(原文)
陰陽の気天にあつて、流行して滞らざれば、四時よく行はれ、百物よく生る。偏にして滞れば、流行の道ふさがり、冬あたたかに夏さむく、大風大雨の変ありて、凶害をなせり。人身にあっても亦しかり。気血よく流行して滞らざれば、気つよくして病なし。気血流行せざれば、病となる。其気上に滞れば、頭疼眩暈となり、中に滞れば亦腹痛となり、痞満となり、下に滞れば腰痛脚気となり、淋疝痔漏となる。此故によく生を養ふ人は、つとめて元気の滞なからしむ。
(解説)
今ここで直接関係はありませんが、後のために少し全体的な解説を挟ませていただきます。貝原益軒は、『養生訓』では声を大にして主張してはいませんが、「理気二元論」を否定しました。これは朱子学の基礎的哲学の一つであり、簡単に言えば、この世には、「気」という物質を構成する要素と、「理」というそれらの性質、ふるまいを決定する法則の二種類が存在し、それらは全く異なる分離した存在である、という理論です。この理論に立脚した医学が、安土桃山時代に輸入された中国医学、いわゆる後世方医学や金元医学と呼ばれるものです。益軒の時代は、この医学が主流でありましたが、「理気二元論」を否定するとどうなるのでしょうか。その前に、益軒がどのようにそれを否定したのか、『大疑録』から見ていきましょう。
それ天地の間は、すべてこれ一気にして、その動静を以てすれば、これを称して、陰陽となし、その生生息まざるの徳、これを生と謂ふ。故に易に曰く、「天地の大徳を生と曰ふ」と。その流行を以て、一は陰となり、一は陽となる、これを道と謂ふ。その条理ありて乱れざると以て、又これを理と謂ふ。指す所同じからざるによりて、姑くその名を異にすといへども、然もその実は、みな一物のみ。ここを以て陰陽流行して純正なるものは、即ちこれ道なり。故に理と気とは、決ずこれ一物にして、分つて二物となすべからず。然れば則ち、気なきの理なく、また理なきの気なく、先後を分つべからず。いやしくも気なくんば、何の理かこれあらん。これ理と気の分つて二となすべからず、かつ先に理ありて後に気ありと言ふべからざる所以なり。故に先後を言ふべからず、又理と気とは二物にあらず、離合を言ふべからざるなり。蓋し理は別に一物あるにあらず。乃ち気の理なるのみ。気の純正にして流行する者、これを道と謂ふ。その条理ありて紛乱せざるも以て、故にこれを理と謂ふ。その実、道と理と一なり。いやしくも理を以て、別に一物ありて気中に寓すとなさば、則ちこれ老氏のいはゆる、「物あり混成し、天地に先だちて生ず」、仏氏のいはゆる、「物あり天地に先だつ、無形にして本より寂寥たり。常に万象の主となり、四時を逐うて凋まず」といふものと、何を以て異ならんや。天地太和の気は、これ陰陽の正なるものなり。故に能く万物を生じ、万品の根柢となる。至貴の理は、これを賤しんで、形而下の器となすべからず。故に理と気とは、もとこれ一物なり。
とあるように、「理と気とは、もとこれ一物なり」と言い、「気一元論」を主張しました。もっとも、これは益軒だけの独創ではなく、同時代の伊藤仁斎や荻生徂徠も同じことを主張しています。しかし、益軒の『養生訓』は広く一般の人々に読まれることとなり、その彼らの哲学が民衆に受け入れられる土壌を形成しました。さて、理(コトハリ・法則)が気(物質)とかけ離れた所に存在するのではなく、実際のものと同じところに存在するという思想が生まれ、それが普及すると何が起こるのか、それはその新しい哲学を基礎とした実証科学、医学の分野では「古方派医学」の誕生です。人の身体の仕組み、治療の手段・法則を、過去の理論書や言い伝えではなく、実際の人体や臨床現場から見出そうとしたのでした。また西洋から輸入された知識と、今まで信じられてきた知識が異なっていたことが、この思想の遷移に拍車をかけました。
「気血流行せざれば、病となる」という、紀元前からあり、また現代の日本でも一般に通用している考えは、貝原益軒が世に広めたようですね。
(ムガク)
(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)
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