はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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020―宣長と自然治癒力 ―本居宣長と江戸時代の医学

2015-05-28 20:20:00 | 本居宣長と江戸時代の医学

宣長の安永七年の処方傾向をもう一度見てみましょう。

1.(131)12.24% 補中益気湯・参蘇飲
2.(104)9.72% 胃苓湯
3.(90)8.41% 銭氏白朮散
4.(88)8.22% 不換金正気散
5.(70)6.54% 二陳湯
6.(60)5.61% 葛根湯
7.(43)4.02% 宣長方
8.(37)3.46% 柴平湯
9.(32)2.99% 消疳湯
10.(25)2.34% 六君子湯・烏梅丸
11.(24)2.24% 小柴胡湯
12.(15)1.40% 香蘇葛根散
13.(14)1.31% 芍薬湯・桂枝湯
14.(13)1.21% 三生飲
15.(12)1.12% 柴胡湯

*1

 宣長は補中益気湯を筆頭に、作用の穏やかな薬を多く処方していました。上には記されていませんが、他にも理中湯や産後養栄湯、香砂六君子湯などの気を補う薬や、時には大黄丸や大承気湯、小承気湯などの瀉下薬、攻下薬も用いていました。

 香川修徳 「医家先哲肖像集」より

 また宣長は香川修徳の順気剤をよく用いています。修徳は代表的な家方として順気剤、潤涼剤、解毒剤、敗毒剤を『医事説約』に載せ、宣長もそれを書き写しているのですが、実際の臨床で用いているのは、気の流れを調える目的で使用される順気剤だけでした。なぜなのでしょう。そしてこれらは何を意味しているのでしょうか。これを明らかにする前に、学生時代の宣長の言葉を『送藤文與還肥序』から見てみましょう。これは誤解のないように、少し今風の言葉に直し、最後に原文を載せておきます。



病は軽薄な薬剤の治せる所ではない。ただ煕然たる一気だけがよく病に抗いこれを制する。それができるのは気であって、神にして測ることはできない。本々は天からの授かりもので、そして諸々の身体に充ちている。後世はこれを元気と謂い、この気が有ってこそ人は生まれ、無ければ死んでいる。

この気には盛衰の時が有って、その時々で病となる。外邪内傷、すべての疾患はみなその盛衰によって発生する。死生はただこの気の有無だけで決まる。五藏六府から四肢九竅まで、この気を得ると、それぞれが機能するのである。およそ一身の働きはことごとく気より出る。その働きが中和順従、有過不及なく、体外からは六気が犯さず、体内では七情の傷がなければ、病は何処からも来ない。些かでも過不及があれば、病になる。或は内より、或は外より、左右上下、その隙をついて発症するのは、このためである。

気には真邪の区別がある。医者は湯熨鍼灸でその真気を助け、邪気を攻めようとする。しかし湯熨鍼灸は真気の働きを助佐するものであって、みずから病を攻めない。真気は病に対しては、吐いてよい者は吐かせ、下痢させてよい者は下痢させる。攻め、補い、温め、涼やす、それらどれでも真気は必要である。

またその力は、よく攻め大病を治める。しかし、その気が衰弱すると役割を担えず、対して病は盛んとなり、ついに克てなくなり、困難に到る。この気が病を制治できなくなれば、人の寿命を決定する神、司命といえどもどうしようもない。草薬においてはなおさらである。

ただ真気の趨勢する所を察し、そして薬石がこれを順導補佐し、すなわちその力を助け、真気を大いに振興する。汗吐下を適切に行えば、病は随って治癒する。いやしくも真気の趣く所を察せず、みだりに攻撃及び温補しても、少しも効なく、またよく人を損なう。ゆえに治病の枢機は、真気の勢を察するにある。

世の医は特に温補をもって助気の事と為し、攻撃も助気の方法も知らない。深く考えていないのだろうか。治療の方術は助気ではない。当然この気は養うことはできても補うことはできない。いったん大いに羸困すれば、大量の人參や黄耆があっても、何の役にも立たない。まさにこうなったら、手をこまねいて斃れるのを待つだけである。

生命を守りたければ、すべからくこれを平らかにし抱き養い生きるねばならない。これを養う術は、以下だけである。

食事は薄く飽食しない。
身体はよく労働させて倦まない。
思慮は常に寡なくする。

気の働きに逆らわず、身体中に流れて滞らねば、その働きは四肢末端に溢れ、五臓六腑はすべて問題なく、病は発症することができない。『内経』に云うところの「上工は気を平らかにす」とはこのことを謂っているのだろう。養気は医の至道であり、慎まねばならない。

そうして古方家の諸々の攻は失敗し、近方家の諸々の補も失敗する。両者とも適正に治療できていない。悲しいかな。



 宣長が友人、藤文與(岩崎榮良)にこう言った背景も面白いのですが、これについては後回しにしておきましょう。宣長はまだ若く医者として開業する前に言いました。「病は軽薄な薬剤の治せる所ではない」と。それでも宣長は実際の臨床では作用の穏やかな薬を多く処方していたのです。宣長は病を治していなかったのでしょうか。宣長は医師として何をしていたのでしょう。

