「おわら節」に挑む !

爺さんが 唄と踊りの両方を欲張って始めてみたのだが - - 

「 疎 開 」 (宗像シリーズ再掲)

2018-11-17 07:07:21 | 日記

(話は前後するかも - -ご容赦ねがう)

表題の「疎開」という言葉も今では死語となってしまったが、いよいよ日本の戦局が悪くなり

本土空襲も度々になると 都会の児童は集団または個別に田舎へ一時避難することになった。

そのようなことで以下の記述は 私と姉、母三人が 母屋から五分位歩いた所に建つ道具小屋

に一時住ませてもらうことになった時の記憶である。

 おばあちゃんは、母屋から少し離れた隠居部屋でほとんど寝て居て、私が顔を見せると

おいでおいでをして、蜜柑を一つ布団から出し私の手にのせてくれるのだが その蜜柑が

いつも暖かかったのを覚えている。

この隠居部屋は二階が有り、あまり使われてない納屋になっており、ここに おわら節に

唄われている (棒で突っ張って開ける木の)「押し開け窓」があったが

私はこの窓を押し開けて、季節季節の広々とした水田や実りの風景を見るのが何故か好き

だった。


福岡県 宗像郡 (加藤村シリーズ再掲)

2018-11-16 07:55:36 | 日記

 

当地では自分の生れたところや親の出身地を在所というが、その意味で私の出身地方は

ただ単に田舎と言った。

子供のころ、空襲が激しくなり、この母の田舎に一時疎開したことがある。

国鉄の鹿児島本線赤間駅で降りてから木炭バスでおよそ一時間余りで 宗像郡加藤村

池浦という農村に着く。

夏の時期、バスを降りバスが土ぼこりを残して走り去ると、田んぼの稲の青々と

したにおいが気持ちよく、降りる人いつも は私と母の二人だけであった。

そこから田んぼが左右に広がる細い農道を500メートル位進むと50戸位の藁葺の家が小

高い山裾を左右にぽつぽつと並んでいた。  

あまり定かではないが、あのままバスを降りずに乗って居たとすれば宗像大社へは20分

位の距離だったと記憶する。

「懐かしい田舎のにほい」

細い農道を(当然舗装などしてない)500メートル位進むと おばあちゃんと叔父さんの

住む家に着く。

家の周りはいいかげんな竹枝の囲いになって居て、その竹囲いの入り口をくぐると程よ

いひろばがあって左手に納屋、右手が二階建ての隠居部屋そして正面に結構大きな藁ぶ

きの母屋があった。

母と私が母屋の木戸をくぐると いつものように叔母さんの笑顔と

「ひろゆきしゃん よ~来んしゃったなー」と いつも うれしい呼びかけ

が迎えてくれた。


すいか畑 (宗像シリーズ再掲)

2018-11-15 07:15:15 | 日記

 

蜂に刺された瞼は書くまでもなく、片目はお岩さんのように腫れ、熱と痛みで数日間寝込む

ことになったが、これ以降今に至るまで蜂恐怖症になってしまっている。

(ちなみに、熊ン蜂とは現在で言うスズメ蜂のこと)

さて、村の周りは田んぼばかりだが バスの道の向こうに外(ほか)と呼ばれていた場所

があった。

ここは田んぼの高さよりいくぶん高い丘状の大地で水田には向かず この地区の人が先祖代々

畑として受け継いで来たものである。

夏の日の夜 あたりは真っ暗だが勝手知ったる村の子供達と一緒にこの外(ほか)にいったの

だが そこには西瓜畑が広々とひろがっていた。

どこの家の西瓜畑か分かりもしないが、勝手に畑に分け入り西瓜の玉をポンポンと手で

叩いて音の良いのだけを割ったのだが、中は昼間の日照りでなま暖かく それと

無断の後めたさか、甘かつたのだが決して美味しいとはおもえなかった。

「甘くて苦い思い出である。」

今なら、当然、誰がやったのかや、警察沙汰云々になるところであろうが、噂にも

聞こえて来ず、村では 「どうせ子供のいたずらじゃろう」 と至極のんびりしたものだっ

たようだ。


熊 ん 蜂 (このシリーズ再掲だけど面白い)

