平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2017年3月12日 わたしに繋がっていなさい

2017年03月19日 14時12分32秒 | Weblog
わたしに繋がっていなさい

 私が平尾教会の幻として祈り求めていることのひとつに、平尾と大名で500人が教会に集い、礼拝するというビジョンを持っている。先日教会や信仰生活の事で、ある信徒の方と大名のテムジンで語りあう機会があってその話をしたのだが、その方はとにかくパウロがテモテへその信仰を教え、委ねられたように( IIテモテ2章2節)、一人の人が信仰者としてしっかり立ち、キリストに与えられた人生と使命に生きることが出来るようになるには、食事や交わりや聖書の学びを通したマンツーマンな関係の中で導かれ、その事柄へは近道はなく、地道な活動を通してだ、と言う話であった。
 現在、教会は弱体化しつつあるこの現状の中で、最低週二回は教会に来て、聖書を学ばなければいけない(礼拝と祈祷会)と強く言われていた。私たちの平尾教会は、霊的な成長の場は非常に開かれている。木曜日の朝と夜の祈祷会や、それぞれの家庭を開放してなされるSG(スモールグループ)である。これらによって私たちが主なる神様と繋がり、また他者の証しを聞く中で自身の信仰が燃やされるという体験を多くの方々が経験している。
 先日、西南SGでは、聖書を共に開き、そのテキストからのそれぞれの疑問や質問を出し合い、それを割り振ってその答えを考え、また御言葉を自身の生活の適用まで考えていた。その箇所は翌週の礼拝の聖書の箇所であった。礼拝をより味わい深くするための工夫がなされていた。2017年はこれまで月一度だったバイブルハートも月二回(第二・第四)となり、より具体的に主に繋がる生活を追い求めることが出来るようになっている。キリストに結ばれたものが更にキリストに繋がり、キリストを頭とし、結び合わされた教会として、更なる成長を遂げたい。


森 師

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2017年3月5日 何でこうなるのかなあ!

2017年03月19日 14時09分10秒 | Weblog
何でこうなるのかなあ!

 私たちは、どうして、毎年こうなるのだろうか。クリスマスカードをいただいても、年賀状をいただいても、ご返事(御礼状)を出さないままになってしまう。これではいけないと、私も妻も思っているが、せめて「寒中お見舞い」の季節に間に合えばいいのだが、それも遅くなり、初夏となって、暑中お見舞いの季節になる頃には、今年こそクリスマスカードを誰よりも早く出して、日ごろのご無礼をお詫びしなければと考えるのだ。
 ところが、もう何十年も同じことを繰り返している。ときどき、初夏の頃に、ようやく家族のようすなどをお知らせする手紙やカードをお出しすることもあるが、受け取った皆様はどのようなお気持ちで受け取っておられることか。それすらも、何人かに出して、途中で息切れがして、半分くらいの人に出せなくなってしまったということもざらだ。
 ほんとうに申し訳ないと思っている。このような私たちだから、毎年、ご挨拶のお手紙類をいただくことも少なくなり、自業自得とは言いながらも寂しい。それでも、見捨てることなく、毎年、カードをくださる方々もおられて、これも心苦しい。
 今年も、実は、カードをいただいた方々には、寒中お見舞いをお出しするようにしていたのだが、季節はもう春になってしまった。かつては、妻も何とか私のケツを叩いてくれたのだが、今は、似た者夫婦になってしまった。言い訳はこれくらいにして、今からでもいいだろうか。何でこうなるのかなあ!


