言葉の散歩 【歌舞伎・能・クラシック等を巡って】

日本の伝統芸能や音楽を中心に、感じたことを書かせていただきます。

映画『あなたの名前を呼べたなら』  ・・・  Bunkamura ル・シネマ

2019年08月18日 | 映画

なにかを見に行ったり聞きに行ったりしても、
心に響かないことはしばしば、
というよりも、そのようなことの方が多いものですが、
このところの私は、幸運続きでした。
前回、前々回ご報告した、
セルリアンタワー能楽堂での能『藤戸』、
末廣亭の8月上席昼の部、
その他にも、この一か月ほどの間に、
二つ程、感動するものに出会いました。

そのうちの一つは、Bunkamura ル・シネマで見た映画
『あなたの名前を呼べたなら』(*)です。


   

ストーリーに関わることは控え、
リーフレットに書かれている言葉だけご紹介します。

≪インドのムンバイ。
 ラトナは 裕福なアシュヴィンに仕える住み込みの家政婦。
 近くて遠い二人の世界が交差した時ーーー。≫


ラトナとアシュヴィン、人生が交差した後の
それぞれはどうなっていくのか。

入場を待っている時、私達の前の回を見終わり出ていらした二人連れの方が、
結末の解釈の違いを、熱く論じ合っていらっしゃいました。

実際に見てみると、映画の中に散りばめられた何気ない描写に、
多くの事を考えさせられると共に、
二人の行く末は、たしかに様々な解釈ができると思いました。

またインドでは、この映画は公開されていないという事も、
想像や興味が膨らむ種になり、
二人で見た私達も、解釈の色々な可能性を話し合いました。

心に残る観賞となり、大好きな映画の一つになりました。



* 監督    ロヘナ・ゲラ
 ラトナ    ティロタマ・ショーム
 アシュヴィン ヴィヴェーク・ゴーンバル

 2018年カンヌ国際映画祭の「映画批評家週間 GAN基金賞」をはじめ、
 全部で12の賞を受賞したそうです。


   


新宿末廣亭 八月上席昼の部に行ってきました

2019年08月09日 | 日記



   


   


   



客席は椅子席ですが、両側が畳の桟敷で、
高座、桟敷の上部に、提灯が下がっています。
私は行ったことがありませんが、
各地に残る、古い、趣のある芝居小屋と
共通した雰囲気があるのではないかと思います。
(内部の写真は、申し訳ありませんがご遠慮をということでした。)
東京新宿にあるそんな末廣亭に、とても久しぶりに行ってきました。



一番に高座に上がった前座さんは、
鈴々舎美馬(れいれいしゃ・みいま)さん。
若い女性の方で、少しくすんだ薄いオレンジ色の和服を
きりっと着流しで。
名前を名乗った後、枕は無しで入った噺は「元犬」。
声も、お顔形もすっきりと素敵で、
話し方、仕種、癖がなく爽やかです。
帰って検索したところ、昨年の一月に入門、
今年七月に前座になったばかりとのこと。
将来が楽しみな、出来立てほやほやの噺家さんです。
噺だけでなく、
座布団を返して、師匠が置いていった羽織を持って帰ったり、
紙切りの正楽さんの後に、少しだけ落ちていた紙片を、
懐から出した手拭いに集め、また懐に入れて帰る等々、
高座での働きも、丁寧できびきびしていて感心してしまいました。
   
美馬さんに続いてのこの日の出演者は

 林家まめ平
 ジキジキ
 柳家小せん
 三遊亭窓輝
 アサダ二世
 春風亭柳朝
 桃月庵白酒
 鏡味仙三郎社中
 鈴々舎馬櫻
 柳家権太楼
 林家正楽
 鈴々舎馬風

  中入

 林家たけ平
 ロケット団
 春風亭一朝
 吉原朝馬
 三増紋之助
 林家正蔵

この中で特に印象に残った方々を、
勝手気ままに書かせていただきます。

音楽パフォーマンスの「ジキジキ」さん、
お二人とも歌がとてもお上手、
そして可笑しさは問答無用でした。

白酒さんは「子ほめ」を。
艶のある明瞭なお声、安定感のあるきっちりとした語り口に、
品を感じます。

権太楼さんの「家見舞」。
初めて聞いた噺ですが、わかりやすいすじ、
展開はだいだい予想できるのに、どうしても笑ってしまいます。
やはりさすがです。

トリの正蔵さん。
実は今まで、失礼ながら面白さを感じとれなかったのですが、
この日の「幾代餅」、とても惹きこまれました。
さらりとした可笑しさと、登場人物それぞれの誠実さが伝わる熱演に
感動しました。
このような人情噺が合っていらっしゃることが実感されました。

また仙三郎社中の太神楽、紋之助さんの曲独楽、
江戸の芸の美を感じました。


   