2018-11-14 11:34:29 | 日記

八幡では普通の子供の私も ここ宗像では町の子供として珍しがられ 村の子供たちが

近くのいろいろな場所に遊びに連れ出してくれた。

当時は田んぼや畑に農薬を散布することはほとんどなく、田んぼの畦(あぜ)下の溝(水路)

に竹で編んだテボという籠を沈め、足で水をバシヤバシヤと叩いて籠やを上げると

小鮒や小エビやドジョウが跳ねた。

ある日、裏山の中腹に有る無人の神社で鬼ごっこなどして遊んでいた私達五、六人の子供

が遊び飽き 私がふと上を見上げると、屋根の下に何か大きな丸いものがぶら下がっている

のを見つけた。

年長の「やすあき」に尋ねると 「ありゃ熊ン蜂の巣たい 触らんがよか ! 」という返事

だったのだが 私がきれいな丸いしま模様がどうしても欲しくて 取ってくれるよう

重ねてねだると「やすあき」は「蜂が追いかけてきたらこの中え逃げ込むんやど」と私に

お堂の戸袋を指さした。

子供たちはその辺の竹を切り、葛のひもで三本ほど竹をつなぎ合わせて作った長い竿で

蜂の巣を突つき落として四方に逃げ散った。

私も 一目散にも戸袋に逃げこんで扉を閉めたのだが 目の上に激痛が走ったことを

今でも感覚として記憶している。

刺されて泣き叫ぶ私に、駆け寄ってきた「義男」が刺されたところに何かを塗ってくれたの

だが、それは小便と歯糞を混ぜたのだったという事を後から聞いた。

家に帰ると ばあちゃんからたいそう叱られたが 山椒の葉を自分の唾と混ぜて揉んだ

ものを膏薬で貼ってくれた。この意味で義男のつけてくれた薬?もあながち間違っては

いなかったのかも知れない?  ^^;

 


疎開の地(福岡県宗像郡加藤村池浦)

2018-11-13 07:21:25 | 日記

 

 この表題の地は母の生家で 私の6歳頃戦争激化で町に住んでいた私はこの地に

 一時避難した。以下は以前ここに記載したものの再掲であるが 勝手に面白がって

 暫らくシリーズ的?に再掲するのでご容赦願いたい。

 戦争を知らない子や孫は勿論、当時の日本の状況の一部でもわかってもらえれば

 幸いである。- - -

 

疎開してたのは私が六歳の頃の数か月だと思う。

私の家は父親が八幡製鉄の職工(社員)だったので八幡市平野町11丁目の社宅に住んでいた

が、そこは一丁目から十五丁目まであってたくさんの社員とその家族が暮らしていた。

3丁目までは煉瓦造りの二階建だったが、他は二軒続きの平屋が各丁目にずらーと並んで

居り間取りはそう広くなかったが敷地は案外広くて、各家では裏の空き地にちょっとした

畑をつくり野菜や花を植えたりなどしていた。

話を疎開先の宗像郡加藤村池浦に戻そう。

敷地や間取りの紹介で忘れていた便所は、母屋の牛小屋の前に男用があったがこれは

木の枠で囲んだ空間の下にかめを埋めこんだだけの簡単なもので当然前扉などはない。

私は今でもここを印象強く記憶しているのは、このかめの中に何故かいつも杉の若枝が

放おりこまれていたからであり、子供心に訝しく思えたものであった。

もう一つの便所は敷地の外に面した竹囲いの手前に独立してあり、ここを使う時は母屋の

木戸から出て敷地の広場を30歩ほど歩く必要があり、冬は木戸を出た瞬間に寒さで身が

すくんだ記憶が蘇る。

ちなみに、前記の小用壺の杉の枝であるが あれは跳ね返りを防ぐためのものと

後でわかりました。^^;

ここまで敷地や母屋のことを書いたが、今から六歳の子供の私がここで体験した

興味深い話になります