ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

クラクフ報告(9) ゲットーの壁の名残り②~レストラン “Hawelka”

2013-07-04 21:24:30 | 2013年6月のクラクフ

6月5日(水)の観光の続きです。

 

プワシュフ収容所跡の散策を終えて下りてきたところは、市電の窓から見たもうひとつのゲットーの壁の名残りからそれほど遠くないと思われました。

それで大分疲れていたけれど、それに時間は午後6時半近かったけれど、その日のうちに歩いて行ってみることに。

もうひとつのゲットーの壁の名残りは、コンクリート色の建物の脇から裏へと伸びていました。建物の住所は、 ul. Boleslawa Limanowskiego 62番地。ちなみに ul. は ulica (ウリーツァ=street)の略です。

 

門があったけれど開いていたので、たぶんいいんだろうな~と思い、お邪魔。ネットで見た通り、赤い象さんの乗り物がありました。

 

市民に開放されている児童公園といった感じです。ゲットーの壁の名残りは、切り立ったような岩のところで終わっていました。壁はこちらから見るとそれほど高くありませんが、向こう側の地面はこちら側より落ちていて、その分壁も高くなっているのだと思います。ゲットーの壁は、3mの高さがあったということですから。

 

     壁の名残りの終り近くに、銘板がはめ込まれていました。英文の下のポーランド語の碑文の意味は、英文の下半分と同じようです。

            “HERE STAND THE REMNANTS OF THE WALLS OF THE KRAKOW GHETTO THAT EXISTED FROM 1941 TILL 1943

                      THESE WALLS HAVE BEEN RESTORED IN MEMORY OF THE JEWS OF KRAKOW

                                    BY THE MOSBERG FAMILY FOUNDATION”

                        “1941年から1943年まで存在したクラクフ・ゲットーの壁の名残り

                          クラクフのユダヤ人を記念し、モスベルク財団により修復された”

 

                             なるほどこの壁、荒れたまま放置されていた時期もあったようです。

           

 

壁の名残りの道路に近い側の終りは、建物につながっていました。

最寄の停留所から市電をつかまえ、ヴァヴェルの足元まで乗りました。壁の名残りを見に行った頃はやんでいた雨が、また降り出しました。 Katyn Woods Memorial ふたたび。

 

第二次大戦前のクラクフの人口は、約25万人。そのうち1/4の6万人強がユダヤ人だったと考えられています。1939年9月6日、クラクフはナチスに占領されました。ポーランドの中央部と西部を占領したナチスは、クラクフをドイツ領ポーランドの首都とし、ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはヴァヴェル城に本部を置きました。当時ユダヤ人は、ヴァヴェルとヴィスワ川の間に位置するカジミエシュ地区に集中して住んでいました。

ユダヤ人を軽蔑し嫌悪していたフランクは、ヴァヴェルの南の足元がユダヤ人地区であることに我慢がならなかったのでしょう。「ユダヤ人はクラクフから一掃されるべき」とし、ヴィスワ川の南にあるポッドゴルジェ地区にユダヤ人ゲットーを設立することにし、ユダヤ人を使ってゲットーを建設させます。ゲットーの壁の上辺は、ユダヤ人に精神的苦痛を与えるため、わざとユダヤ人の墓石を模したアーチ型に造られました。ゲットー建設と並行して1940年5月から1941年3月にかけ、約4万人のユダヤ人がクラクフから追放されました。

 

1941年3月3日、ゲットー設立が布告され、クラクフとその周辺地域に住んでいたユダヤ人がゲットーに強制移住させられました。ヴィスワ川の北に位置するカジミエシュ地区に多く住んでいたユダヤ人は、ヴィスワ川にかかる橋を渡ってゲットーへと追い立てられました。移住の期限は3月20日。21日にゲットーは閉鎖され、隔離されました。ゲットー内の住居用建物数は320、部屋数は3167。それまで3千人が住んでいたスペースに、その5倍にあたる約1万5千人が詰め込まれました。一人あたりの生活スペースは、2㎡しかなかったと推定されています。四家族が一家族用のアパートでの同居を強いられました。運悪く住居に入れなかった者は、路上での生活を余儀なくされました。ユダヤ人に対して歴史的に寛容だったクラクフのゲットーなら安全だろうと、秘かにゲットーにもぐり込むユダヤ人も数千人いたため、最終的にはゲットー内のユダヤ人は約1万8千人に上っていたと考えられています。

