ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

クラクフ報告(19) オシフィエンチムからクラクフに帰還

2013-10-11 22:04:35 | 2013年6月のクラクフ

6月7日(金)のオシフィエンチム/アウシュヴィッツ訪問の続きです。

 

アウシュヴィッツⅠ(メモリアル博物館)の出入口があるビジター・センターは、すでに閉館していました。 6月は午後8時までオープンのはずなのに、何でかな?と思いつつ、少し先を歩いていた家族連れらしい4人に続いて、脇にあった正規でないっぽい出口から外に出ました。

下左は、シャトルバスが着いたのと同じ場所の写真で、午後7時40分の撮影です。この左手にある駐車場にはバスもタクシーも車もなく、空っぽでした。ここからクラクフまでバスで帰るつもりだったので、予想外の展開にちょっとパニック。

(仕方ない。バスがないんじゃ、来た時と同じように列車で帰るっきゃないわ。)と思い、道路に出て左に向かって歩き出しました。何となく、駅に行くにはどっちから行っても大丈夫だろう、というような気がしたので。実は恥ずかしながら、アウシュヴィッツⅠからの帰途はバス利用と決めていたので、アウシュヴィッツⅠと駅の位置関係を含む地図を、持っていなかったのです

歩き出して間もなく左手(博物館側)に、大きなお屋敷(下右)が。 これ、帰国してからわかったのですが、1984年にカルメル会が開設して物議をかもした修道院に使われた建物のようです。事の起こりはというと・・・

 

新たにローマ教皇に選出されたヨハネ・パウロ2世は、1979年にアウシュヴィッツの敷地内で、約50万人の信者を前にミサを行い、エーディト・シュタインは列福されるであろうと告げました。その後一部のカトリック信者が、彼女がガス殺された場所の近くに十字架を立てました。すると間もなく、今度はユダヤ教/ユダヤ民族の象徴であるダビデの星が出現。宗教のシンボルの乱立が懸念されましたが、ダビデの星はその後取り下げられました。

1984年にカルメル会の修道女たちは、アウシュヴィッツⅠの隣に修道院を開設。しかしこれはユダヤ人団体の猛烈な反発を招き、1987年にカトリック教会は、修道院の閉鎖に同意しました。1988年にカルメル会は、1979年のミサに使われた高さ8mの十字架を、修道院の隣、“死のブロック”11号棟からは塀を隔ててすぐ外にあたる場所に立てました。この行為はふたたびユダヤ人団体を刺激。彼等は「アウシュヴィッツで殺されたのは大多数がユダヤ人なのだから、宗教を象徴するものはアウシュヴィッツの近くには置かれるべきではない」と要求しました。

1989年までに修道院を閉鎖するようカトリック教会に命じられていたカルメル会は、1993年まで居座ったうえで、十字架は残して去っていきました。十字架の撤去が再三要求されたのち、1998年に、地元の活動家団体によって約300の小さな十字架が、大きな十字架の周囲に立てられ、ふたたび物議をかもしました。ポーランド・カトリック教会とポーランド政府はやがて合意に達し、1999年に小さな十字架は除かれましたが、ヨハネ・パウロ2世がミサに使った大きな十字架(下左:鉄柵の隙間から撮った写真です)だけは残されました。柵の外には、ヨハネ・パウロ2世の写真に加えてキャンドルや花が飾られていました。ポーランド人として初めてローマ教皇になったヨハネ・パウロ2世は、今でもポーランド国民に深く敬愛されているようです。

 

下左はアウシュヴィッツⅠ博物館を見学中に11号棟から撮った、内部から見えた十字架の写真です。

塀の外には広い道路が走っていて、 ・・・・・アウシュヴィッツという恐ろしく非現実的な世界と現実の日常的な世界が隣り合わせに存在していることが、何とも不思議でした・・・・・。

 

塀が終わったところにあったゲート(下左)。うっかりしていましたが、この右手には、アウシュヴィッツ所長を務めたルドルフ・ヘスが家族と住んでいた家があったのです。 下右は、ネットで見つけたその家の写真で、収容所の敷地側から撮ったもののようです。 もちろんこの家、戦後は元の持主に返され、今も人が住んでいます。

   

緑色の矢印の家がそれです。                                    下右隅の大きな建物↓が、元修道院。

 

私がアウシュヴィッツⅠ(メモリアル博物館)で歩いたルートと、駅を探して歩いた道

駅はこの方角でいいはず・・・と思いつつも、途中でとても不安になってしまい、向こうから歩いて来た30代くらいの女性と初老の女性の二人連れに道を尋ねました。ポーランド語は全然わからないので、単語会話です。 「駅、プリーズ?」とポーランド語で言い、向かっていた方向を指差し、人差し指と中指で『歩く足』を表現し、「駅に行くにはこの道でいいのですか?」と訊いたつもり。

若い方の女性はしかし、“Do you speak English?” と ・・・・・ 「駅に行くにはこの道でよくて、あと10分も歩くと広い通りに出るから、右折して少し歩けば左側が駅ですよ」とのこと。 よかった~、助かりました。 有難うございました~! 

