「もう10年、まだ10年」=17歳息子失った父-日比谷線事故(時事通信)
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「もう10年、でも、まだ10年なんです」。69人が死傷した地下鉄日比谷線脱線事故。長男で当時17歳の高校2年信介さんを亡くした富久邦彦さん(63)=横浜市西区=が取材に応じ、「世間にとって10年は一つの区切りかもしれないが、遺族に時間の節目はない」と思いを語った。
2000年3月8日。高校の期末試験の最終日。1限目の試験はなく、2限目の英語に合わせ、少し遅めの電車に。午前9時1分、上り6両目。カーブで脱線した下り電車と衝突。即死だった。
「もう少し待ってろよ」。月命日には、現場近くの慰霊碑を夫婦で訪れる。120回になった。17年8カ月の短過ぎる生涯。一緒にいるのが当然だった家族。「事故後、1年は何も手に付かなかった。一日一日が長かった」という富久さん。「ひょいっと、帰ってくるのでは」から「いないのが当然」となるのに4年もの歳月を要した。
「納骨はできない。寂しがるだろうから」。自宅2階の仏壇には、骨つぼが写真と並ぶ。「短い人生なので、向こうには知り合いはいない。暗い地面の中で一人でいるのはかわいそう。家族の誰かと一緒の墓に入れます」と笑う。
都内屈指の進学校の麻布高校に通う一方、プロボクサーを目指しジムに通うなど文武両道だった信介さん。事故後、本も出版されたほか、「富久信介」の名は、同校の奨学金制度やボクシングの大会に残った。「事故の示談金を有効に使い、後に続く若い人たちの役に立つことが、信介の命を無駄にしないことにつながると信じている」。
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<日比谷線>事故から10年 遺族ら冥福祈る(毎日新聞)
乗客5人が死亡、64人が負傷した00年3月の営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線脱線・衝突事故から10年を迎えた8日、東京都目黒区の事故現場近くの慰霊碑で、遺族や同社役員が犠牲者の冥福を祈った。午後には前原誠司国土交通相が慰霊に訪れた。
東京メトロは梅崎寿社長など役員4人が訪れ、事故が起きた午前9時1分に黙とうし献花。梅崎社長は「二度と事故を起こさぬよう、安全運行に全力を尽くしたい」と話した。
東京メトロによると、昨年、治療を終えた重傷者1人と示談が成立し、補償交渉はすべて終えたという。
碑には犠牲者の名前が刻まれているが、1遺族が拒否したために4人分。合同慰霊の形式はとらず、社員らが訪れては献花し、慰霊碑に手を合わせていた。
亡くなった南日本新聞社員、槙保代さん(当時37歳)のいとこで埼玉県富士見市の主婦、平久美子さん(37)は「来るのが怖くてこれまで足を運べなかった。地下鉄の音を聞くだけでつらかった。お姉ちゃん(槙さん)と同じ年齢になり『やっと来られたよ』と伝えました」と話した。【平井桂月】
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日比谷線事故から10年経った。10年ひと昔と言われるが、ついにひと昔前の出来事になったのだ。
とはいえ、最後の負傷者との示談交渉は昨年、やっとまとまったという。加害企業への複雑な遺族感情に加え、長引く治療で治療費の算定が容易にできないことなど、いろいろな背景がありそうだ。死傷者69人の事故で示談に10年かかるのだから、尼崎事故など、私が生きているうちに全員と示談が終わらないかもしれない。
事故前日の3月7日、たまたま所用で都内にいたにもかかわらず、時間の都合もあり慰霊碑へ行けなかった。この事故の慰霊碑には行ったことがなく、場所も確認していないものの、中目黒駅の近くだということはわかっている。事故の日をすでに過ぎてしまったが、次回の東京訪問時に場所を確認の上、慰霊碑に行ってみようと思っている。
なお、この事故は、私が安全問題に取り組むきっかけとなった、いわば安全問題の原点である。私とこの事故との関わりは、昨年の3月8日付エントリの中に書いているので、興味のある方はぜひ。
改めて、5名の犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、負傷者の方にもお見舞いを申し上げる。営団地下鉄60年の歴史上、唯一の死亡事故となったこの事故が繰り返されないよう、当ブログは引き続き安全への提言を行っていきたい。