 宣長は「気は養うことはできても補うことはできない。いったん大いに羸困すれば、大量の人參や黄耆があっても、何の役にも立たない」と言いつつ、代表的な温補薬、補中益気湯を多用しました。また実際には攻下薬、大承気湯などを頻繁に用いながら、また時にはお灸もしながら、「湯熨鍼灸は真気の働きを助佐するものであって、みずから病を攻めない」と言っていました。

 つまり、もしこの言葉と実際の臨床に論理的一貫性があれば、宣長は病を治していなかったと言ってよいかもしれません。宣長にとって、病を治すのは「煕然たる一気」や「元気」、「真気」と呼ばれる自然治癒力をもったものなのです。宣長は病の治癒に立ち会っていたのであり、ただ「真気の働きを助佐」していたのであり、例えば、補中益気湯自体が真気の不足分の代替になるとはまったく考えていなかったのです。宣長にとって薬はあくまで自然治癒力の働きを助けるものであって、そこが古方家や近方家の一般的な医者と意見を異にするところであり、これは手段ではなく目的が異なっていたのです。

 「真気の働きを助佐」するためにはどうすればよいのでしょう。まず「真気の趨勢する所を察し」なければなりません。その上で「汗吐下を適切に行えば、病は随って治癒する」と宣長は言うのです。例えば、食中毒で今にも吐こうとしている人に吐き気止めを与えて戻さないようにさせたり、下痢止めを与えたりすることは、明らかに状態を悪化させます。当時の麻疹の治療でも「誤りて止泄止咳等の剤を用い」て害となることがあったのです。*2

 また「止泄止咳」と異なる方法で害を起こすこともありました。吉益東洞は「治法はまた毒を除き膿を排するをもって主と為し」ました。東洞は食物、穀肉果菜ですら気を補うことは難しいのに薬で補うことなどあり得ないと主張し、専ら疾病を攻撃しました。*3 宣長はこのような治療方針について「害が見られる者過半にて、全き者十のうち三四、畏るべきかな」と言い、「古方家の諸々の攻は失敗」と評価しました。

 吉益東洞 「医家先哲肖像集」より

 これはそうとう低い評価です。『黄帝内経霊枢』邪氣藏府病形第四には「上工は十全九、中工は十全七、下工は十全六」とあり、古代中国の一番程度の低い医者でも十人中、六人を治していたのです。

 宣長は麻疹でも古方派、吉益東洞のような治療はしませんでした。例えば、天明二年三月に六歳の子が麻疹にかかりましたが、使用したのは柴平湯加防風です。「毒を除き膿を排する」ように攻撃することなく、ここでも作用の穏やかな薬を使用しました。

 それではどのように「真気の趨勢する所を察」するのでしょう。ジェダイの騎士がフォースを感じるような、超自然的な力で行うのではありません。漢方・中国医学では診察法は伝統的に望聞問切の四つ(四診)に分類されていますが、これは今風に言うと視診・聴診・問診・触診です。目の前にあるものを、出来るだけ科学的に観察することから始まります。なぜそう言えるのでしょう。宣長は神話、『古事記』の解読で一家をなし、現在では本居宣長ノ宮に祀られています。もっと神がかりな力で「真気の趨勢する所を察」していたと想像してしまうかもしれませんが、違います。なぜなら宣長の哲学は「気一元論」に基づいていたからです。*4

 気一元論は、宣長の身近な所では、師の堀景山と親交のあった荻生徂徠や、京で宣長の寄宿していたすぐ近くに塾を構えていた伊藤東涯、その父の伊藤仁斎、そして貝原益軒などが主張していた哲学です。*5 特に貝原益軒は宣長に大きく影響を与えています。*6 宣長の気を養う方法、

食事は薄く飽食しない
身体はよく労働させて倦まない
思慮は常に寡なくする

 というのは、益軒の『養生訓』そのままですね。ではなぜ気一元論に基づくと、科学的に観察し診察しようとするのでしょう。益軒の『大疑録』を見てみましょう。

 貝原益軒 「医家先哲肖像集」より

それ天地の間は、すべてこれ一気にして、その動静を以てすれば、これを称して、陰陽となし、その生生息まざるの徳、これを生と謂ふ。故に易に曰く、「天地の大徳を生と曰ふ」と。その流行を以て、一は陰となり、一は陽となる、これを道と謂ふ。その条理ありて乱れざると以て、又これを理と謂ふ。指す所同じからざるによりて、姑くその名を異にすといへども、然もその実は、みな一物のみ。ここを以て陰陽流行して純正なるものは、即ちこれ道なり。故に理と気とは、決ずこれ一物にして、分つて二物となすべからず。

 この当時は朱子学を基盤とする社会であり、理と呼ばれる形而上のものが、気と呼ばれる形而下の物質とは別に存在するとされる理気二元論が日本を席巻していました。それが江戸幕府の秩序を維持する役割を担っていたわけですが、もし理と気が別にあるのなら、世の中の原理法則・守るべき方針・倫理・道徳などを目の前の現実の中から見出そうとするのではなく、書物の中や幕府や師の言葉に求めるようになります。なぜなら理は形而上のもので形而下の世界のどこにもないからです。

