の厳しい状況を見るたびに言いしれない不安が常につきまとう。だが、福島で生まれ育った地元の人には及ばないとしても、東京の立場も福島の立場もそれなりに見える筆者の立場だからこそ言えることもある。今回のコラムは東北の人たちにとって辛口になってしまったが、東北、そして福島を愛し、その未来を真剣に憂うがゆえの苦言と受け止めていただければ幸いである。
福島に住むようになって以来、4年以上購読してきた「河北新報」を9月末で打ち切った。宮城を基点に、東北の視点に徹する報道がすばらしくて購読してきたが、3.11以降この新聞もすっかりダメになった。それも、肝心の震災・原発事故報道が全くダメ。8月頃から購読打ち切りを考えていたが、10月がひとつの区切りと思ったのだ。
●凄まじい東北の情報統制
震災・原発報道に関し、東北のメディアで合格点をつけられるところは残念ながら全くない。原発爆発の映像を使用して制作された独ZDFテレビの番組「フロンタール21~福島原発事故その後」がインターネットの動画投稿サイト「ユーチューブ」にアップロードされると、福島中央テレビ(FCT)は原発爆発の映像が自分たちの撮影であることを理由に「著作権侵害」として削除要請。山下俊一をたびたび登場させ、安全デマを垂れ流した福島民報、福島民友の地元紙の論調についてもコメントは不要だろう。
本当にありがたいことだが、筆者には名古屋時代、JR東海の安全問題などに一緒に取り組んでいた仲間がいる。浜岡原発廃止運動にも熱心に取り組んでいる人で、今も中日新聞の切り抜きを送ってくれている。送られてきた記事の中には、例えば「被ばく不安 苦悩の親~鼻血 放射線被害では?」(「中日新聞」6月22日付け)や、「南相馬 振り回される教育~窓閉め切り冷房なし」(「中日新聞」6月24日付け)といった記事がある。ところが驚くことに、こうした記事は東京新聞など他の系列紙には掲載されているのに東北地方だけ不掲載だったのである。
インターネットがなかったとしても、通信手段が発達した現在ではこのように地方紙同士の記事の比較もできるし、どの新聞がどんな記事を重視しているかの比較も容易である。こうした中、原発事故に伴う福島の人々の健康状態に関する記事が、それを最も必要としている地元では隠され、中日新聞を読んでいる愛知県民や、東京新聞を読んでいる東京都民のほうがそれをよく知っているという状況が6月頃から次第にわかってきた。こうしたことは、地元メディアがどのように言い繕おうとも明白な情報操作であり、この頃から地元メディアに対する不信感が募った。
震災に関しても、現実に半年経っても多くの人が失業したまま再就職の見通しがないという事態に対し、どうしたら新たな仕事作りができるのか無能な政府に代わって提言すべきなのに、東北は被害者だという意識ばかりで代案も何もない。阪神・淡路大震災の時、京都新聞の施設・設備を借りながら1日も欠かさず新聞発行を続け、地元にとって都合の悪いニュースも臆せず掲載した神戸新聞のような報道を期待していたが、全く期待はずれだった。
東北差別は何も今に始まったことではない。白河以北一山百文(白河以北の東北では山ひとつがたったの百文で買える、の意)とか、勿来(なこそ)の関(「なこそ」は「な来そ」=来るなの意)などの表現はまさに東北への蔑視が込められている。金融恐慌と飢饉に襲われた昭和10年代、農村で娘の身売りのような悲しい事件が起きたのは東北だったし、東京都民が豊かな消費生活を送るために原発という重荷を背負わされたのも東北だった。
東北は沖縄と同じ植民地経済で、働いても働いても自らは決して豊かになることがない――戦後の経済発展の中で隠し通されてきたこの重い事実が東日本大震災によって再びあぶり出された。そうした東北のあり方と対峙し、問い直すことこそ地元メディアに課せられた使命だったと筆者は思う。しかし東北のメディアはこの使命に応えるどころか「都合の悪い情報は伝えなければいい」とばかりに東北の民衆を愚民扱いし、情報操作に加担した。自らの役割を自覚せず惰眠をむさぼり続ける地元メディアは、いずれ民衆への裏切りに対して高い代償を払うことになるだろう。筆者の地方紙購読中止も、その代償のひとつだとご理解いただきたい。
●大手ゼネコンに食い物にされた東北
宮城県での震災がれきの処理事業は、談合情報が事前に寄せられていたにもかかわらず県が入札を強行。石巻地区の事業は大手ゼネコン・鹿島を代表とする計9社の共同企業体(JV)、また亘理(わたり)地区の事業は大林組を代表とするJV、山元地区の事業はフジタを代表とするJV、岩沼地区は間組を代表とするJV、そして名取地区は西松建設を代表とするJVが受注した。亘理地区については「落札業者が大林組に決まっている」という事前通報通りの受注だった。
