天瀬ひみかのブログ 『不思議の国のAmase』 AMaSe IN WONDeRLaND

僕たちの旅、ここではないどこか、幸福な場所へ。

反帝国のパレーシア

2019-02-24 01:45:55 | 日記
■人間は本能を失った動物


人間は本能を失った動物。地球上のすべての生き物の中で、ただ唯一、人間だけが本能を失っている…。

〈本能〉とは、何か? 本能とは、即ち、神が定めた「自然の法」に従って、他の生き物や自然の全体と調和して生きること、です。

この本能に従った生き方をする限り、そこにはいかなる罪も闇も決して生じることはありません。

それは、人間以外の他の生き物を、幼子のように素直な目で見れば、直ちに分かることです。




■人間は神や自然との繋がりも失っている


人間は人間以外の生物が皆当たり前に具えている本能というものを失ってしまっている。ということは、つまり、神と自然との繋がりも失っているということ。

だから、人間はどんなに意識して頑張ってみても、結局は(他の生き物のように)完全に罪なく(つまり、一つも悪い事をすることなく)生きることは絶対に出来ない…。

人間は、結局正しいことをほとんど行うことは出来ないし、そのことによって、人間という種族は、自身が生きている限り、地球と自然とを破壊し続けることになる。

また、人間の魂は、神との繋がりを失った結果、下方の三次元層にまで墜落し、四次元層にある諸惑星のエネルギーを使ったアカシックコードの完全なる統治システムを作り出したアルコーンたちによって、完全に奴隷として支配されるようになりました。

以上が自らの霊的な不注意による過失のせいで人間が自身に招いてしまった失楽園という悲劇の主要な顛末です。




■人間はアカシックコードの支配を見破ることができない


人間はアカシックの闇の支配に対して、まったく盲目であるため、自分が操り人形として、アカシックのエネルギーに完全にコントロールされていることを理解できないし、また、その事実に僅かたりとも気づくことさえありません。

でも、それも無理もない話と言えましょう。何故なら、アカシックには、「物」のような形質が無く、それは目に見えず、常に変容を繰り返しているがゆえに、人間の感覚知覚にはまったく捉えようがないからです。

さらに、たちの悪い事に、アカシックは、人間の存在そのものと分ち難くぴったり一つに同化しています(ソーラーコード160)。

だから、つねに「光」は、ここ(=私たちの意識できる次元)ではなく、ここではないどこか(=私たちの意識を越えた外側の次元)にあります。

しかし、その事実を自らの目を開いて客観視できない人は、アカシックが有するコードの専制支配から永遠に解き放たれることはないのです。

はっきり言いますが、私たちが「光」を探して、色々とスピリチュアルな学びをしてみたり、宗教を信じてみたりしたところで、全部ムダです。

なぜなら、それら「光のようなもの」は、実はすべてがアカシックに操られた人間たちが作り出した(もっと正確に表現すれば、作り出すように予めプログラムされた)「まがい物」にすぎないからです。




■人間は闇と光を見分けることができない


言うまでもなく、そうした「物」は、神にも自然にも繋がっていません。

そうした「物」たちは、アカシックから放たれる僅かな光の欠片、もしくは、濃厚な闇のエネルギーが強く凝集して出来たものです(ソーラーコード359)。

アカシックのソーラーコード1(自然と本能からの切離、人間以外の他の動物からの離反)から始まる人間存在の闇は、続くコード2(観察と模倣)、コード3(権力の獲得、支配と被支配の関係性、富める者と貧しい者の区分)、コード4(性欲、色欲)、コード5(人間の願望、マーヤー)の流れを経て、コード6の「箱」(物質化)に流れ込み、コード7における濃密な闇の塊として凝集します。