 

 

 

1942年1月20日のヴァンゼー会議を経て、『ユダヤ人問題の最終的解決』のため1942年5月末からナチスは、ゲットーのユダヤ人の強制移送を始めます。約2週間で高齢者・病人・子供など7千人ものユダヤ人が Zgody 広場(のちの“ゲットーの英雄広場”)に集められ、「移住のため」と称して家畜用貨車に詰め込まれ、プワシュフ駅からアウシュヴィッツベウジェッツ絶滅収容所に送られました。

急激に希薄になった人口密度、また悪化する一方のナチス兵士の残忍さに絶望し、自殺者が増えました。またその頃、プワシュフ強制労働キャンプの建設が始まろうとしていました。同年10月にゲットーは“再整理”され、病人・老人・親から引き離された子供など4千5百人がベウジェッツに送られ、孤児院の子供とその教師を含む約6百人が、ゲットー内で射殺されました。12月になるとゲットーは2つに分けられ、ゲットーAは労働者用、ゲットーBは非労働者用になりました。

1943年3月13日と14日に、アーモン・ゲートの命によってクラクフ・ゲットーが解体されます。まず3月13日に、ゲットーAの労働可能なユダヤ人約6千人が、まだ未完成だったにもかかわらずプワシュフ強制収容所に移されました。翌14日にはゲットーBで多数が殺害され、数千人がトラックでアウシュヴィッツに送られました。この二日間に、抵抗したり逃亡しようとした千人から2千人が、路上で殺害されました。プワシュフに送られたユダヤ人で生きて終戦を迎えたのは、ほんの数百人でした。

戦前は6万人以上いたクラクフのユダヤ人のうち、生きて戦後を迎えたのは2千人ほどと考えられています。1948年のユダヤ人人口は5900人に増えましたが、1978年にはほんの600人に。ポグロムを怖れた、あるいは戦前のようなユダヤ人コミュニティーの再建はもはや不可能と考えたユダヤ人が、国外に去ったためと思われます。今日のクラクフには約千人のユダヤ人が住んでいるものの、ユダヤ人であることを明言してしているのはそのうちの20%ほどと推定されています。 

(注: 情報源により推定数がかなり異なるため、文中の数字はゆるく信じるにとどめるようお願い致します。)

 

                                                       ①が先に、②が後で見た、ゲットーの壁の名残りの位置です。  

 

下はネットで見つけた航空写真ですが、ゲットーのあった辺りがよく見えるのでお借りしました。右手のコンクリート色の広場が、“ゲットーの英雄広場”。奥の中央に見えるのがヴァヴェルです。

               

 

こちらは、クラクス・マウンドと Liban 採石場の航空写真。採石場は、こんなに水が溜まることもあるんですね。“ゲットーの英雄広場”は左手奥、左の橋の少し手前です。     

 

この日の私の足取りです。実線は市電利用、点線は歩いた道のりです。この日も夜ホテルに帰って調べてみたら、足に水マメが2つできていました・・・

     ① ゲットーの英雄広場         ②シンドラーの工場博物館        ③ ゲットーの壁の名残り①        ④ Grey House

         ⑤ アーモン・ゲートの家         ⑤’ ヒュヨヴァの丘の十字架         ⑥ Memorial of Torn-out Hearts

             ⑦ Liban 採石場            ⑧ クラクス・マウンド            ⑨ ゲットーの壁の名残り②

プワシュフ強制収容所跡にはほとんど何も残っていないそうだし、郊外にあるので、行くかどうか決めていませんでした。でも行って、実際に自分の足で跡地を歩いてみてよかったです。跡地には本当に、残酷で悲劇的な歴史を思わせるものは、数々の記念碑、慰霊碑を除けば何もありませんでした。木々や藪が繁り、緑に覆われた緩やかな丘でした。ぜひもう一度、今度は青空の下、過去に思いを馳せながらあそこを歩いてみたいです。