被災者向け仮設住宅の建設事業も、地域事情を知り尽くした地元業者ではなく関西の業者に発注された。このような事態になったのは、地元自治体が地元業者を無視して「社団法人プレハブ建築協会」(東京)に住宅建設の要望を出し、この協会に加盟する建設業者が工事を優先的に受注するという手法が採られたためである。この協会の常勤専務理事を務めているのは元国土交通省九州地方整備局副局長の菊田利春氏である。
結局、宮城・南三陸町の仮設住宅ではその後、雨漏りやアリが発生し、被災者が県に苦情を伝えたが、東京や大阪の業者であるため「すぐに対応できない」と言われたという。地元の気象条件や地域事情を知り尽くした地元業者を優先して発注していれば、このような事態は防げたはずだ。しかし実際には、仮設住宅で儲けたかった大手ゼネコン、工事発注に采配を振るいたかった国土交通省の天下り法人、大企業本位で住民無視の村井嘉浩・宮城県知事の思惑が絡み合った結果、大手ゼネコンへの「お手盛り発注」となり、粗悪な仮設住宅を押しつけられた被災者だけが不利益をこうむることになったのである。
東北が真の意味での「復興」を果たしたいなら、植民地経済からの脱却と奴隷根性からの自らの解放を併せて進める必要がある。しかし、東北各県自治体のやっていることはこれと正反対である。大企業優遇の地元切り捨て、地元にカネも落ちず地元での雇用も生まれない「名ばかり復興」だ。このような中央依存、被災者不在のプランテーション型「復興」では、東北は豊かになることも、中央支配の鎖を断ち切ることも決してできない。
●食い尽くされる中国を見て進路を変えた魯迅
「もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」という一節であまりに有名な中国の小説「故郷」の作家・魯迅は、初めは作家ではなく医者を目指していた。日本に留学したのも、明治維新でいち早く西洋医学を取り入れた日本ならレベルの高い医学を勉強できると考えたからである。仙台の医学専門学校で親身に指導を受けた魯迅は、恩師への感謝を表すため、わざわざ「藤野先生」という作品まで残している。
ある日、専門学校で講義の間に流されるスライド映写を見て魯迅は大きな衝撃を受ける。そのスライドに映っていたのは、日露戦争でスパイの容疑をかけられ斬首されようとしている中国人と、それを笑いながら見ている同じ中国人の姿だった。
その姿の中に耐え難い奴隷根性を見た魯迅は「医学よりも文学によって市民の意識を変えるべきだ」と決意し、医者から作家へと進路を変えた。
魯迅は、市民的自由がほとんど認められていなかった当時の中国で、闘う文学作品を次々と発表した。その中で最も特徴的な作品が「狂人日記」だ。狂人を主役にし、彼をして中国の封建的社会を「人を食う」ものだと徹底批判させる。文学を舞台とした魯迅の闘いは生涯続いた。魯迅が死去したとき、妻の許広平は弔辞の中で亡き夫を休みなく働き続ける役牛に例えたといわれる。
奴隷に甘んずることを潔しとせず、自分たちを奴隷に落とし込んでいる者たちと闘うため進路を変えた魯迅のように、東北の労働者や農民たちは今こそ自立し決起すべきだ。中央からの涙金にすがって東北を腐らせてきた自治体首長たちに退場を宣告し、子どもを放射能から守るために東北独特の家父長制を突き破ろうともがいている母親たちをみんなで守らなければならない。
●それでも愛する東北と福島へ
「会津の三泣き」という言葉があるそうだ。福島県会津地方に引っ越してきた人は、そのあまりの豪雪と「排他性」に泣かされる(実際は会津方言へのコンプレックスからよそ者と距離を置きがちになるだけで排他的なわけではない)。やがて地元に受け入れられると、その人情の厚さに感動して泣く。そして会津を離れる時が来ると、人情厚い会津人との別れが辛く、去りたくないと涙を流す。
転勤族の筆者にとって福島は仮の居住地だと思っていた。しかし、このまま何事もなかったかのようにここを去るにはあまりにいろいろな体験をし過ぎた。福島がどの程度復興できるのか、それ以前に放射能汚染されてしまった福島に復興という選択肢そのものが果たしてあり得るのか。福島県内の厳しい状況を見るたびに言いしれない不安が常につきまとう。だが、福島で生まれ育った地元の人には及ばないとしても、東京の立場も福島の立場もそれなりに見える筆者の立場だからこそ言えることもある。今回のコラムは東北の人たちにとって辛口になってしまったが、東北、そして福島を愛し、その未来を真剣に憂うがゆえの苦言と受け止めていただければ幸いである。