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「もう10年、でも、まだ10年なんです」。69人が死傷した地下鉄日比谷線脱線事故。長男で当時17歳の高校2年信介さんを亡くした富久邦彦さん(63)=横浜市西区=が取材に応じ、「世間にとって10年は一つの区切りかもしれないが、遺族に時間の節目はない」と思いを語った。
2000年3月8日。高校の期末試験の最終日。1限目の試験はなく、2限目の英語に合わせ、少し遅めの電車に。午前9時1分、上り6両目。カーブで脱線した下り電車と衝突。即死だった。
「もう少し待ってろよ」。月命日には、現場近くの慰霊碑を夫婦で訪れる。120回になった。17年8カ月の短過ぎる生涯。一緒にいるのが当然だった家族。「事故後、1年は何も手に付かなかった。一日一日が長かった」という富久さん。「ひょいっと、帰ってくるのでは」から「いないのが当然」となるのに4年もの歳月を要した。
「納骨はできない。寂しがるだろうから」。自宅2階の仏壇には、骨つぼが写真と並ぶ。「短い人生なので、向こうには知り合いはいない。暗い地面の中で一人でいるのはかわいそう。家族の誰かと一緒の墓に入れます」と笑う。
都内屈指の進学校の麻布高校に通う一方、プロボクサーを目指しジムに通うなど文武両道だった信介さん。事故後、本も出版されたほか、「富久信介」の名は、同校の奨学金制度やボクシングの大会に残った。「事故の示談金を有効に使い、後に続く若い人たちの役に立つことが、信介の命を無駄にしないことにつながると信じている」。
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<日比谷線>事故から10年 遺族ら冥福祈る(毎日新聞)
乗客5人が死亡、64人が負傷した00年3月の営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線脱線・衝突事故から10年を迎えた8日、東京都目黒区の事故現場近くの慰霊碑で、遺族や同社役員が犠牲者の冥福を祈った。午後には前原誠司国土交通相が慰霊に訪れた。
東京メトロは梅崎寿社長など役員4人が訪れ、事故が起きた午前9時1分に黙とうし献花。梅崎社長は「二度と事故を起こさぬよう、安全運行に全力を尽くしたい」と話した。
東京メトロによると、昨年、治療を終えた重傷者1人と示談が成立し、補償交渉はすべて終えたという。
碑には犠牲者の名前が刻まれているが、1遺族が拒否したために4人分。合同慰霊の形式はとらず、社員らが訪れては献花し、慰霊碑に手を合わせていた。
亡くなった南日本新聞社員、槙保代さん(当時37歳)のいとこで埼玉県富士見市の主婦、平久美子さん(37)は「来るのが怖くてこれまで足を運べなかった。地下鉄の音を聞くだけでつらかった。お姉ちゃん(槙さん)と同じ年齢になり『やっと来られたよ』と伝えました」と話した。【平井桂月】
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日比谷線事故から10年経った。10年ひと昔と言われるが、ついにひと昔前の出来事になったのだ。
とはいえ、最後の負傷者との示談交渉は昨年、やっとまとまったという。加害企業への複雑な遺族感情に加え、長引く治療で治療費の算定が容易にできないことなど、いろいろな背景がありそうだ。死傷者69人の事故で示談に10年かかるのだから、尼崎事故など、私が生きているうちに全員と示談が終わらないかもしれない。
事故前日の3月7日、たまたま所用で都内にいたにもかかわらず、時間の都合もあり慰霊碑へ行けなかった。この事故の慰霊碑には行ったことがなく、場所も確認していないものの、中目黒駅の近くだということはわかっている。事故の日をすでに過ぎてしまったが、次回の東京訪問時に場所を確認の上、慰霊碑に行ってみようと思っている。
なお、この事故は、私が安全問題に取り組むきっかけとなった、いわば安全問題の原点である。私とこの事故との関わりは、昨年の3月8日付エントリの中に書いているので、興味のある方はぜひ。
改めて、5名の犠牲者のご冥福をお祈りするとともに、負傷者の方にもお見舞いを申し上げる。営団地下鉄60年の歴史上、唯一の死亡事故となったこの事故が繰り返されないよう、当ブログは引き続き安全への提言を行っていきたい。