で、ふたたび、駅。 この写真↓を撮ったとき、時刻は午後8時16分。           駅構内のお店は閉まり、誰もいませんでした。

 

来たときの『昭和的車両』とは全然違い、帰りはなぜか、最新式のキレイな車両! ゴミひとつ落ちておらず、また座席の下にまでゴミ入れがついているのに感心したので写真撮影。

 

 

実は、プリントアウトしてもらってあった列車時刻表によると、オシフィエンチムからクラクフに戻る列車は、20:27発が最終らしくて・・・ そのため(早く駅に着かなきゃ!)と焦っていたのです。タクシーでクラクフまで戻るような無駄遣いは、倹約主婦としてはぜひとも避けたかったので。

 

ついでに、行きの列車の時刻表。予定より一本早い7:14クラクフ発で来たのに、こんなに遅くなったんだもの。9:27発だったら、とてもじゃないけど時間が足りなかったなぁ。

 

 

行きの切符(下左)と、帰りの切符(下右)。車両と同様、切符までも帰りの方が洗練された感じです。運賃はどちらも、9.5PLN(¥285)。約2時間乗ってこれは、オドロキの安さっ!! 

               

 

やがて外は暗くなり、景色も見えなくなりました。さすがに疲れてうとうとするうち、20:27オシフィエンチム発は、予定より3分遅れの22:32にクラクフ中央駅に到着。

夕飯がまだだったのでショッピング・モールに入り、まだ開いていたバーガー・キングでフィッシュバーガーとラテを買い、バーガーを食べながらホテルに戻りました。駅の近くはまだ人が歩いていてほっとしました。

 

夜のショッピング・センターと、クラクフ中央駅。 ホテルに無事戻り、部屋でラテを飲み、シャワーを浴び、0時に床につきました。 

 

この日のオシフィエンチムでの私の足取りです。 歩いてタクシーに乗って歩いてシャトルバスに乗って、また歩いて。 5、6kmは歩いたかな?

 

こうして見ると、アウシュヴィッツⅠのあとは、右(北)に向かって歩けばよかったのですね。左に歩いてしまって、遠回りしちゃった。考えてみれば、タクシーでビルケナウに向かうとき駅前を通ったのだから、見当はついてよかったはず。 私のカバ・・・

 

この日の出費を、将来の参考にメモしておくことにします。 (ユダヤ人センターでした寄付は除いて。)

     クラクフからオシフィエンチムへの列車運賃 (片道 x 2)           19.00PLN   (¥570)

     オシフィエンチム城博物館と塔への入場料                    6.00PLN   (¥180)

     ユダヤ人センター入場料                               6.00PLN   (¥180)

     ランチ (ジューレック、チョコレート・ケーキ、コーヒー/チップ込)       20.00PLN   (¥600) 

     タクシー代 (タウン・センターからビルケナウまで/チップ込)        20.00PLN   (¥600)

     『アウシュヴィッツ・ビルケナウ その歴史と今』                 13.00PLN   (¥390)

     ドリンク                                         4.00PLN   (¥120)

     夕食のフィッシュバーガーとラテ                           7.45PLN   (¥224)   

                   ―――――――――――――――――――――――――――――――――――

                                         合計     95.45PLN    (¥2864)  

 

こんなに少額の出費で、あんなに実り多い一日が過ごせたなんて・・・ なんだか申し訳ないみたい・・・ 

 

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アウシュヴィッツⅠメモリアル博物館の開館時間ですが。 『6月から8月は午前8時から午後8時まで』と思い込んでいましたが、この記事のため確認してみたら、『午後7時まで』でした。 持参したクラクフのガイドブックにも明記してありました。 どこでどう間違ったんだ、自分っ?!   