そして、それにコード8のリボンがかけられて、ついに「物」が完成へと至ります。

この「物」の〈実体〉を見抜くことは、通常の人間には至難の業です。

まず、箱を開けてみないことには、中にあるものが「光」なのか、「闇」なのか、何も分からない。

また、中を見るために、箱を開けたなら、その人はすぐに中に詰められた毒に汚染・感染してしまう。

それはまさに浦島太郎が持ち帰った危険な玉手箱のようです。開けたらオワリ…




■人間の限界


結局、この箱に触れることなく、中にある〈実体〉を見通せる並外れた「眼力」が必要なのです。

そして、その「眼力」の必要性が暗示されているのがコード8に続くコード9の「水晶透視者」というシンボルです。

しかし、このコード9の透視者も、水晶という「物」に頼ることなしには、箱の中を見ることは出来ません。

水晶は、他の「物」よりも、まだ闇性の低い、かなり純化されたものの象徴ではあります。

ただ、それでも、完全な「光」から成っている訳ではありません。それは闇によって「極限まで弱められた光」の凝集物なのです。

だから、その光の照射によって暗い箱の中にある物を完全には言い当てることは出来ません。

仮に誰かがある程度は言い当てることが出来たとしても、完全には言い当てることが出来ないのです。

ここまでが人間の限界です。闇である人間が、どんなに熱心に光を求めたとしても、ここが人間の明確な限界なのです。

そうした限界を人が自覚する場面、また、自覚した人が次に行う行為の場面がシンボライズされたものが、続くコード10の「象徴学者」(言語の発達、象徴の使用、言論)です。




■〈帝国〉の出現


人間は、ここに至って、遂に、他の生物とは完全に異なった存在へと変貌します。

人間は、言語と象徴を使用することを覚え、同時に、そのことによって、神と自然から、自らを切り離すことに成功したのです。(→バベルの塔の話)

そして、次に、先のコード3で首尾よく支配する側に回ることの出来たごく少数の人間たちは、その支配体制をより強固なものにすべく、続くコード11「国家の統治者」において、「国」という「物」を発明し、自らがその頂点におさまろうと画策し始めます。

そしてこの「国」の支配階層たちは、自分たちが支配することになる圧倒的大多数の人々と、「自然と本能と動物」(コード1)「領土、貨幣、税、経済全般」(コード3)、「グループ活動、恋愛、性交渉」(コード4)、「願望、考案、発案」(コード5)、「営利活動、あらゆる物」(コード6)、「流行、動向、商品化」(コード8)、「透視者、卜占術」(コード9)、「記号、象徴、言論、教育」(コード10)といった「事物」の総体とを、自らの支配下に置きます。〈帝国〉の出現です。




■奴隷の誕生


エネルギー順移のこの段階に至っては、支配される側の人間には、もはや何の自由もありません。

続くコード12にシンボライズされているように、ただ「国」が指示するやり方(右向け右)に従って、規律正しい「集団行動」を永遠に続けるように強いられるだけなのです。つまり、〈帝国〉の権力によって奴隷が生み出されたのです。

そして、この体制に疑問を持ち、そうした状況を現実に変革しようとする個人や集団は、「反体制」の烙印を押されて、徹底的に破壊されることになります。

その様子がシンボライズされたものが、続くコード13の「ある国の革命的行動が強力な新型爆弾の投入によって終わりを告げる」(戦争、弾圧)です。

このような圧倒的な力の支配によって、支配される側の人々は、やがて次第に無気力になり、程なく「長いものに巻かれる方がラク」という意識にどっぷりと浸り切るようになります。

その様子をシンボライズしているのが、続くコード14の「巨大な蛇に巻かれた男と女」なのです。




■宗教、民族愛、愛国心


でも、ただ毎日長いものに巻かれているだけでは誰でもストレスが溜まります。

そこで人々は、ストレスを緩和させるために、もしくは目の前の現実から逃避するために、祭り事(宗教的、あるいはスピリチュアルな行為)に救いを求め、あるいは政事(まつりごと、即ち政治)に状況の改善を期待しつつ、それと共に、長いものに巻かれるという負の意識を、民族愛や愛国心やその他の自己が属する共同体への献身というプラスの意識にすり替えて行きます。

そうした状況がシンボライズされたものが、続くコード15「部族の大事な祭りで使われる儀式用の装束を繕うインディアンの妻」なのです。




■私たちを支配するアカシックの実体、「真の黒幕」としてのアルコーン


アカシックのストーリーは、この後もコード360、そして、折り返し地点を経て720に至るまで延々と続くのですが、話が長くなり過ぎるので、一旦ここで終了し、再度アカシックについて触れてみたいと思います。


―「水晶透視」では無理。「祭事=政事」(まつりごと)にも救いはない。


■《ではどうしたらいいのか?》


真の実体のない「物」(より正確に言えば、闇の凝集物である「物」)を作り上げている人間の背後にいる「真の黒幕」であるアルコーンたちの姿(=アカシックの実体)を私たちが正確に認識するしかないのです。

そして、そのために絶対不可欠となるのが、私が「水瓶座時代の主」ホルス神より授かった総計720のアストラル・シンボルからなるアカシックコード解読のための特別なシステム、“ コードロジー ”なのです。