はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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花鍼 ―ランダム化プラセボ対照二重盲検試験に対する異議と電磁場鍼灸学のススメ―

2011-12-31 12:19:29 | 気・五行のはなし

 この記事は2010年3月にサイモン・シンの『代替医療のトリック』の補足として書かれたものです。著者は、とある鍼灸大好きな科学思想家、Claude Magie氏です。


Claude Magie


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 今日では鍼灸治療は世界中に広まり、またその効果を評価するための臨床試験が進行中です。そして時には鍼灸治療は効果がないとか、あってもプラセボ効果に過ぎないなどと評価されています。現在最も信頼できる臨床試験の方法はランダム化プラセボ対照二重盲検試験であるとみなされ、鍼灸治療の評価でもこれを用いています。これは被験者を、経穴に鍼を深く刺入する群(真の鍼)とプラセボ―鍼を浅く刺入する、または接触するだけ、あるいは経穴から外して刺入する―の鍼をする群(対照)にランダムに振り分けて治療し、被験者がどちらの群に属しているか知ることなく評価するというものです。公平な評価をすることで名高いコクラン共同計画でもこの方法を採用していますが、今回はあえて2つの点においてこのランダム化プラセボ対照二重盲検試験に対して異議を主張します。


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 まず1つめは、プラセボが真のプラセボになっていないということです。プラセボは人体にまったく影響をあたえないものでなければいけません。しかし日本の鍼灸治療にはいろいろ流派がありますが、鍼を非常に浅く刺入する治療や、また刺入せずに接触させるだけの、さらに接触させずに鍼を近づけるだけの治療もあります。私も日本の鍼灸治療をいくつか受けてみましたが、痛いところに鍼を向けられて空中で上下に動かすだけで、患部の奇妙な感覚とともに痛みがなくなったという経験があります。このような現象はランダム化プラセボ対照二重盲検試験ではプラセボ効果と呼ばれます。なぜなら研究者の間では鍼は深く刺さないと効かないという思い込みが存在するからであり、そうでないものはプラセボだからです。しかし鍼を接触させずに近づけるだけで、響きと呼ばれる違和感や痛みを感じたり病気による症状が治まることは実際に存在し、この現象をプラセボ効果という言葉でかたづけずに、そのメカニズムを見つける努力をするのが科学的な態度です。
 さて鍼を皮膚に近づけた時には何が起こっているのでしょうか。鍼と皮膚の間の状態を目に見ることができれば簡単です。18世紀にイタリアのガルヴァーニが生物が電気を発生することを明らかにしましたが、すべての電気を持つものの周囲には電磁場(Electromagnetic Field)が存在します。ゆえに、その電磁場に電気を流し、電気エネルギーを光エネルギーに変換すれば、それを間接的に目で見ることができます。鍼と皮膚の間には窒素や酸素、二酸化炭素などの分子が飛び回っています。これらの分子は原子から成り立っていますが、原子の直径は約1Å(オングストローム)であり、原子核の直径はそれの約1/100000Å、電子は原子にある軌道上に存在し、その質量は陽子の約1/1800です。外部から電子をぶつけて、原子中の電子をエネルギー状態がE1の軌道からE2の軌道に遷移させると、電子がもとの軌道に戻るときに、E2-E1のエネルギーが光として放射されます。なお、このエネルギーは電子の質量、速度、軌道の半径、円周率、プランク定数に依存します。このようにして場を見ることができますが、電子と電子をぶつけるには、気体はあまりにも密度が低く、また原子中の電子密度も低いので、高い電気エネルギーが必要です。この実験を人ですると火傷をする危険があるので、今回は桜(ソメイヨシノ)の花をモデルとして使いました。 
 Photo_1 写真1を見てください。電圧を印加した桜にステンレス製の鍼を近づけた時のものです。鍼の先端と桜の花弁が光り始めています。鍼をもう少しだけ近づけるとPhoto_2 写真2のようになります。桜と鍼が薄っすらとしたもやでつながり、その中心に一本の糸のような電気の流れが観察できます。なおこの時の光は鍼と桜という電極間の距離だけでなく、それらの形態や電気抵抗の値、印加する電圧や電流、周波数やデューティー比などにも依存します。
 Photo_3 写真3を見ると、場が少し複雑になっているのが分ります。鍼と桜の最短距離だけ光るのではなく、それぞれの花弁の先端から光が発せられています。これを見ると人の治療でも鍼をしたところ以外に変化が起きてもおかしくありません。Photo_4 写真4は銀製の員鍼を近づけたものです。この時、鍼を少しだけ動かすと、Photo_5 写真5のようになります。ほんの少しの鍼の移動で場の状態が大きく変わります。また興味深いことに桜と鍼が直線ではなく、曲線でつながっています。人体でも鍼は経穴にまっすぐに向けなくてもよいと推測されます。
 あらゆる随意運動は脳内のかすかな電光―その電光はどこから生まれるのかは分りませんが―から生まれ、さらに現在では精神の発現すら脳の電気が引き起こすものと考えられています。このように生物にとってはたとえわずかでも電気的状態を軽視することはできませんが、現在のところ臨床試験ではそれを無視しています。しかしながら日本には良導絡治療があります。これは皮膚の電気抵抗を測定することで治療点を決める合理的な方法です。皮膚の電気抵抗値が異なれば、治療家と鍼とで作られる場も変わり、それらの相互作用も変化します。効率のよい場を選択すれば小さなエネルギーで大きな変化が期待できます。
 また、鍼を経穴から外して刺入するものをプラセボとすることにも問題があります。医学は神から授かったドグマではなく経験の積み重ねにより生まれたものであると、古代中国の文献にも書いてあるように、経穴の場所というものも臨床経験の集積であると考えられます。古代のある人がある経穴に鍼することで治癒したあと、その場所を文字情報として抽象化し、その抽象化された情報を別の人に当てはめて治療した時に同じように治癒するとはかぎりません。もしよくなったのなら、それは運がよかったのです。臨床試験において使う文献上正しい抽象的な経穴とそこから少し外した場所と、どちらが具体的に正しい経穴か明らかではありません。しかしそれらの両方に効果が認められると、鍼はプラセボに過ぎないと評価されます。このように鍼を経穴から外すプラセボは、抽象を具体とおき違える錯誤をしていますし、教条主義(原理主義)にも陥っているのです。