平良 師

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2017年2月26日 ぬか喜び

2017年03月19日 13時58分30秒 | Weblog
ぬか喜び

 ひょっとして花粉症が自然治癒したのではないか、ここ2~3日の間、そんなことを思っていた。とういうのも、福岡でもスギ花粉が飛散し始めたというニュースを聞いていたからだ。それなのに、この私は今のところ何ともない、不思議だ。教会員のMさんは、「来てますよ、私は既に症状があります」と言われるではないか。ということは、もしかして、意識しはじめてから40年もの間苦しんできたこの花粉症に、ついに別れを告げるときが来たのかもしれない。そう言えば、この一月ほど、いただいた黒にんにくとサービスでもらったみどりムシ入りの発酵食品を食べているからかなあ、などと考えていた。
 10年も前になるだろうか、「今年になって花粉症がでないんですよ、どうも治ったみたいです」という知人の男性がいて、彼は、何かの治療をしたのでもないのに突然そうなったというのだ。だから、その話を思い出し、私も治ったのじゃないかと、次第に期待が膨らんできたのだった。
 そうしたら、今日から目の周りが痛痒くなって、「来たあ~!」というわけだ。パウロもこの棘を取り除いてくださいと、自分の病の治癒を主に願い出たとき、「私の恵みはあなたに十分である」とのお言葉をいただいた。だから、そう簡単ではないことがわかる。ああ、憂鬱な花粉症、今日のように低気圧が近づいてくると途端に症状が重くなる。♪春が来た、♪花粉症が来た!♪どこに来た、♪あなたに来た、♪僕に来た、♪ついに来た~。


平良 師

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2017年2月19日 奇妙な二人に目が離せない

2017年03月02日 17時12分12秒 | Weblog
奇妙な二人に目が離せない

 イスラム圏7ケ国の入国を一時停止するという大統領令が出たけれど、それを司法が認めない判断をした。アメリカのこういう姿を見るとき、我々の信仰のルーツはまだ大丈夫だと思う。T氏が大統領に選出された時点では、アメリカはこれからどうなるのだろうかと心配したが、半分くらいの国民は、彼が間違った方向に走らぬようにと目を見張っていることがわかる。
 そのT大統領と日本の首相が、三日間も費やして、まず会談をし、そのあとゴルフや会食を何度もするという。両国の関係が良好になってよいという人もいれば、いいように手なずけられてしまうだけだと言う人もいる。諸外国にはどのように映っているのだろうか。オレたちも、日本のようにT大統領にすり寄らねばと思うだろうか。逆に、日本の滑稽な悲しい首相と映るのだろうか。
 日本のマスコミのなかには、会談は100%成功だったという局もある。そこまでいかずとも、まずまずだったというのは大方の評価のようだ。ウィンウィンの関係は構築されるのだろうか。これで、日本とアメリカが実に緊密な関係にあることだけは世界にアピールされた。T大統領曰く、A首相とは相性があう。その相性とはどのようなものなのだろうか。
 どういうわけか、我々は今、毎日マスコミによって、まさにタレントのスキャンダルを聞かされるかのようにして、この二人についての情報を与えられている。既にうんざりと言う人もいるが、魚々!事は始まったばかりだ。


平良 師

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2017年2月12日 キチジローでよい

2017年03月02日 17時09分06秒 | Weblog
キチジローでよい

 昨日は、「沈黙」という遠藤周作原作の映画を観て、つくづくと神様の沈黙をどう理解するかということは、信仰する者にとっては、大きなテーマだと思った。あの映画では、何の奇跡も、救いらしきものも、何も描かれていなかった。このテーマは御国に行くときまで続くだろう。二人のイエズス会の宣教師たちは、苦しむ日本人を拷問から救うためであったが棄教し、日本人として権力側の人間として余生を過ごしていくことになる。
 キチジローという日本人は、踏絵を平気で踏み、仲間を金で売り(真実は不明として描かれている)、まさに、ユダのような存在として描かれている。彼は自分のことを弱い人間だと繰り返す。一方、多くの村人たちは、むごたらしい刑罰によって、殉教の死を遂げていく。キチジローは、宣教師のもとに告解にやってきて、その場では、罪を悔い、赦しを乞うのだが、捕えられて信仰が試されるときになると何度でも踏絵を踏んで、イエス様を裏切ることをする。
 しかし、それで彼の信仰がなくなったかというとそうではない。棄教した宣教師のもとにやってきて、またもや告解をしようとするのである。皮肉であり、滑稽である。そして、それでよいのだと遠藤周作は、私たちに告げているのだろう。カトリック教徒の遠藤その人が、まさにこのキチジローでしかないことをわかっている。そして、私もまた、所詮はこのような弱いキチジローでしかない。同時に、イエス様の赦しも固く信じている。


