犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

死から逆照射されない思想 その1

2007-12-20 14:40:56 | 時間・生死・人生
昨年8月、幼児3人が犠牲になった福岡市東区の飲酒運転追突事故の裁判で、福岡地裁は福岡地検に対し、業務上過失致死傷罪と道交法違反(酒気帯び)を予備的訴因として追加するよう命じた。これは、裁判所が危険運転致死傷罪の適用が困難であるとの心証に達したことに基づくものである。現代の法治国家において、客観的な刑法の条文への構成要件該当性がないと言われれば、もはや取りつく島がないようにも思えてくる。父親の大上哲央さんも、「客観的証拠に基づく冷静な判断であればやむを得ない」との談話を発表した。しかし、これらの法的な原則をすべてわかった上で、やはり割り切れない。納得できない、何かが狂っている、このような違和感はどうしても残る。

客観的な刑法の構成要件該当性から厳密に危険運転致死傷罪の条文解釈をしている専門家からすれば、このような違和感は無知な素人の感情論である。現に近代社会における裁判は、かような感情論は非現実的であるとして切り捨ててきた。しかし、犯罪という言語道断な現象を正面から捉えようとすれば、この違和感こそが何よりの現実である。納得できない、何かがおかしい。人間の直観的な倫理はどうしてもこのように感じざるを得ない、これが動かぬ現実である。これ以上の現実はない。犯罪という割り切れない現象は、「構成要件」という側から見れば簡単に割り切れてしまうが、それはあくまでも最初から割り切れる解答を設定した上での逆算である。「犯罪被害によって我が子を一度に3人も失う」という側から見てみれば、客観的な世界のみが現実であるという根拠は揺らいでくる。

犯罪被害の問題が「問題」として必然的に浮上してくる時、その問題の核心は何か。それは、「理不尽さ」「割り切れなさ」である。客観的な実証科学は、このような問題設定を劣ったものとして、全く相手にしてこなかった。客観的な条文こそが動かぬものとして存在し、個々の事例がその条文に当てはめられる。そして、ある事例は刑法208条の2(危険運転致死傷罪)の構成要件に該当するが、別の事例は同条の構成要件に該当しない。福岡の事件も同条に該当しない。これで何が問題か。ロジックとしては完璧に筋が通っており、一見すれば反論の余地もない。しかし、やはり割り切れないものは割り切れないし、反論したいものは反論したい。そして、このような現実が存在することだけは否定できない。犯罪被害の問題の核心が「割り切れなさ」であるならば、それを無理に割り切る実証科学の方法は、犯罪に関する問題の核心をスッポリと切り落したまま平然としていることになる。

「犯罪被害によって我が子を一度に3人も失う」とはどのようなことか、この問題設定に耐えられないとなれば、議論は裁判所の訴訟指揮の妥当性に流れる。あるいは、検察官の訴訟進行の巧拙論などに流れる。訴因変更の要否、訴因変更の可否、訴因変更命令の形成力は刑事訴訟法の一大論点でもあり、裁判員制度の導入を控えて、専門家による素人への懇切丁寧な説明も求められるところではある。しかし、何だか物足りない。本質的な話が抜けている気がする。この直観は正しい。もちろん、「幼い命が3つも失われた」という言い回しでは、法治国家には何の効果も与えない。ここで、ハイデガーの言葉を借りて、「未来の死に逆照射される形で、その無との関係性において今が生じる」と言えばどうなるか。割り切れなさの核心が段々と見えてくる。ここで見えてくる死は、大上紘彬ちゃん(4つ)、倫彬ちゃん(3つ)、紗彬ちゃん(1つ)の死ではない。今林大被告(23歳)の死である。

(明日に続く)