 ○


 プラセボ対照二重盲検試験に対する2つめの異議は、評価する対象を誤まっていることです。本来、鍼灸治療―また多くの伝統的医療―は医術という人間の技術(techne)なのですが、現在世界中で評価しようと試みているものは、経絡や経穴などが含まれる理論です。
 ヒポクラテスは『医師の心得』の中で、理論とは人の感覚によって捉えられた内容の総合的記憶であり、医療は理論をたよりに行うものではなく、実地に理論を配しながら行うものでなければならないと言っています。また『技術について』に記されているように、医療とは技術であり、それを発揮できるか否かは医師の個人的な能力です。中国の医学書『難経』には、上手な医師は患者の9割を治すことができ、普通の医師は8割を治し、下手な医師は6割を治すと記されています。たとえばショパンのピアノコンチェルトが人に感動をあたえるか否かを評価しようと演奏者と聴衆を無作為にグループ分けし、プラセボ対照二重盲検試験を試みることは誰もがおかしいと感じるはずです。演奏家の技術力や精神性などに大きく左右されるからです。しかし医療の世界ではそれが当然のように行われているのが現状です。最近では治療家の熟練度を考慮した臨床試験がデザインされていますが、あくまで評価するのは理論のようです。ちなみにこのとき熟練度はどのように測定するのでしょうか。臨床経験年数やペーパーテストは当てにはならないので、治療家の治癒率に従うのがよさそうですが、これには治癒したものはプラセボ効果ではないのかという批判があがりそうです。治療家の評判や治療費の高さなどは治癒率に大きな影響をあたえるからです。しかし以下のように考えれば問題がなくなります。技術は有機的な存在である人間の能力であり、またプラセボ効果も人間の有機的な現象であるので、機械論的には評価できないと。プラセボも含めて治療技術の評価をすると話が簡単になります。
 効果がプラセボか否かこだわる時には、実験することも可能です。たとえば治療家の評判を下げるなど、非物質的条件を変えることで治癒率が下がるのであれば、その条件の働きをプラセボ効果と称することができます。しかし治療家が一生をかけて技術の向上に努力している時に、プラセボ効果を分類するために、わざわざ治癒する人たちを減らす必要はありませんし、またそれは医の倫理に反することです。
 もちろん薬や治療道具などの物質を評価するにはプラセボ対照二重盲検試験はすぐれている方法であり、それを否定することはできません。しかしそれを鍼灸治療の評価に用いることは無理があると世界の研究者たちが気づき、日本の繊細な鍼灸治療、また世界の鍼灸治療を行う人々に正当な評価をあたえることを願っています。


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 今回お見せした桜の写真は鍼がアースとして地面に接続されているので、これは桜と大地の電気回路としてとらえることができます。臨床では鍼を介して患者と治療家が一種の電気回路を作ります。また、冬にドアノブを触る時に静電気で痛みを感じることがありますが、敏感な治療家の中には患者に触れずに場の状態を感覚できる人がいます。そのような治療家の中には治療にあたる(すぐに疲れたり気分が悪くなったりする)人がいます。もしこの現象が非言語的暗示から生じているのではなく、電気と関係があるのなら、回復には放電がよい方法です。流水で手を洗ったり裸足で大地に立ったりすると放電することができます。
 すべての病は電気的現象であり、鍼は単なるアースであるなどと言うつもりはありません。ただ、患者と治療家は精神的、物理的にだけでなく、電気的にも相互に作用しており、鍼はそこに介在しているのです。



陰陽戦隊ゴギョウジャー 第二話 合唱 解説 「五行と音」

2010-06-06 00:47:07 | 気・五行のはなし

今回のムッチー先生のお話のテーマは五音についてでした。やっぱり、ざっと読んだだけでは何のことを言っているのかさっぱり分らないので、解説したいと思います。ただしこの五音については奥が深くしかも面白いところなので、文量を気にしないと本一冊分くらいになってしまうかもしれません。なるべく気をつけて、簡単に、短く短く、まとめてみたいと思います。


古来、音楽はただ娯楽や祭礼のためにあるのではなく、政治的、哲学的にまた自然科学的に考察される対象となっていました。そして古代中国、春秋戦国時代において音楽の重要性を主張したのは孔子や荀子に代表される儒学者でした。荀子は以下のように言っています。


「音楽は楽しむものである。楽しければ必ずそれが音声になって歌となり、動作に現われて舞となる。人の道は生まれつきの感情が物に感じてさまざまに変化するといっても、この音声と動作で尽くすことができる。…音楽というものは、人の心の奥底に入り人を感化することが深いものである。だから先王は慎重に文飾し正しく雅やかな音楽を制定した。音楽が中正でよく調和していれば、民もこれに感化されて和らぎ節操を失わない。音楽が敬粛で荘重であれば、民もこれに感化されて斉一で乱れない。民が和らぎ斉うときは、軍隊は強く城の守りが堅く敵国も容易に攻めてこない。このようであれば一般民衆はその居処に安住し、その郷里に楽しんで生活しその君主の政治を十分に満足に思わないものはない…」


当時、音楽の調和は、天下の人々の社会や国の調和をもたらすものでもありました。そしてこの時代が陰陽五行説が誕生した時代でもあり、音が五行に配当されたのです。この音の五分類(ペンタトニック・スケール)は、世界のあちこちの民族にも見られるように原始的な分類です。日本では雅楽や沖縄民謡が有名ですね。音声の母音も「a,i.u,e,o」の五つあるように、片手で数えられる数に分類すると結構便利なものです。『礼記』楽記第十九にはこう記されています。


「宮は君であり、商は臣、角は民、徴は事、羽は物である。故にこの五者の間が乱れなければ、音楽も正常に演奏されるのである」


というように、角徴宮尚羽という五つの音階を君、臣、民、事業、万物、にあてはめてその政治や社会と音楽の調和について考察しています。後の時代には変徴と変宮の二音が加わり、現在のドレミのようにオクターブの分類となりますが、さてこの五音(角徴宮尚羽)はどんな音だったのでしょうか。これは司馬遷の『史記』律書第三に記されています。


「九九、八十一を宮とすると、八十一からその三分の一を引いた五十四が徴、五十四にその三分の一を加えた七十二が商、七十二からその三分の一を引いた四十八が羽、四十八にその三分の一を加えた六十四が角である」


Shou これは何を意味しているのかというと、笙などの楽器の音管の相対的な長さです。ファゴットやピッコロを見て判るように、管が長ければ音が低くなり、管が短ければ音は高くなります。それなので音が低いほうから並べると、


宮(81) 土 ~ド
商(72) 金 ~レ
角(64) 木 ~ミ
徴(54) 火 ~ソ
羽(48) 水 ~ラ


となります。もちろんこれは周波数がHz(ヘルツ)で表せるような絶対的なものではなく、相対的なものです。合奏する時は黄鍾などの基準にあわせて楽器作りから始めたのでしょうね。現在でもロンドンフィルのA音は440Hzであり、ウィーンフィルが444Hzであるように、何を基準とするかは自由です。古代の音の基準も周王朝の力が強かった頃は統一されていたでしょうが、群雄割拠する戦国時代となると、国によってさまざまな文字が生み出されたように、音も多様だったことでしょう。


ついでながら、なぜ八十一を宮にしたのかについて、ちょっと触れておきます。世界のあらゆる民族では10進法が基本です。漢数字やアラビア数字、ローマ数字を見ても数を数える時に10を一つのまとまりとして考えています。なぜでしょう。そう、両手の指の数ですね。一人で10、二人で20、石器時代の人々が狩猟採集していた頃も、収穫物や危険な獣、敵対する集団を数える時に10以上を数える必要性がありました。古代中国では10進法と陰陽論が結びつき、九という数字は特別な意味をもちました。九は一桁の最後の数字であり、また最大の陽の数でもあります。現在でも九月九日は重陽の節句ですよね。なので九と九をかけた八十一は非常に特別な数字なのです。『老子』が八十一章でまとめられていること、『黄帝内経素問』や『黄帝内経霊枢』が八十一章でまとめられているのも、こんな理由なのです。