平良 師

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2017年2月5日 無題

2017年03月02日 17時04分28秒 | Weblog
無題

 2月に「信教の自由」をバプテストの特徴として取り上げます。キリスト教信徒と同時に国の市民であるので、信仰と政治との関わりに心を留めます。国内においての様々な課題にキリスト教的視点から見て、番人役を果たしていきたいと思います。辺野古、福島原発後、平和憲法改正、愛国主義強化等がありますが、教会の中で意見が完全に一致しているとは言えないでしょう。
 そうであっても、聖書信仰に基づいて、理解と解決を求めたいと思います。「いや、住んでいる県が違うし、デモに参加せず、何と平和だな」と思いがちな日本国内の私たちは、米国内の流れを参考にしましょう。新大統領就任式の一か月後には、貿易、健康保険、難民支援、環境がすべて脅かされ、閉鎖的になり、「アメリカファースト」(つまり、「オンリー」)や金持ち優先の傾向が明確になっていました。
 実は、キリスト教は最初から国家と文化を超え、初めての国際的な組織となりました。(リック・ウォーレン氏のサドルバック教会に67か国語が使われているそうです。)つまり、敵国であっても兄弟姉妹がいれば、又、兄弟姉妹であれば、お互いの息子・娘が殺し合いに派遣する戦争を止めるべきです。米国のキリスト教の一部は、「キリスト教文化」を取り戻して一安心となった結果、移民、難民、特にイスラム教徒への差別が促されています。
 バプテスト教会は伝統的に、宗教が違っても、「信教の自由」に基づいて、「あなたの自由は同時に私の自由だ」と訴えてきました。日本では、「キリスト教文化」の自覚がなく、誘惑もなく、逆に新鮮に、創造的に、自由に、市民権を生かせられます。その自由を感謝して、人権と慈悲に立ち、又平和の道を訴え、声を合わせていきたいと思います。共に。


S.ハンキンス 師

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2017年1月29日 キリスト者としての定年

2017年03月02日 14時52分49秒 | Weblog
キリスト者としての定年

 私の教員時代の同僚が、今年3月で定年を迎える。その職場は、62歳が定年だったが、私が30歳のとき、それまで60歳定年だったのを組合が理事会に要求して勝ち取ったのだ。そして、62歳から3年間は、希望すれば特任講師で勤められることにもなった。
 牧師の定年はどうなっているのだろうか。日本バプテスト連盟に属する教会で、牧師に定年制度を設けているところはほとんどない。それにはいろいろな理由があるのだろうが、一つには定年制度を作るためには、そのあとの生活の保障など、何かと難しい事柄が発生するために、作ることができないというのがあろう。
 各個教会主義であるバプテスト教会の牧師は、その教会での召命感を失うか、教会からの不信任を受けるかして、辞めることになる。自分は65歳までと線引きをしている牧師たちもかつてはいたが、最近は、70歳くらいまではと考えている方々も多くなった。教会も、65歳で年金をもらうことになった牧師を年金牧師という形で招聘するところが多くなってきている。それは、それなりの給与を支払って、牧師を招聘する力が教会にないためで、年金牧師は牧師館を用意し、活動費を支払う程度で支出を抑えることができる。
 しかし、そうなれば若い牧師たちを招聘する教会が少なくなり、それもまた困るのである。ところで、「神に従うキリスト者は死ぬまで皆現役だ」と、出身教会の先輩は言った。万人祭司たるバプテストのキリスト者たちに定年はない。


平良 師

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2017年1月22日 教会バザーの顔“甘夏”

2017年03月02日 13時37分54秒 | Weblog
教会バザーの顔“甘夏”

 ご存じのように平尾の裏庭に甘夏の木が植えられている。毎年、おいしい実がなる。今年は、約100個もの実がなっている。5月に花をつけたときからずっと見守ってきた。3週間ほど前に、落ちて割れていた甘夏を食べてみた。ジューシーでおいしい、甘さもそこそこだ。この甘夏は、肥料も与えられず、陽当たりもあまりよくないにもかかわらず、ほんとうに律儀に実をつける。
 神様からの贈り物だろうか。色、形、おいしさの点でも、教会の甘夏は上等だ。壮年会では、今年の2月4日(日)の教会バザーの前日に収獲をすることにしているようだ。このうまさを知っている者は、1個300円でも買うだろう。実のしまり、ジューシーさ、品のよい甘さ、実にすばらしい。
 初夏の頃に甘い匂いの白い花をつけ、それが散ると小さな緑玉があとに残る。次第に数を減らし、100個くらいが成長した。男性トイレの小窓から、季節の流れのなかで、甘夏が大きくなっていく姿を毎週見るのが楽しみだという人は意外と多いかもしれない。この甘夏こそ、教会バザーの顔ではないか。この甘夏に比べると、悔しいかな、私の作る燻製も色あせてしまう。
 今年最初のマグロの競りで、200キロの大間のマグロが6000万円で競り落とされたというニュースを見た。競り落としたのは、ある回転ずしチェーンの社長さんだった。宣伝効果もねらってのことらしい。ひょっとして、当教会の甘夏も、競りにかければとんでもない値がつくかもしれない。


