7月26日(金)渋谷能第四夜、宝生流「藤戸」を観てきました。
能楽評論家・金子直樹さんの解説に続き、お能一番のみ。
体力減退気味の私にとって、有り難いプログラムです。
金子さんの解説は、
平家物語巻十にある話をもとにしたこの能の
特性、見どころを丁寧にわかりやすく説明してくださり、
とても参考になりました。
そして最後に、この能を観た人一人一人が、
色々なことを感じるであろうということを述べられた時、
次のようなことを話されました。
能は、舞台の上に気迫が満ちて、
それが客席に伝わるというものだが、
宝生流の能は、少し違う。
思いを内に内にと籠め、ぎりぎりまで凝縮した、
その粒を、観客が探すような感じ。
宝生流の家元も、美術館で絵を観ることに似ていると
述べられている。
絵が鑑賞者に働きかけるのでなく、
鑑賞者が絵を観に行き、その中に探し出す、
そのようなものである。
大変納得できる解説に、私はとても感銘を受け、
今日はどんな粒を見つけることができるか、
とても楽しみになりました。
照明が少し変わり、囃子方、地謡が舞台に登場、
「次第」の囃子でドラマが始まります・・・。
ところが観終わった時の感想は、
予想とは全然違うものでした。
この日の舞台では、シテもワキもワキツレも、
そして地謡も、「内に内に」ではなく、外に向かって
思いのエネルギーを放出しているような感じを受けました。
思いの凝縮された粒を探すのではなくて、
伝わってくる演者の表現をストレートに受け止めることによって、
ドラマに惹きこまれ、とても感動したのです。
抽象的な言い方になってしまいますが、
演者の方々の発する熱気が、ぶつかり合い、混ざり合い、増幅しあい、
舞台が、とても気迫に満ちた空間になっていて、
観ているものの意識を吸い込むように引っぱっている印象を受けました。
見どころ、聞きどころの多い、ドラマチックな能ですが、
これまではそれほど心に留まらなかったのに、
今回とても感銘を受けたところを一か所、書いてみたいと思います。
かつて息子を、大変にむごい状況で殺された老母(シテ)が、
その心の内を吐露する箇所です。
はたち余りの年なみ かりそめに立ち離れしをも、
待ち遠に思ひしに、又いつの世に逢ふべき、
世に住めば うきふし(*1)しげき河竹の
杖柱とも頼みつる、海人の此の世を去りぬれば、
今は何にか命の露をかけてまじ
*1 ・・・ 憂き節
二十歳あまりになるまでの年月
少しの間離れた場所に行っているだけでも
帰りを待ち遠しく思ったのに
(この世からいなくなってしまったとは)
またいつ逢うことができるのだろうか
生きているという事は
辛いと感じる時が多いけれど
節の多い河竹で作った杖とも柱とも思い
頼みにしていた海人(息子)がこの世を去ってしまった今、
いったい何のために生きていけばよいのだろうか
こんな感じになるでしょうか。
この謡に合わせ(というより伴って)
シテは、二十歳余りだった息子の
在りし日の姿を思い出すように、
少し顔を上げ、遠くを見ました。
やがてその死を思い、顔を少し伏せ、
最後の一句で、両手でシオリ(*2)をして、
慟哭を表しました。
想像していたよりも声の調子を張った地謡と、
シテの、少ない中にも気持ちのこもった動きに、
幾百の表情、所作、セリフを連ねるより、
母親の、胸の張り裂ける思いが伝わってきたように思いました。
(能では、ここからさらに母親の気持ちが募っていきます。)
とても蒸し暑く、雨も降り始めた夜でしたが、
見に来て本当に良かったと思いました。
金子さんの、説得力があり、本当にそうだと感じた宝生流についての解説は、
もしかしたら意外度を上げて
今日の演者の方達を応援していらしたのかもしれないと、
勝手な深読みをしてしまいました。
シテ 高橋憲正
ワキ 野口能弘
ワキツレ 野口琢弘
ワキツレ 則久英志
アイ 山本則重
笛 小野寺竜一
小鼓 田邊恭資
大鼓 國川純
後見 宝生和英・金森良充
地謡 和久荘太郎・澤田宏司
東川尚史・藪克徳
内藤飛能・辰巳大二郎
川瀬隆士・田崎甫
*2 シオリ・・・
能での泣く仕種。
左手だけのことが多い。
手の甲が外側になるよう、開いた掌を
目から口にかけて触れないように当てる。