言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

能の舞台を見ることはできなくても

2020年08月31日 | 歌舞伎・能など

 

当分続けることになりそうな自粛生活の中で、

能を観る機会は減りましたが、

師にリモートで謡の稽古をつけてもらう以外にも、

自分なりに能に触れていると思うことが二つほどあります。

 

一つは、林望著『能の読みかた』(角川文庫)を読む時です。

今まで、能についての本は、鑑賞や稽古の補助的な目的で

読むことがほとんどでした。

でもこの本については少し違うように思います。

 

例えば「千手(せんじゅ)」という能があります。

一ノ谷で源氏軍の捕虜となり、鎌倉で処刑を待つ平重衡のもとに、

その身辺の世話をするよう命を受けた、

駿河の手越の長の娘・千手(シテ)が訪ねてきます。

最初は追いかえされますが、ある春雨の夜、

千手のうた、舞、そして衡は琵琶を奏し、千手は箏を奏で、

お互いの心を通わせます。

しかし翌朝、千手は護送される重衡を見送る、という能です。

 

勇敢な武将でもあり、28歳にして三位の中将という貴公子でもある重衡。

みめ麗しく、技芸に優れた千手。

 

その千手が、妻戸を押し開いて、幽閉されている重衡の

部屋に入ってくるところが、この能の最大のポイントであると、

本の著者・林望氏は指摘します。

少し長くなりますが、その部分をご紹介したいと思います。

 

「その時千手立ち寄りて、妻戸をきりりと押し開く、

 御簾(みす)の追風(おいかぜ)匂び来る、

 花の都人に、恥ずかしながら見(まみ)えん、

 げにや東の果しまで、人の心の奥深き、

 その情こそ都なれ、

 花の春紅葉の秋、誰(た)が思ひ出となりぬらん

 

 戸を開くと同時に、外からは降りしきる雨音が侵入し、

 若く美しい女の姿が現れ、と同時に、

 室内の御簾の陰からは重衡の体に焚きしめた

 香の薫りが鼻を穿つのだ。

 雨の日の湿った空気の匂いや、

 若葉のむせるような匂いもあるだろう。

 このシーンの立ち姿と謡の奥深さが、

 後の芸能や重衡の悲しさを丈高く演出するのである。

 緊張する一瞬である。

 つまり、そういうなにげない場面、

 ある通過点のような一瞬に、

 案外凄い劇的緊張が隠されている、というのが

 能のまことに面白いところで、見るほうも

 気を抜くことができないのである。」

 

林氏の声と顔が浮かんでくるような独特の文章で、

様々な能について語ってくれる一冊、

現実の、特定の舞台、能役者が思い出されるのではなく、

著者の筆によって描き出される物語、

想像させられるシテとツレのたたずまいや動きに、

登場人物の心模様や舞台の張りつめた空気が思い描かれて、

とても感動的な「能」に触れたような気持ちがします。

 

もう一つは、過去の能評を読むことです。

例えば2013年9月25日の日経新聞夕刊の「能・狂言」欄、

村上湛さんが国立能楽堂会場30周年記念公演について書かれた記事の

一部をご紹介したいと思います。

 

三日目の17日、長老・近藤乾之助が「鶴亀 曲入」の

 シテ・玄宗皇帝を演じた。

 直面物(ひためんもの。素顔の劇能)に優れる近藤も、今年85歳。

 眼目の遊舞の「楽(がく)」では定めの立ち位置よりも内輪で、

 足拍子も弱い。

 だがその身体は囃子の演奏を受け止め、

 一筆書きのしなやかな胆力を保ったまま舞台上の空気感を支えた。

 夾雑物が脱落、ただ音楽と肉体のみが呼応し続ける精妙な感覚は

 最も優れたダンスの極意。

 人が草木や石など自然存在と等しくなったような、

 能を支える根本の力でもある。

   (中略)

 衰えた近藤の「鶴亀」に確固として残る抜き差しならない身体感覚を

 感得し受け継ぐ、気骨ある役者が今後出るだろうか。」

 

ただ言葉を追うだけでなく、一言一言理解と想像をしつつ読む作業。

故人となられた近藤乾之助師の、

まさに頭のてっぺんから爪の先まで、

謡と謡の間の一瞬にまで、

気が籠もっているように感じた舞台の記憶と、

「鶴亀」についての知識を総動員して、

村上氏の観た能を思い描きます。

 

このような本や記事を読むことは、実際に能を観るのとも、

師に稽古をつけていただくのとも違う、

それ自体独立した、私の大きな楽しみとなっています。