寄席の魅力を堪能した一日でした。

嬉しい予想外  ・・・ Bunkamuraセルリアンタワー能楽堂・渋谷能第四夜『藤戸』

2019年08月02日 | 歌舞伎・能など

  


7月26日(金)渋谷能第四夜、宝生流「藤戸」を観てきました。

能楽評論家・金子直樹さんの解説に続き、お能一番のみ。
体力減退気味の私にとって、有り難いプログラムです。

金子さんの解説は、
平家物語巻十にある話をもとにしたこの能の
特性、見どころを丁寧にわかりやすく説明してくださり、
とても参考になりました。
そして最後に、この能を観た人一人一人が、
色々なことを感じるであろうということを述べられた時、
次のようなことを話されました。

能は、舞台の上に気迫が満ちて、
それが客席に伝わるというものだが、
宝生流の能は、少し違う。
思いを内に内にと籠め、ぎりぎりまで凝縮した、
その粒を、観客が探すような感じ。
宝生流の家元も、美術館で絵を観ることに似ていると
述べられている。
絵が鑑賞者に働きかけるのでなく、
鑑賞者が絵を観に行き、その中に探し出す、
そのようなものである。


大変納得できる解説に、私はとても感銘を受け、
今日はどんな粒を見つけることができるか、
とても楽しみになりました。

照明が少し変わり、囃子方、地謡が舞台に登場、
「次第」の囃子でドラマが始まります・・・。

ところが観終わった時の感想は、
予想とは全然違うものでした。

この日の舞台では、シテもワキもワキツレも、
そして地謡も、「内に内に」ではなく、外に向かって
思いのエネルギーを放出しているような感じを受けました。
思いの凝縮された粒を探すのではなくて、
伝わってくる演者の表現をストレートに受け止めることによって、
ドラマに惹きこまれ、とても感動したのです。

抽象的な言い方になってしまいますが、
演者の方々の発する熱気が、ぶつかり合い、混ざり合い、増幅しあい、
舞台が、とても気迫に満ちた空間になっていて、
観ているものの意識を吸い込むように引っぱっている印象を受けました。


見どころ、聞きどころの多い、ドラマチックな能ですが、
これまではそれほど心に留まらなかったのに、
今回とても感銘を受けたところを一か所、書いてみたいと思います。


かつて息子を、大変にむごい状況で殺された老母(シテ)が、
その心の内を吐露する箇所です。


はたち余りの年なみ かりそめに立ち離れしをも、
待ち遠に思ひしに、又いつの世に逢ふべき、
世に住めば うきふし(*1)しげき河竹の
杖柱とも頼みつる、海人の此の世を去りぬれば、
今は何にか命の露をかけてまじ

 *1 ・・・ 憂き節


 二十歳あまりになるまでの年月
 少しの間離れた場所に行っているだけでも
 帰りを待ち遠しく思ったのに
 (この世からいなくなってしまったとは)
 またいつ逢うことができるのだろうか
 生きているという事は
 辛いと感じる時が多いけれど
 節の多い河竹で作った杖とも柱とも思い
 頼みにしていた海人(息子)がこの世を去ってしまった今、
 いったい何のために生きていけばよいのだろうか

こんな感じになるでしょうか。

この謡に合わせ(というより伴って)
シテは、二十歳余りだった息子の
在りし日の姿を思い出すように、
少し顔を上げ、遠くを見ました。
やがてその死を思い、顔を少し伏せ、
最後の一句で、両手でシオリ(*2)をして、
慟哭を表しました。
     

想像していたよりも声の調子を張った地謡と、
シテの、少ない中にも気持ちのこもった動きに、
幾百の表情、所作、セリフを連ねるより、
母親の、胸の張り裂ける思いが伝わってきたように思いました。
(能では、ここからさらに母親の気持ちが募っていきます。)
とても蒸し暑く、雨も降り始めた夜でしたが、
見に来て本当に良かったと思いました。


金子さんの、説得力があり、本当にそうだと感じた宝生流についての解説は、
もしかしたら意外度を上げて
今日の演者の方達を応援していらしたのかもしれないと、
勝手な深読みをしてしまいました。


 シテ   高橋憲正
 ワキ   野口能弘
 ワキツレ 野口琢弘
 ワキツレ 則久英志
 アイ   山本則重

 笛    小野寺竜一
 小鼓   田邊恭資
 大鼓   國川純
 後見   宝生和英・金森良充
 地謡   和久荘太郎・澤田宏司
      東川尚史・藪克徳
      内藤飛能・辰巳大二郎
      川瀬隆士・田崎甫


*2 シオリ・・・
       能での泣く仕種。
       左手だけのことが多い。
       手の甲が外側になるよう、開いた掌を
       目から口にかけて触れないように当てる。