つぎになぜこの五つに分類したのでしょうか。宮とオクターブ高い宮の間を仮に6とすると、宮と商、商と角、徴と羽の間は1.02となるのに対して、角と徴、羽と宮の間は1.47となり一定ではありません。つまりこれは純粋に理論的、数学的に決められた分類ではないのです。数学的な音階はというと十二律があります。今風にいうと十二平均律ですね。この十二律の歴史も長く、その昔、周の武王が殷の紂王を征伐した時に、武王は正月に配当される音から始めて、十二月に相当する音まで陰陽それぞれ六音を吹き鳴らしたと、そしてその音調を聞くと殺気と十二月の音が調和したと伝えられています(『史記』律書第三より)。その十二音には干支の名前がつけられていますが、オクターブを10でも20でもなく12に平均的に分類したのは、ただ単に数学的、音響学的にだけではなく、一年に月が必ず12回満ち欠けするように、規則的な天の運行、季節の移り変わりなど、自然との調和が期待されているのです。


で、なぜ角徴宮尚羽の音程が決まったのでしょうか。実は、五音の音階は世界中に存在すると言いましたが、それぞれ異なる音を五つ集めて作られているんですね。たとえば沖縄ではドミファソシのようにです。そしてそれぞれの五音はそれぞれ心地よい和音を作り上げています。なのでこの問題は古代中国の人々が、なぜこの五音を心地よいと感じたのか、という感覚的、心理的な問題となります。これを明らかにするのはちょっと困難ですね。現在の私たちでも、ある和音を聴いたとき、なぜ良いと感じるのかと尋ねられても、「良いと感じるから良いのだ」というように、うまく説明できませんよね。ある種の霊妙な不可思議な働きがあるのかもしれませんし、遺伝子レベルの単純なプログラムがあるためかもしれません。それはさておき、『史記』楽書にはこう記されています。


「宮の音を聞くと、その人をして、温厚であって広大ならしめ、商の音を聞くと、その人をして、方正であって義を好ましめ、角の音をきくと、その人をして、惻隠であって人を愛せしめ、徴の音を聞くと、その人をして、善を楽しみ施しを好ましめ、羽の音を聞くと、その人をして、整斉であって礼を好ましめる…」


これはもしかしたら「条件付け」が関係しているかもしれません。パブロフがベルの音で犬に唾液を分泌させたように、人にもともとそのような働きがあったのではなく、「教育によりそうさせた」可能性がありますね。これらのことを踏まえながら古代中国の医学書、『霊枢』にある陰陽二十五人篇や五音五味篇、経脈篇を読んでみると面白いでしょうね。興味ある方は読んでみて下さい。


最後に付け加えておくと、上記の五音は音楽の音なので、ある(比較的単純な)周波数が存在します。しかしそうでない五音もあります。例えば兵法家における五音は、敵陣や城の外からその中を聞いて、戦の勝敗やどこから攻めるのか占うために聞いた音でした。これはドレミの音でないことは明らかですね。甲冑や足音、色々な音が混ざり合った、全体的な雰囲気のことです。音だからといって特定の周波数があるとは限らないのです。


(ムガク)


Claude Magie氏のキルリアン写真

2010-04-08 18:14:35 | 気・五行のはなし

桜の花が散りゆく今日この頃Photo

Claude Magie氏の新しいキルリアン写真が手に入りました。

人にツボがあるように、桜にもツボがあるみたいですね。

桜の光は表面の点からシャワーのように噴出されています。


キルリアン写真でお花見

2010-04-06 17:35:08 | 気・五行のはなし

Photo 右の写真は、とある科学思想家Claude Magie氏が撮影した桜の花です。


おもしろいですねー。桜に鍼治療用の鍼を近づけると、花から光があふれ出します。


昔の人はこういう現象を見て、気とかオーラというものを信じたのかもしれませんね。


陰陽戦隊ゴギョウジャー 第一話 召集 解説 「五行と色」

2010-03-27 20:56:43 | 気・五行のはなし

陰陽戦隊ゴギョウジャー 第一話 召集 解説 「五行と色」


ムッチー先生のこのお話は一読するとくだらなく思えますが、けっこう深く計算されているようです。しかし五行学説を知らない人にとっては何のことかさっぱり分らないかもしれませんので、簡単に解説したいと思います。


陰陽五行説は古代中国、戦国時代の鄒衍(BC305-240年頃)によって体系づけられた自然科学的哲学のことです。もともと陰陽説と五行説はまったく別の思想であり、上古から存在したとも言われています(確かな証拠はありません)。それが鄒衍によって結合され、理論として完成されると、あらゆる学問に応用されることになりました。政治や宗教、兵法や占い、自然科学やもちろん医学に対してもです(「No.88 鄒衍と古代中国医学」参照)。


陰陽説と五行説はまったく別のものでしたが、それを生み出した人の意識について言えば、ある一つのことを除いてまったく同じです。それはものごとを分類する数です。つまり陰陽説は陰と陽の二つに、五行説は水火木金土の五つに分類します。そして自然界の不可思議な現象を理解するため、分類されたものごと間の関係性を観察し、理論として抽象していきました。


さて、このブログは伝統医学を考察することがたてまえなので、陰陽五行説の解説は古代中国医学で使われるものにしぼっていきたいと思います。今回は「五行と色」についてです。


五行の五つのカテゴリには五つの色が配当されています。


水 - 黒
火 - 赤
木 - 青(蒼と記載する文献もあります)
金 - 白
土 - 黄


病気によってこれらの色が顔に現われます。それを観察することで病の深さや古さ、予後などを推察することができます。たとえば『黄帝内経霊枢』の五色篇とか、『黄帝内経素問』の五臓生成篇などの医学書に書いてあります。ではこれらの色は実際にはどんな色だったのでしょうか。たとえば青が光の三原色のBlueを意味していると考えると、実際にそんな顔色の人はいませんよね(ブルーマンズを除いて…)。


言葉の定義というものは恣意的なもので、言葉の意味はその文献を記した人がその言葉をどのような考えていたかを表しています。それなので一番よいのは自分でなにかしらの文を読んでみて、その文ごとに言葉を定義していくことです。しかし、ここではあえて抽象的に話をはじめます。


抽象的な言葉の意味を調べるには字典を使うと便利です。陰陽五行説の影響を受け、時代も近い『説文解字』を参考にしてみると、どうでしょうか。それには以下のように記されています。


黒 - 火、薫する所の色なり。炎の上りてマドに出づるに従ふ。マドは古の窻(マド)の字なり。
赤 - 南方の色なり。大に従ひ、火に従う。
青 - 東方の色なり。木、火を生ず。生丹に従う。丹青の信、言必ず然り。
蒼 - 艸の色なり。
白 - 四方の色なり。陰、事を用ふるとき、物色白し。入に従いて二を合す。二は陰の數なり。
黄 - 地の色なり。田に従い炗(コウ)に従ふ。炗は古文光なり。