 しかし「天地の間は、すべてこれ一気にして」、「理と気とは、決ずこれ一物」であれば、目の前の現実、気の中に理を探さねばなりません。それにはまず観察が必要なのです。宣長は「気の働きに逆らわず、身体中に流れて滞」らないことの大切さを説明する時、「上工は気を平らかにす」と『黄帝内経霊枢』根結第五から引用しました。

上工は気を平らかにする。中工は脈を乱す。下工は気を絶やし生を危うくす。故に曰く、下工は慎まざるべからず。必ず五臓の変化の病、五脈の応、経絡の虚実、皮の柔粗を審らかにし、しかる後にこれを取る也。

 「気を平らかにす」るためには、「必ず五臓の変化の病、五脈の応、経絡の虚実、皮の柔粗を審らかに」すること。つまり、治療を行う前に詳しく診察して、正確に診断する根拠を必要とするです。それを行ったからこそ、宣長は一人一人の患者ごとに、また病の経過に合わせて薬を細かく変更し調整しながら処方することができたのでした。*7 風邪と聞いたとたん葛根湯を出す薬師、脈だけ診て治療する鍼師、検査の数字やパソコンの画面しか見ない医師など色々あります。宣長はそのような医療に警鐘を鳴らし、自らは信じる道を終生歩き続けたのでした。

 理気二元論は人々を教条主義や形式主義に陥らせることがあります。それは朱子学があまりにも完成されていたからではなく、理が形而上の存在であるためその正しさを証明できないためでした。信じるか信じないかの宗教の一種です。しかし気一元論なら現実に合わせて理を修正していくことが可能となり、それが古学、古文辞学、古義学、古方派医学、国学などを発達させる原因となりました。

 宣長の『古事記伝』は伝統的な考証学的な手法で研究され完成した作品ではありません。解釈の根拠を、後世の研究者や権威たちの所論にではなく、『万葉集』など『古事記』が著された当時の様々な資料を基に解読したのです。契沖の『百人一首改観抄』、賀茂真淵の『冠辞考』なども同様です。

 宣長と同世代に、宣長同様、気一元論に基づき医者をしていた、日本を代表する学者が他にもいます。それは自然哲学者、三浦梅園です。

つづく

(ムガク)

*1:017-本居宣長と江戸時代の医学― 宣長の処方傾向と補中益気湯 ―
*2:018-本居宣長と江戸時代の医学― 麻疹(はしか) ―
*3:『医断』吉益東洞著・鶴田元逸編
*4:007-本居宣長と江戸時代の医学―漢意―
*5:貝原益軒の養生訓―総論上―解説 023
*6:013-本居宣長と江戸時代の医学―堀景山と宣長2/2下 ―
*7:016-本居宣長と江戸時代の医学― 宣長の症例その3 ―


『送藤文與還肥序』

夫病非輕劑薄藥之所能治也、唯煕然一氣、独能抗病而制之、其爲氣也神而不可測矣、本稟諸天、而充諸身者也、後世謂之元氣、有此氣適爲人、無則尸爾、此氣也有時盛衰、皆能爲病、外邪内傷、百爾疾患、皆由其盛衰而發焉、死生唯此氣之有無已、五藏六府、以至四支九竅、得此而後各相爲其用、凡一身之政、咸出於氣、而其政中和順従、莫有過不及、則外無六氣之犯、内無七情之傷、病何従來、至有些過不及、乃成憂恙、或自内、或自外、左右上下、逐其隙而發矣、於是乎、氣有眞邪之分、當假湯熨鍼灸、以助其眞氣、攻邪氣也、然湯熨鍼灸、助佐眞氣之政者也、而非自攻病者也、夫眞氣之待病也、宜吐者吐之、宜利者利之、攻也、補也、温也、涼也、無一失其所焉、其力亦能攻治大痾也、而其氣衰弱、不勝任、病偶熾、則竟不能克焉、而爾然致困矣、此氣不能制治之病、則雖司命無奈之何已、況於草藥乎、唯察眞氣所趣勢、而藥石順導輔佐之、則資其力而眞氣大振、汗吐下適其宜、病随而癒瘳、苟不察眞氣之所趣、妄攻撃及温補、則不啻無効、亦能賊人、故治病之樞機、在察眞氣之勢也、世醫特以温補爲助氣之事、而不知攻撃亦助氣之方也、不深思矣哉、治療之方術、靡匪助氣者、然此氣也、可養而不可補也、一旦大羸困、則雖費巨蔓薓耆、而何益之有、當是時、拱手而俟斃耳、衛生之徒、須生平抱養之矣、其養之之術、又無他、食薄而不飽、形勞而不倦、思慮常寡、則氣従以順、周流不滞、其政溢乎四末、衆官莫有闕失、其病又悪乎發、經云、上工平氣、其是之謂與、養氣醫之至道也、不可不慎、而古方家乃失諸攻、近方家乃失諸補、並不得其適焉、悲夫、

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