 平良 師

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2017年1月15日 神の啓示について

2017年03月02日 13時12分08秒 | Weblog
神の啓示について

 『パウロ・十字架の使徒』( 岩波新書) を、昨年2016年12月20日に無事出版することができました。「あとがき」にも書きましたように、平尾教会の皆様のお祈りとお支えに対しては、心から深く感謝いたしております。ほんとうにありがとうございました。
 さて、拙著のなかで私は、次のように主張しました。パウロが出会った「復活のキリスト」は、「十字架につけられたままのキリスト」であった。そしてそのような姿のキリストの顕現こそは、パウロ自身の「内側」における疑問に対して、「外側」から神の応答として与えられた「啓示」そのものであった。パウロのその疑問とは、木に架けられた者は、申命記21 :23が言っているように、神によって呪われた存在であるはずなのに、なぜキリスト者は、こともあろうにそのようなイエスこそがメシア= キリスト、救い主だ、などと断言できるのか、という疑問であった。そしてそれは、ユダヤ教徒時代のパウロをして迫害者ならしめたほどに深刻な疑問だったのであるが、パウロのその「内側」の疑問に対して、神の応答が「外側」から与えられたのであった。そう私は主張しました。
 しかしそうだとしますと、さらに根本的な問いが生ずることになります。すなわち、神の「外側」からの啓示は、受け取り手の「主観」を離れた「客観的」なものでなければならないはずなのに、パウロの場合には、むしろまったく逆に、彼の「内側」における疑問・こだわりにまさに「呼応」するようにして、神の「啓示」が与えられたことになってしまうが、ほんとうにそれを「啓示」と見なしてよいのだろうか、という問いです。パウロはこのような問いに対して、それを肯定しつつ、おそらく、「( 啓示をとおして) 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです」( 第一コリント14:26~ 33a) と答えることでしょう。各自の信仰の成立にとって根本的なこの問題については、今後ともご一緒に考えていきたいと願っています。


青野 師

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2017年1月8日 2017年も主が導かれる

2017年03月02日 13時05分43秒 | Weblog
2017年も主が導かれる

 2013年から二ヶ所で一つの教会を作る試みをはじめた。2016年度は、そのことを再確認する一方、ミッションステートメントを定めて、気持の一致を図ることになった。そして、それに基づき、二ヶ所で一つの教会を本気で作り上げるために、組織の変革を検討する委員会の設立を12月の執事会では考えた。
 委員会の構成をどのようにするかなどは、今後の課題だし、教会機構改革委員会(仮称)設置の決定も総会事項となる。2013年から現在に至る活動のなかで、この二ヶ所で一つの教会を作っていくという形態によって、多くの良きものもいただいているが、いくつかの支障や課題もまた見えてきた。
 この委員会の働きの第一は、目に見えている課題の一つ一つを解決すれための組織の変革を行うということである。それだけでなく、それ以上に、この形態が二ヶ所でうまくかみ合って、機能的な動きを展開できるようになり、相互の力をさらに強化していくことになればと考える。私たちは、これからも試行錯誤を繰り返しながら、結果的には、よきものを神様からいただくことになるであろうとの確信に立ちたい。
 何といってもまず、平尾と大名とそれぞれの動きが歯車のようにうまくかみ合うことがポイントである。平尾バプテスト教会は、自由かつ多様性に富み、それぞれの違いを喜ぶという、実に困難ではあるが、誰もが理想とするものにチャレンジしているのである。2017年も主が私たちの導き手である。


平良 師

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