なんだか分かるような分からないような説明ですね。黒は何かを火で燃やした後の色なので、現在の「くろ」と同じようですね。黄は黄河流域の大地の色なので、これは「おうど色」のことですね。蒼は草の色なのでこれは「きみどり」です。しかし南方とか東方、四方の色というのは具体性にかけているので想像するのが困難です。しかたがないので『素問』の五臓生成篇からも少し引用してみると…。


黒きこと炱(タイ:すす)の如き者は死す。…黒きこと烏羽の如きものは生く。
赤きこと衃血(鼻血)の如き者は死す。…赤きこと鶏冠の如き者は生く。
青きこと草茲(枯れ草)の如き者は死す。…青きこと翠羽(かわせみの羽)の如き者は生く。
白きこと枯骨の如き者は死す。…白きこと豕膏(豚の脂)の如き者は生く。
黄なること枳実(からたちの実:みかんの一種)の如き者は死す。…黄なること蟹腹の如き者は生く。


これでだいぶ具体的になってきましたね。イメージがつかめてきたのではないかと思います。


さて古代の人は、なぜ色を五色に分類したのでしょうか。五行説があったからではありません。『孫子兵法』黄帝伐赤帝篇に、黄帝が赤帝や青帝、白帝、黒帝を討伐した記載があるように春秋時代にはすでに五色の分類がありました。五つに分類することが積み重なることによって五行説が誕生したのです。可視光線の約400から700nmの波長は無限に切り取ることができます。なぜでしょう。


それは、おそらく人間の視覚が網膜の錐体細胞と桿体細胞に依存していることに由来します。錐体細胞は三種類あり、それぞれ感覚できる波長が異なります。この三種の錐体細胞が長、中、短波長に反応することで無数の色を認識できます。桿体細胞は感度が良く、比較的暗い場所でも反応しますが色を認識しません。なので暗い夜道では色彩感覚はありませんよね。


つまり五色は色の三原色と明暗から生まれました。もし犬や猫が人間のように知性が高くても、色をほとんど認識できず、白黒の二色の世界にいるので五色の分類はしなかったでしょう。鳥だと紫外線も感覚できるので六色の分類を作り上げるかもしれません。何れにせよ五色は原始的な分類です。これに環境や文化的条件が加わると、虹の色の数が国や民族によって異なるように変化します。


また色はたんなる光の波長や強さだけではありません。それは見る対象そのものの性質でもあります。ある一つのものを見るとき、それが夜明け前でも、昼間でも夕焼けの時でも、同じものだと感じますね。よくよく反省するとそれぞれ異なる波長なのに、違うものとは思いません。これはたとえばミツバチにも当てはまります。ミツバチも色を認識しますが、その時の波長によらず昼間でも夕方でも目的の花の色に集まります。色は光の波長や強さだけでなく、見る対象の印象(イマージュの一つ)でもあるのです。


『老子』に「五色は人の目をして盲せしむ」とあるように、あまりに分類にとらわれ過ぎると、本当のものが見えなくなってしまうかもしれませんね。


(ムガク)


No.88 鄒衍と古代中国医学

2009-08-25 19:53:29 | 気・五行のはなし

一昨日のことですが、小生の参加する学会において「なぜ古代中国医学・鍼灸医学に陰陽五行論が取り入れられたのか」という質問を受けました。その時は専門家が相手なので簡単に説明しましたが、面白い質問なのでここでも少しまとめておこうと思います。


まず陰陽五行論を完成させ世に広めたのは、鄒衍(BC305-240年)であると言われています。彼の著作『鄒子終始』五十六篇と『鄒子』四十九篇が漢代までは残されていたことが分かりますが、今では失われてしまい、その思想を直接知ることはできません。


しかし司馬遷が『史記』孟子・荀卿列伝に鄒衍の思想を書き残してくれたおかげで、それを簡単に知ることができます。以下にその一部を引用してみます。


鄒衍は当時の君主たちがますます奢侈にふけるのを目前に見て、『詩経』大雅に見える「まず身近をおさめ、庶民におよぼす」というごとき徳行を第一とするのではだめだとおもった。そこではじめて陰陽の気の増減の理を深くさぐり、神秘的な物の変化および大聖人の終りと始めに関する諸篇十余万語の書を著わした。


かれの表現はおそろしく大きく信じ難いほどであったが、まず小さな事物を証拠とし、そこから推しひろめていって、無限のかなたに達する。最も近い世を系統づけ、そこから黄帝の世にまでさかのぼる。それは学者たちが誰しも例にひくことであるが、さらに当時の盛衰の大体を論じ、それにつけて吉凶の前兆や制度を記載し、それを遠くまで推しひろめて、天地の生ずる以前、暗黒でたずねるすべもない時に達するのである。


〔同じ推論の方法によって〕中国の名山・大川・通谷、鳥獣、陸地と水中に繁殖する物、特に珍奇な種類などから始め、それを推しひろめ、海のかなたにあって常人の目にみるよしもない物に及ぼし、天と地が分離してこのかたの五行(木火土金水の五つのエレメント)の徳の支配の移りかわり、それぞれにしかるべき政治制度があって、そのきざしとなる瑞応はこうだ、というふうに実例をあげて説いた。


Kyuushuu かれの考えでは儒者のいう中国とは、天下(世界) の中では八十一分の一にあたる大きさにすぎない。中国はこれを名づけて赤県神州とよぶ。赤県神州の内にもそれみずからの九つの州がある。禹王によって秩序だてられた九州がそれである。それは〔大きな意味での〕九州の数にははいらない。中国の外に赤県神州と同じくらいのが九つある。それらこそがかれのいう九州である。それに対し裨海という海がとりまいていて、〔そこに住む〕人民や禽獣は〔他の州へ〕ゆききすることは不可能で、一つの独立の世界をなすようにみえるのが、一つの州なのである。このような州は九つあって、それから大瀛海のわだつみがそれらの外をとりまく。〔この大海が〕天地の際めなのである。かれの述べるところはすべてかくのごときたぐいであった。


けれども説の帰着するところをおさえてみれば、必ず仁義と節倹、君臣上下、六親たちに対するやりかたにつきる。その説き始める方法があまりにも広大であるにすぎない。 王侯大人は、かれの述べることを聞いた当初は、びっくりし心をうばわれてしまうものの、あとではとても実行できない。それゆえ鄒子は斉において重んぜられ、梁へおもむくや、恵王は都の外まで出迎え、上客として扱ったし、趙におもむいたとき、平原君はうやうやしく身をそばめて案内し、みずから座席の塵を払い、燕へ出かけると、昭王は彗をかかえて先だちとなり、弟子の座につらなって教えを受けたいと願い、碣石宮を築かせ、そこへ住まわせて師とし、王はかよって学んだ。〔ここでかれの著書中の〕主運の篇が作られた。


かれがまわって歩いた諸侯から尊敬されたことは以上のごとくで、仲尼(孔子)が陳と蔡のあたりで餓えにせまられ、孟軻が斉と梁において苦しみをなめたのとは、まるで違っていた。


