宣長のいたころ、朱子学が官学になり日本に普及したころ、学問と言えば中国から入ってきた儒学のことであり、世の中の事すべてを、日本の神話や和歌なども陰陽論や五行論で説明しようとする風潮がありました。例えば、和歌が五七五・七七の文字で成り立っているのを、「上の句は天に象り、十七字にて陽の数、下の句は地に象り、十四字にて陰の数なり。五句なるは五行・五常・五倫にあたり、三十一(卅一)字は世の字をならいて、終われば又始まりて極まりなき理など」と言う人がいたのであり、それを聞いて喜ぶ人もありました。こういうことに対して宣長は主張します。
陰陽五行などいう事は古にさらになき事なり。これらはみな人の国にて賢(さか)しら人の云い始めたる事なり。すべて漢国の人は何事にも道理をこちたく(仰々しく)せめて考えるくせにて、かように二つ相向いたる物には、必ず陰陽という事の理を説くけれど、基本を探れば、実にはみな造り事なり。わが御国はただ直く雅かなる道のみ有りて、さように目にも見えず耳にも聞こえぬ隠れたる理を尋ねもうけてとかく言える事さらになければ、火はただ火なり。水はただ水なり。天はただ天、地はただ地、日月はただ日月なりと見る外なし。まさに陰陽という物ありなんや。しかるを人ごとに、天地の間にあらゆる物は、おのずから此の陰陽の理は備えたるように思うは、みな漢文に染みたる心の惑いにて、実にはさる物あることなし。されば此の方の言にうつしては、女男又は火水などより外に言うべき詞なし。また五行と言う事は、いよいよ造り事なり。これも漢人のくせとして、この五つをよろずの物に配り当てて、その理をこちたく言うけれど、みな強言である。*1
宣長は、こんな風に漢意(からごころ)の理という物の存在を否定しました。このことは『玉勝間』でも『古事記伝』でもずっと一貫して主張していることです。ところで、伊藤仁斎は「けだし天地の間は、一元気のみ。あるいは陰となり、あるいは陽となり、ふたつの者ひたすらに両間に盈虚消長往来感応して、いまだかつて止息せず」と「気一元論」を主張しました。彼は理の存在を、形而上学的に否定するのではなく、具体的な物を挙げることで否定したのです。
今もし板切れを六つもって相合わせて箱を作り、密閉するように蓋をその上に加える時は、自然と気は有り、その内に満ちている。気が有り、その内に満ちる時は、自然と白カビが生じる。すでに白カビが生ずるときは、また自然とキクイムシのシミが生じる。これが自然の理なり。思うに天地は一つの大箱である。陰陽は箱の中の気である。万物は白カビでありシミである。この気は、したがって生ずるところ無く、亦したがって来るところ無し。箱が有るときは気も有り、箱が無いときはすなわち気もない。故に知るのである。天地の間は、ただ是れこの一元気のみ。見るべし。理が有って後にこの気を生ずるのではないことを。いわゆる理とは、かえって是れ気中の条理のみ。それ万物は五行に基づく。五行は陰陽に基づく。そうして再びかの陰陽たる理由の基を求むるときは、すなわち必ずこれを理に帰することはできない。これが常識の必ずここに至りて意見が生じなくなる理由であり、そうして宋儒の無極太極の論が有る理由である。いやしくも前の譬喩をもってこれを見るときは、すなわちその理は彰然として明らかなること甚だしい。おおよそ宋儒のいわゆる理が有って後に気が有り、およびいまだ天地ができる前に、畢竟まずこの理が有る等の説は、みな臆度の見解にして、まるで蛇を画がいて足を添え、頭上に頭を安んずるような、実に見られた物ではない。*2
というように、宣長のあの思想は、伊藤仁斎(あるいは荻生徂徠の)の「気一元論」と同じであることが分ります。この仁斎の「気一元論」は、最新の、日本人に受け入れやすい、今風に言えば「弁証法的唯物論」とでもいうべき理論ですが、なぜ宣長はその論を信じて受け入れたのでしょうか。彼は上京してすぐに契沖の『百人一首改観抄』の、歌の解釈に一つ一つ古書を引用し、根拠を積み上げていく学問方法に衝撃を受け、その方法を生涯貫き通しました。また、「師の説なりとて、必ず泥み守るべきにもあらず、良き悪しきを言わず、ひたぶるに古きを守るは、学問の道には、言うかいなきわざなり*3」と言い切った宣長がそれを信じて受け入れた理由が、本にそう書かれてあったとか、ある先生がそう言った、というのはありえません。その答えは、宣長が堀元厚に入門した時期に鍵が隠されているのです。
宣長は宝暦二年三月十六日、23歳で上京し堀景山に入門し儒学を学びました。そして宝暦三年七月二十二日に、堀元厚に入門し医学を学び始めます。入門日はもっと前でも後でも良かったかもしれません。なぜなら宣長はその時すでに十分儒学書や医書を読む能力があったからです。でも宣長はその日にしたのです。なぜでしょう。
それは、その時麻疹の大流行が起きていたからです。麻疹は江戸期に13回大流行しましたが、これはその7回目。麻疹は「はしか」とも言い、何万何十万の単位で死者を出す恐ろしい伝染病でした。宣長が伊勢に一時帰国していたころ、三四月ころから流行し始め、五月に帰京し六月になってもその流行は止みませんでした。京の町で多くの人々が麻疹に苦しみ亡くなっていく中で、宣長は江戸の木綿店の支配人であった布屋五兵衛や小津七右衛門が亡くなったのを聞きました。その時彼は何を思ったのか。おそらく彼がまだ11歳のころ、江戸で木綿商をしていた父の突然の死だったかもしれません。
父小津三四右衛門定利が水分(みくまり)神社に祈誓し、誕生したのが宣長であり、宣長は父のその恩、亡くなった悲しみを終生忘れませんでした。そして、また似たような出来事が起きたのであり、さらに今回は身の回りで多くの人々が同じ悲しみに暮れているのです。七月十一日には、師景山の従兄弟、堀南湖(安芸候の儒官)の病死が知らされました。十六日に彼の葬儀が行われ、その六日後、宣長は二十二日に医学を学び始めたのです。
その時、彼がそうすることは彼の心理にとっても、社会にとっても必要だったことでしょう。彼はもう何もできない子供ではなく、医を学び力をつければ多くの人を救うことができるのです。そして彼は医学を学び始めましたが、九月の中旬に頂髪を伸ばし始める間も、麻疹の流行は続いていたのです。
その時、彼が講義を受けていたのが、霊枢、局方発揮、素問、運気論、溯集などであり、もし理論を「説明理論」と「記述理論」の二つに分けるとするなら、これらの講義の大半は「説明理論」であったと言えるでしょう。きっと宣長は思いました。人々が次々と亡くなっていく中で必要なのは説明ではない。人をいかに治し、いかに救うかが必要なのであると。もしそれらの講義の内容が、陰陽論や五行論が、麻疹の収束に少しでも貢献したのなら、その後の宣長の思想も変わったかもしれません。しかし実際にはそれらは無力であり、宣長を古医方の道へと進ませたのであり、漢意を否定する思想的根拠を与えたのでした。
ここで次に進む前に、誤解のないように言っておくと、宣長は古医方を学びましたが、彼は古方派ではないのです。ついでに言ってしまえば後世方派でもありません。これらを次第に明らかにしていきましょう。
つづく
(ムガク)
*1『石上私淑言』巻三
*2『語孟字義』
*3『玉勝間』師の説になづまざる事
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