道理で午後7時頃、最初の方の展示室の扉を管理人さんが閉めていたはずだわ。 (あれ、まだ閉館まで1時間あるのに・・・もう入館する人がなさそうだから、早仕舞いしちゃうのかな?)なんて思ってた、おめでたい私。 閉館時間後まで居座ってご迷惑をかけていたのは自分の方でした。 本当に申し訳なかったです。

アウシュヴィッツ訪問を考えていらっしゃる方のために、見学のルールで主だったものを挙げておきたいと思います。

   * 休館日は1月1日、イースター・サンデー、12月25日のみ。開館時間は年間を通じて午前8時だが、閉館時間は月によって変わる。 (詳しくはこちら。)

   * 安全上の理由、あるいは保存・修復作業のため、博物館敷地内の一部が閉鎖されていることがある。

   * グループでの訪問には、博物館の公式ガイドを雇うことが求められる。一人のガイドにつけられる最多人数は30人。10人以上のグループは、オーディオ装置の使用を求められる。個人の訪問者は、各自で公式ガイドを雇ってもいいし、ガイドつきのグループに参加させてもらうこともできる。

   * 4月1日から10月31日までの期間、ピーク時間帯の午前10時から午後3時までは、アウシュヴィッツⅠへの入館は公式ガイドつきのツアーのみとする。アウシュヴィッツⅡビルケナウにはこの制限はない。

   * ビルケナウのメイン・ゲート上の監視塔への入場は、博物館の公式ガイドつきの30人までのグループにのみ許可される。

   * 個人での使用を目的とする限り、写真撮影も映像撮影も許されるが、屋内でのフラッシュと三脚の使用は禁止。また犠牲者の髪の毛を展示した部屋と11号棟の地下では、写真/映像撮影は禁止。

   * 14歳以下の子供の博物館訪問は勧められない。

   * 大きな荷物やバックパックは、博物館の敷地内には持ち込めないが、ビジター・センターで預けることができる(有料)。

   * 警備員にハンドバッグ等の中味の確認を要求された訪問者がそれを拒否した場合は、入館は許可されない。

   * 博物館の敷地内では、喫煙と食物・アルコールの摂取は禁止。

 

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平和な青空の下で見たアウシュヴィッツはⅠもⅡも、イメージしていた悲惨さからはほど遠く・・・ 正直言って、ホロコーストがあの場所で本当に起きたこととは、見学してきた今でも、とても信じられません。実際にあの場所を訪れてもそうなのだから、ホロコースト否認論などが出るのも当然と言えますね。

でも写真や証拠品や生残者の証言などから、ホロコーストは、やはり実際にあったことであり・・・ 映画『カプリコン・1』(人類初の有人火星着陸の捏造に関与させられた3人の宇宙飛行士が命を狙われるというサスペンス)のように、ホロコーストがでっちあげであったらどんなにいいか・・・ と、広い広いビルケナウを歩きながら、思いました。

ビルケナウはとにかく広くて、時間が気になって焦り気味に見学を切り上げてしまいました。その結果、2時間かけたものの、北西部にはまったく足を踏み入れませんでした。第4と第5ガス室/焼却場の名残りなどがあったのですが。

Ⅰの博物館も、3時間かけて訪問したにもかかわらず、見逃した展示がかなりありました。

 

だから私は、もう一度アウシュヴィッツを訪れようと思います。次回はたっぷり半日ずつかけて、両方をしっかり見学したい。Ⅰでは唯一の公式日本人ガイドの中谷さんに、ガイドをお願いしたいです。中谷さんにガイドをお願いした皆さんは、口を揃えて「貴重なお話が聞けた」とおっしゃっていますので。

オシフィエンチムの広場も、舗装が完了してきれいになったところを見てみたい。ランチに入ったカフェ・ビストロのポンチキも、ぜひ味わいたい。

・・・これはオシフィエンチムに泊まらなきゃならないかも、ですね。

(博物館の公式サイトで、英語ですが、とても役立つ On-line lesson: “Auschwitz - Concentration and Extermination Camp” を見つけました。ご興味ある方はぜひご覧下さい。)

 

 

普通の感覚では、一度訪れたら、二度と行くところではないかもしれない。でも私は幸いまた行ける立場にあるので、行こうと思います。

過去はもう変えられないけれど、未来は変えられる。 未来で同じ過ちを犯さないためには、過去からしっかりと学ばなければなりません。

アウシュビッツ絶滅収容所は、時が経てばまた同じ過ちを犯しそうな人類への、とてつもなく重要な警鐘を鳴らしてくれる“記憶の場所”なのです。

 

 

≪ 6月7日の観光 おわり ≫

 

 

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