もともと武王が仁義によって紂を伐って王となったとき、伯夷は餓えても周の粟(穀物)を食べなかったこと、衛の霊公が戦陣の法を問ったとき、孔子が答えなかったこと、梁の恵王が趙を攻めようと謀ったとき、孟軻は大王(周の文王の祖父、古公亶父)が邠を去った故事をひきあいとしたこと。これらは世俗におもねり人のきげんをとるだけを目的にしたであろうか。四角な木のほぞを円い孔におしこもうとしたって、はいるものであろうか。


が、次のように言う人もある、「伊尹は鼎をせおって行ったが、〔殷の〕湯王をはげまして王者とならせたし、百里奚は荷車につけた牛にかいばをやる身であったが、〔秦の〕繆公はかれを任用して覇者となった。まず相手の心にかなうようにして、それからおもむろに大きな道理へいざなったのだ。鄒衍のことばはなるほどけたはずれの奇怪さでみたされるようだけれど、ひょっとすると牛や鼎のひと(百里奚と伊尹)の意図に似たものであったかもしれないのだ」。


(小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳)


というように鄒衍は儒家的色彩の濃い「仁義と節倹、君臣上下、六親たちに対するやりかた」を広めるためにスケールの大きい学説を作り出しました。このスケールの大きさと、(『呂氏春秋』応同篇により詳しく残されている)「五徳終始説」という政治思想が、各地の王侯大人をとりこにしました。


なぜなら時代は戦国時代も後期、小さな国々はどんどん大きな国に滅ぼされてゆき、大きな国々はますます大きくなっていきました。この戦争で混乱続きの中、どのように国を維持していくべきか、また天下をどのように統一するかということがそれぞれの国家の最重要問題だったからであり、鄒衍の思想はそこを上手についていたのです。


そして紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝も鄒衍の思想に影響されていました。鄒衍の思想は当時の政治的支配者層、権力者たちの信仰を得ていたようですね。そしてこの時代がまさに現代まで受け継がれる中国医学の誕生する時代です。


ところで話はかわり、太平洋戦争が終戦をむかえると、アメリカのGHQは日本に対して鍼灸は野蛮であるので廃止するように要求したようです。しかし鍼灸は盲人の職業でもあったこともあり、鍼灸業界はそれを継続できるように努力しました。そして鍼灸を(いわゆる)「科学化」しようとする動きが活発になりました。つまり「鍼灸が効くわけ」を自律神経や血流などで説明しようとしました。


ここで気づくことは、伝統医学の中に陰陽五行論を取り入れたことも、科学を取り入れたことも、理由は同じです。政治の権力者が信仰している思想に合わせて、医学が淘汰されないように進化したのです。


戦国時代の医師の地位は高くなく、王侯貴族の治療を成功させれば富貴を得ることができましたが、失敗すれば殺されてもおかしくありませんでした。陰陽五行論を信じている人々を治療する前には、自分がこれから施す治療を陰陽五行論で説明する必要性が生まれます。(科学を信じている人々を治療する前には、自分がこれから施す治療を科学で説明する必要性が生まれます)


当時の医学が政治の権力者を相手にしていたことは、医学書に黄帝を登場させていることや、また『素問』霊蘭秘典論からも分かります。内臓(五臓六腑)の働きを説明するのに「心は君主の官…肺は相傅の官…肝は将軍の官…」というように政治的な官職名を使っているのですから。これはレトリックにおけるメタファーですよね。納得させるべき相手の身近なものに置き換えて説明する手法です。もし商人(アキンド)を説得することになったら「心は主人…肺は番頭…」などとしても良いのです。


陰陽五行論と(いわゆる)科学のどちらにしても、病気や治癒の経過を高い精度で知ることができる理論がより優れています。治せるか否かはまた別の問題のようですね。



(ムガク)


No.70 気とアインシュタイン

2009-03-04 22:47:09 | 気・五行のはなし

今も昔も「気」とは何であるのかという議論があります。「気」とは電気や電磁波、磁気のようなエネルギーであるとか、はたまた元素のような物質であるとか議論に絶えません。


鍼灸の世界では「気」とは人間の身体にある経絡という循環器官の内部を流れている生命エネルギーなどと言われることもあります。また外気功の分野では「気」は身体の外に放出されるエネルギーのように捉えられています。


また荘子(BC369-286年頃)や張横渠(1020-1077年)に代表される気一元論の中では、「気」とはあらゆる物質を構成する元素のようなものであると言われています。


数千年の時を経て「気」という単語の意味は多様を極めています。もしそのたくさんの意味の中でどれか一つが正しいのであれば、それ以外の意味は誤まっているのでしょうか。


そうではありません。それらの意味のどれもが正しいものです。


なぜなら、もともと単語の意味と文字には何の関係もないのですから。その間の関係とはある時のある人々の約束事であり恣意的なものに過ぎません。またいったん単語の意味と文字の関係が決定されても、時代とともに単語の使われ方が変化するので、意味の定義も変化します。それを忘れてしまうと「気」を理解することができません。


この言葉の定義の問題は江戸時代にもありました。たとえば朝鮮人参(高麗人参とも御種人参とも呼ばれていますが)は現在でも体力が落ちて元気がない時によく服用されています。後世方医学(李朱医学)では「気」を補う薬として特に重用されていました。


このことに対して吉益東洞(1702-1773年)は「元気は天地根元の気にして人の胎内にやどる時にうけ…気虚する時は死ぬるなり…人参は心下の痞鞕を治す…気を補ふといふ事なし…」(註1)と言っていました。これなどはまさに「気」の定義が後世方派と異なっているという言葉の問題ですね。


また古方派の医師である香川修徳(1683-1755年)は「陰陽の本は一気のみ、一身四肢百骸は気の運動に憑(ヨ)らざるはなし、斯の気は即ち陰陽なり、陰陽は即ち斯の気なり、天地の火に至るや、亦斯の一大元気のみ…」(註2)などと言っています。同じ古方派でも「気」の定義は異なるようです。


さらに本居宣長(1730-1801年)の言うところの「煕然たる一気」など考えるときりがないですね。


科学的分析により「気」を理解する時も単語の意味の恣意性を忘れてはなりません。すなわち、もし科学的分析により「気」とは何か明らかにしたいのであれば、常に「ある時ある人が観察した具体的な現象そのもの」が分析の対象である必要があります。


それはさて置き、とりあえず言えることは「気」がエネルギーであるか物質であるかという議論は、言語学的にみても自然科学的にみても、あまり実のある議論ではありません。


1905年にアインシュタイン(1879-1955年)が特殊相対性理論を発表しました。その理論によりエネルギーと(質量をもつ)物質の境界がなくなってしまいました。それは「E=mc?」という方程式に示されています。この方程式が正しかったために広島と長崎の悲劇が生まれたのは残念なことですが…。


(註1)吉益東洞『医事或問』巻下


(註2)『修庵香川先生文』


(ムガク)


No.52 五行について(その2)

2008-10-14 20:12:15 | 気・五行のはなし

さて五行の出典となった『書経』洪範の五行とはなんでしょうか。五行とは箕子が周の武王に返答した、天下を治めるにあたっての九つの方法の筆頭に挙げられるものです。すこし前文を読んでみましょう。


「わたくしはこう聞いております。その昔、鯀が洪水を塞ぎ止めようとしたときに、その五行をかき乱してしまいました。そこで、上帝は激しくお怒りになって、洪きな範の九つの疇(たぐい)をお与えになりませんでした。彝倫(いりん)はここで破れました。鯀がその罪で死されたのち、禹が治水の業を継いで夏王家を興しました。そこで、天は禹に洪きな範の九つの疇をお与えになりました。彝倫はここにふたたび秩序正しくなったのです。九つの疇とは、最初の第一は、五行です。…」(『書経』洪範、赤塚忠訳)


そして、有名な以下の文が続きます。


「一には五行、一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水を潤下と曰う、火を炎上と曰う、木を曲直と曰う、金を従革と曰う、土は爰に稼穡とす。潤下は鹹を作す、炎上は苦を作す、曲直は酸を作す、従革は辛を作す、稼穡は甘を作す…」


さて、王の仕事の最大の目的は民を飢えさせないことでした。そのため治水(洪水、黄河の氾濫対策)が最重要の目標であり、五行は「水火木金土」のように「水」を最初に記載しています。それから続いて「水を潤下と曰う」というようにその性質が述べられています。


「水」はもともとは具体的なものであり、河川の水(または雨も)を指し示していたようです。「潤下」は「水」の性質の説明でした。しかしそれと同時に「潤下」という性質を持つものも「水」とするようになってきます。これが概念メタファーであり、後の時代に陰陽五行説を完成させる動力となっていきました。


では「潤下、炎上、曲直、従革、稼穡」の五つの性質はどのように解釈すればよいのでしょうか。一つは「読書」のような述語構造型、もう一つは「身体」のような並列構造型、もう一つは「進入」のような述補構造型などです。どれが完全に正しいとも言えませんが、並列構造型と述補構造型の蓋然性が高そうな気がします。


「火」はメラメラと燃える炎と共に、炎旱(ひでり)とか炎天(夏の暑い天気)の意味合いがあったと思います。大切な水を蒸発させてしまう条件なのでこれも重要な問題です。


「木」は植物全般ですが、特に農作物のことのようですね。


商王朝では既に青銅器が使われていました。殷墟からの発掘品によると、特に商王朝では高度な冶金技術を持っていたようで、さまざまな食器(祭器)や楽器、武器が作られていました。ただ当時それらは非常に貴重なもので農具に使われることはありませんでした。ところで、


「水火は百姓の飲食するところなり、金木は百姓の興作するところなり、土は萬物の資生するところなり、これ人の用となす」(『尚書大傳』洪範)


という記述が残されています。これは秦代の伏勝の『書経』の注釈書ですが、当時の秦では鉄器が一般的になり工具や農具として使用されていたようですね。それが秦が天下統一を果たす一つの要因でしたが、もし「金」を農作物の収穫のための農具を指し示すものであるとするのなら、『書経』洪範は周初の記述ではなく戦国時代のものとなります。もし周代の記述であるのなら、この「金」は祭祀に使用した祭器や、(収穫後の戦争に使用した)武器と考えた方が良さそうです。でも広く、金属精製の技術や製造能力と考えてもいいですね。


「土」は大地や耕地、領土のことのようです。


このように『書経』洪範の五行とは王が政治的に力を注ぐべき対象のようです。ところでこの五行の記述には「鹹苦酸辛甘」という五味が記載されています。これを舌で舐めてしょっぱいとかいう「味」と考えると無理が生じます。いろいろ解釈があるようですが、続きはまた今度。


(ムガク)


No.46 五行について(その1)

2008-09-02 21:25:13 | 気・五行のはなし

中国伝統医学は陰陽五行説に基づくと(一般的には)言われています。さて五行とは何でしょうか。『漢辞海』によると「すべての物質を構成すると考えられた五つの元素、木・火・土・金・水。」と書かれています。五行とは本当にそのようなもなのでしょうか。とりあえず、朱熹の『近思録』を参照してみましょう。


「無極にして太極なり。太極動いて陽を生ず。動くこと極まって静なり。静にして陰を生ず。静なること極まって復た動く。一動一静、互にその根と為り。陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。陽変じ陰合して、水火木金土を生ず。五気順布し、四時行はる。五行は一陰陽なり。陰陽は一太極なり。太極は本と無極なり。五行の生ずるや、各其の性を一にす。無極の眞、二五の精、妙合して凝り、乾道は男を成し、坤道は女を成す。二気交感して、萬物を化生す。萬物生生して、変化窮りなし…」(道體類、秋月胤継訳)


とあります。朱熹は周濂渓(1017-1073年)の『太極図説』から影響を受けました。朱熹の完成させた朱子学は「格物致知」方針によりの自然科学的色合いが濃く出ています。それ故、五行は元素のように還元論的説明に使用されていますね。


しかし、五行の初出は『書経』洪範(註1)です。そして多くの儒学者や伝統医学に携わる人々は五行の説明に以下の文章を引用しています。


「一には五行、一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土。水を潤下と曰う、火を炎上と曰う、木を曲直と曰う、金を従革と曰う、土は爰に稼穡とす。潤下は鹹を作す、炎上は苦を作す、曲直は酸を作す、従革は辛を作す、稼穡は甘を作す…」


そして五行はそれぞれ上記の性質をもった万物の構成元素であり、またそれぞれが味を生み出す、というような解釈が一般的です。しかし残念ながらそれは本来的意味ではないようです。なぜなら単語の意味はその文章の前後や、その時代、状況などの関係によって決まるからです。


『書経』洪範の内容というのは(事実かどうかは別として)、周の武王が殷の紂王を滅ぼした後に(BC1027年頃)、殷のかつての名宰相箕子に天下を治めるにあたっての道を質問し、箕子がそれに答えるというものです。五行の後に五事や八政、五紀などと続いていきますが、それらは政治的な内容です。上記の(元素や「あじ」という)解釈には少し無理があるようです。


ところで、最古の漢字字典『説文解字』によると「五」の象形文字は「二」が「X」で繋がっている形をしています。それ故「五」とは五行であり、二つの陰陽が天地の間で交わることを意味していると記載しています。『説文解字』とは鄒衍(BC305-240年)の陰陽五行説が完成した後に作られた字典であり、全ての数を陰陽五行説を用いて説明しています。人々はある理論が完成するとそれから先、全てのものをそれにより解釈しようと努力してしまうようです。そして無理が積もり積もるとその理論を完全に捨てる人々も現れてきます。


さて『書経』の五行とは何かと簡単に言うとこれはメタファーです。


つづく


(註1)『書経』:帝尭以来の帝王の言行録を中心に、周から戦国時代にかけて書き継がれて成立した経書。現存の五十八編中二十五編は後世の偽作。『書』『尚書』とも。五経の一つ。(『漢辞海』より)


(ムガク)


No.45 五輪と五行(その2)

2008-08-28 17:36:09 | 気・五行のはなし

五輪(地水火風空)とは物質の構成元素とエネルギーおよび総括に対する名称で五大とも呼ばれていました。

 

実は、ものごとを五つのカテゴリへ分類する思考形態は古代のインドや中国に限ったものではないようです。


例えば北米のネイティブアメリカンであるアルゴンキン族やウィンネバゴ族は地・水・水中・低空・高空の五つ、またメノミニ族は陸地面の四足獣・湿地に住む四足獣・地鳥・水鳥・地中動物の五つのカテゴリで分類するようです。またスー族では地上動物・天空動物・至高空動物・水中動物・水底動物の五つのカテゴリで分類するようです。もちろんこれらのカテゴリの名前は部族(クラン)などを分類するもので動物の分類に限ったものではありません。カテゴリの名前は一種の記号として使用されています。


古代ギリシャのエンペドクレス(BC490-430年頃)は火・水・土・空気からなる四元素説を唱えましたし、またヒポクラテスは人体は血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁から構成されているとする四体液説を唱えました。分類する数というものは恣意的なものなので特にこだわらなくても良いようです。


ここに何故これらの民族はものごとを五つに分類したのかという疑問が生まれます。


人はあるものの測量を試みる時に単位を創り出します。例えば長さですが星と星の距離をあらわすには「光年」という光の速さで一年という単位を使用します。また原子と原子の距離をあらわすには「Å(オングストローム)」という1/(10×10)mという単位を使用します。ある大きさのものを測量する場合はその大きさのものと近いスケールの単位を使用すると便利です。


人と同じスケールのものだと古代から中東や西洋で使われていた「キュビット」という肘から中指の先までの長さの単位があります。「ヤード」はそれから派生した単位のようですね。古代中国では例えば指一本分の幅の「寸」や拇指と中指を広げた長さの「尺」などがあります。周王朝の時代には既に長さの単位は人体が基本だったようです。


さてそう考えると五つという数字は人体から出てきたようですね。基本は片手で数えられる数でしょうか。そのうち手足頭の「五体」とか感覚の「五感」などという共通する数に意識が向けられると、その数が特別な存在になるようです。(ちなみに感覚を五つに分類するのは古代中国も古代ギリシャのアリストテレスも同じだったようです。)


その片手で数えられる数字を選び取ったのはどういう訳でしょうか。そこにはその民族が関心を向けるものが存在していたのかもしれません。それはハイデガー(註1)のいう「ゾルゲ」が関係しているのでしょうか。


では五行とは何なのでしょうか。続きは次回にしようと思います。


(註1)マルティン・ハイデガー(1889-1976年):ドイツの哲学者であり、フッサールに師事しました。『存在と時間』の著作で有名です。


(ムガク)


No.44 気一元論と理気二元論

2008-08-21 19:46:32 | 気・五行のはなし

伝統医学が基づく存在論には大きく分けて二種類あります。それは「気一元論」と宋代では画期的であった「理気二元論」です。


中国では古来、気一元論が伝統的であり、それは「天人相応」思想と密接に関係しています。


「生や死の徒なり。死や生の始めなり。孰か其の紀を知らんや。人の生は、気の聚まるなり。聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る。若し死生が徒為らば、吾又何をか患えんや。故に万物は一なり。是れ其の美とする所の者は神奇為り。其の悪む所の者は臭腐為り。臭腐は復化して神奇と為り、神奇は復化して臭腐と為る。故に曰わく、天下を通じて一気のみと。聖人は故に一を貴ぶ」(『荘子』知北遊篇、小川環樹訳より)


と、『荘子』にあるように、紀元前から、人は気が集まったものであり、自然界の全てのものも同じであると考えられていました。生死も美醜も同じものの変化として捉えられていました。そこには根源的な一つの構成要素を仮定し、自然・生態系の中で循環するというヘラクレイトス(註1)の思想と共通点が見られます。これは宋学では張横渠(1020-1077年)の思想に引き継がれていきます。


「形よりして上なる者、之を道と謂い、形よりして下なる者、之を器と謂う。」 (『易経』形而上より)


「天地宇宙の間には、形あるものと形ないものとがある。五感によってとらえられるものは形より下にあるもので、器といわれ、それ以上のものは、形のないもので、道という。現象を超えたもの、または現象の背後にあるもの、根源的なものを研究対象とする学問を形而上学と呼ぶのは、これから起った。」(諸橋轍次『中国古典名言事典』より)


朱熹(1130-1200年)は程伊川(1033-1107年)の思想を受け継ぎ、この『易経』の言葉の中の「道」を「理」、「器」を「気」と定義しました。理も気も共に存在するものですが、理は非物質であり、気は物質です。これを理気二元論と呼びます。


現代の自然科学の中にも無数の法則や原理、定理が存在します。それらは形はありませんが、無いことを疑う科学者はいません。それを物質から独立させたのが朱子学のようです。


さてこの気一元論と理気二元論はどちらが正しいのでしょうか。どうもどちらも正しいように思えます。それはものごとを観察する視点が異なるというよりも、数えている対象が異なるのかもしれません。譬えると同じサイコロがあっても、一方はサイコロそのものを数え、もう一方はサイコロの目を数えているようなものです。


理気二元論は次第に気と理の価値の比重が変化していきました。人々の中で形而上的な理を重視する傾向がでてくると、現実をありのままに見れなくなり、現実が非有機的なものとなります。これが医学(例えば後期の後世方医学)の中で起こると悲劇が生じ、またそれが空理空論などと批判される対象にもなります。この問題は現代の医療界でもあるかもしれません。


(註1)ヘラクレイトス(BC540-480年頃): 古代ギリシャの哲学者。、「万物は流転する(Panta rhei)」の言葉で有名です(が本当に言ったかどうかは分かりません)。


(ムガク)


No.38 五輪と五行(その1)

2008-06-11 21:38:34 | 気・五行のはなし

宮本武蔵は『五輪書』という兵法書を残しました。それは地之巻、水之巻、火之巻、風之巻、空之巻の五つに分かれています。この地水火風空とは一体なんなのでしょうか。この五輪は仏教の用語で、オリンピックのことではありません。専門書で調べると難しいのですが、宮沢賢治(1896-1933年)はやさしく説明してくれました。


五輪は地水火風空
むかしの印度の科学だな
空といふのは総括だとさ
いまの真空だらうかな
つまり真空そのものが
エネルギーともあらはれる
火といふ方はエネルギー
アレニウスの解釈だ
残り三つは古い原素の分類だらう
世界も人もこれだといふ
心といふのもこれだといふ
いまだつて変らないさな
雲もやつぱりさうかと云えば
それは元来一つの真空だけであり
所感となつては
気相は風 液相は水
固相は核の塵とする
そして運動エネルギーと
熱と電気は火に入れる
それからわたくしもそれだ
この楢の木を引き裂けるといつてゐる
村のこどももそれで
わたくしであり彼であり
雲であり岩であるのはたゞ因縁であるといふ
そこで畢竟世界はたゞ因縁であるだけといふ
雲の一つぶ一つぶの
質も形も進度も位置も時間も
みな因縁が自体であるとそう考へると
なんだか心がぼおとなる


(『春と修羅』二より、旧字体は改めました)


どうも五輪には五行と異なる印象があります。


(ムガク)


No.37 宮本武蔵と気

2008-06-09 17:00:55 | 気・五行のはなし

宮本武蔵(1584-1645年頃)は日本人のほぼ誰もが知る剣豪でありますが、その著作『五輪書』の中に気に関する記述が見られます。


「枕をおさゆるといふは、我実の道を得て敵にかゝりあふ時、敵何ごとにてもおもふ気ざしを、敵のせぬ内に見知りて、敵のうつといふうつのうの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也。」


この文中の「気ざし」は「兆し」のことで、ものごとが起ころうとする、思いや考えが生じようとする前触れの意味があるようです。『五輪書』の他の文中には、かなの「き」の字か普通に使われています。それ故、この「気ざし」の「気」は単なる「き」の当て字ではなく武蔵が「気」に対して持っている印象が感じられますね。


「景気を見るといふは、大分の兵法にしては、敵のさかえおとろへを知り、相手の人数の心を知り、その場の位を受け、敵のけいきを能く見うけ、我人数なんとしかけ、此兵法の理にて慥に勝といふ所をのみこみて、先の位をしつてたゝかふ所也。又一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、相手の人柄を見うけ、人のつよきよわき所を見つけ、敵の気色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其間の拍子をよくしりて、先をしかくる所肝要也。物毎の景気といふ事は、我智力つよければ、必ずみゆる所也。」


この「景気」や「気色」には筆舌にしがたいけれども確かである情報、様子や気配のような意味があるようです。この生死に関わる重要な情報は特殊能力などではなく、智力を必要としていることが分かります。ちなみにこの「敵」を「病」に置き換えると医療者にとって考え深いものになりますね。


「声無きに聴き、形無きに視る」(『礼記』曲礼上第一より)(註1)


中国や日本では古来よりこの思想がありました。例えば「目上の人に会って話をしているとき、相手があくびをしたり、手にした杖を動かしたり、靴のつまさきを動かしたり、あるいは戸外の日ざしの移りかげんを気にするようであれば、いとまを請うがよい」、というようにです。


ところで『五輪書』の五輪は五行論と同じ数字です。何か関係あるのでしょうか。


次回に続きます。


(註1)礼記:儒家の、礼法や文化に関する論集。前漢の戴徳の編「大戴礼」と戴聖の編「小戴礼」があったが、後者が今日の『礼記』となった。『大学』『中庸』はもとは『礼記』の一部。三礼、五経の一つ。(『漢字海』より)


(ムガク)


No.30 大森荘蔵と気

2008-03-24 22:17:10 | 気・五行のはなし

シュレディンガーの猫という「重ね合わせ」というパラドックスの影響を受けたかどうかはよく解りませんが、大森荘蔵(1921-1997年)という哲学者は17世紀の科学革命以来、科学から心が排除されてしまったことで生じた問題を解決する方法を提案しました。


「道徳的行為も芸術活動も、放射能崩壊や惑星運動と同様に全く無意味な死物運動にすぎない。こういう見方が現代科学が与える世界描写なのであり、現代に生きるわれわれに巣食う不安の根源であって、それに較べれば流行の自然破壊や脳死その他の生命倫理の問題は取るに足らないように見える。…この不安を根絶することはできないが、多少とも鎮静させる方策がないでもない。…私が本書で提案するのは「重ね描き」の概念である。」(大森荘蔵『知の構築とその呪縛』)


大森荘蔵はこの「重ね描き」の概念を提出したのち、たとえとして科学者が鉄の一片とその原子集団をどのように認識するのかについて、は以下のように言っています。


「…彼(科学者)は見えている場所に見えているままの形で鉄の原子という「物」の配列がある、と考えていることは確かだからである。いい換えれば、彼は知覚風景によって「物」の存在と形とを「定義」しているのである。…この定義によって「物」は「知覚像」にぴったり密着していることになる。…「物」と「知覚像」の一心同体的同居は、それぞれの住宅である客観的世界と主観的世界との一心同体的同居を伴う…。日常描写と科学的描写は共に、一にして「同じ状況」の二通りの描写なのである。換言すれば日常描写に科学的描写が「重ね描き」されるのである。」


12世紀に生まれた朱子学はその時代の最先端の科学を含んでいました。その内の気の哲学を受け継いだ人々が気を認識した方法は現代の科学者が原子を認識した方法と同じであると思います。これは原子顕微鏡を使用するなどの観測レベルはもちろん異なりますが、原子顕微鏡そのものが目の前にありそれを触り認識する経験、その仕方は同じという意味においてです。


江戸時代の儒医は気を観ていました。それも超能力などによるものではなく、いわゆる客観的なものに重ね合わせて観ていたのかもしれません。これは気の一つの定義です。江戸時代には気の意味は他にまだ存在し、それは武士社会であったことが関係していると思いますが、それについてはまた今度…。


(ムガク)


No.29 シュレディンガーの猫と気

2008-03-16 22:09:37 | 気・五行のはなし

張横渠は気を物質や生命の構成元素として定義しました。気(氣)とはもともと米を炊いた時の湯気という意味があったようです。その湯気を光に対して観測すると小さい粒子が見られます。また水中に漂う分子を光に対して観測すると小さい粒子の運動が見られ、これをブラウン運動と呼びます。しかし多くの物質の構成元素を肉眼にて確認することは不可能に近いことと思います。なぜなら、例えば今見ているパソコンがあることは判りますが、そのパソコンの構成元素を純粋意識によって確認できないからです。


それでは張横渠や気の哲学を受け継いだ人々はどのように気を見ていたのでしょうか。それとも気とは見ることなく、ただ思弁的な説明概念として使用していた用語に過ぎないのでしょうか。


1935年にシュレディンガー(註1)はある思考実験を発表しました。それは「シュレディンガーの猫」と呼ばれる有名なパラドックスです。


その思考実験とは、生きた猫を放射性物質とその検出装置および毒ガス発生装置と一緒に鉄の箱の中に閉じ込め、猫が生きているか判らないようにします。箱の内部は放射性物質が原子核崩壊を起こして、検出装置がその放射線を検出すると毒ガスを発生するように作られています。そして一時間で放射線を放射する確率が50%として一時間後に猫が生きているのか、それとも死んでいるのかという問題です。


当時、量子論において原子核が崩壊して放射線を放射するかしないかは、観測者が放射線を観測するかしないかで決定するという理論がありました。観測した時点で量子の波の収縮が起きるということです。それ故に物理学の世界に観測者が観測するまでは放射線がある状態とない状態の重ね合わせの状態にあるという、実在とも非実在とも異なる新しい状態が生まれました。


さて箱を開ける前では、箱の中の放射性物質は原子核が崩壊した状態と崩壊していない状態の重ね合わせの状態になっています。その時箱の中の猫は生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせの状態になっているのでしょうか。猫の半殺しの状態を想像はできても生と死の重ね合わせの状態を想像することは難しいと思います。


しかしこのパラドックスが思想界に多くの影響をあたえました。そしてまた気の哲学にも応用できそうです。


(註1)シュレディンガー(1887-1961年):物理学者であり1933年にはノーベル賞を受賞しています。シュレディンガー方程式を生み出し量子力学の確立に大きな力となりました。


(ムガク)