 

聖ペテロ聖パウロ教会前を通りかかったら、何やらコンサートの看板が。その日、午後8時から、オペラとクラシックの“ゴールデン・コレクション”コンサートがあるらしいです。せっかくポーランドの文化の首都クラクフに来たのだもの。本当は、そのような文化的な催しにこそ出掛けるべきだったのですが・・・何たって“ゴールデン”だし・・・ しかし、このとき時間は、既に午後7時。とても疲れていたし濃厚ホットチョコレートはいただいたけれどお昼は抜いたし夕飯もまだだったので、今回は見送ることに。でも今度クラクフに来たときは、絶対行くからね~!待っててね~! 

 

市庁舎の塔の脇とヴァヴェルの中庭で見かけたようなモデルが、ここにもありました。これ、ヴァヴェルで気づいたのですが、点字で説明文がついているんですね。ある若いカップルがモデルのところにいたのですが、女性が盲目らしく、両手でモデルに触ってから説明文を指で読んでいました。グッド・アイディアです!  (ひょっとして、知らなかったのは私だけ?

 

レストランを探して大広場を歩いていたら、あるバー?の店先にこのおじさまが。わー嬉しい、会えて この方、私のガイドブックでお写真が使われていた(下右)のです。この日はスズランの花を手にしていらっしゃいました。

  

ちょっぴり高級だけどお値段は手頃だというレストラン、ハヴェウカ(Hawelka, l は斜め横棒入り)に入ってみることにしました。大広場に面していて、間口を入ってすぐはカフェのエリアかな?もうそのエリアは閉まっていました。

 

入口を入ると、いきなり民族衣装を着た4人のマネキンがお出迎えしてくれます。 その背後は落ち着いた雰囲気でホッ。

 

天井が高く、壁には絵画がたくさん掛かっていて、落ち着いた雰囲気です。

 

下左は借り物写真ですが、レストラン全体がよく見えるので。トイレに行ったら、トイレまでの通路にいくつか額がかかっていました。ハヴェウカ、1876年開業のようです。

 

大広場の昔の写真も掛かっていました。

 

試してみたかったポーランド料理のひとつ、ピエロギを注文しました。餃子のポーランド版といった感じです。焼いたのと茹でたのとどちらがいいか訊かれたので、茹でたのを頼みました。茹でたのもけっこう油っこかったので、こちらにしてよかったです。それとミックスサラダ、飲物はファンタオレンジ。

 

ピエロギの中味のフィリングはいろいろありますが、できるだけ多く試したかったので Mix of traditional Polish dumblings にしてみました。全部で10個。フィリングは肉、キャベツとマッシュルーム、ほうれん草、森のキノコ。切ってみたのが下左の写真です。どのフィリングもおいしくて、大満足

ここのデザートはチーズケーキがおススメとネットで読んでいたので、頼んでみました(下右)。こちらもおいしかったですが、さすがの私も、これで満腹に。

 

ファンタ7PLN(¥210)、ピエロギ22PLN(¥660)、ミックスサラダ8PLN(¥240)、チーズケーキ15PLN(¥450)で52PLN(¥1560)。チップ込みで60PLN(¥1800)払いました。ピエロギは初めてだったから比較の対象がないけれど、でもあのピエロギは、美味しすぎ・・・ ぜひまたクラクフに行って、絶対また食べるぞ~!

ハヴェウカを出たときは、午後8時を回っていました。雨に濡れた夜景が、それは綺麗でした。

 

 

本当に美しく、絵になる街です。最初の世界遺産に選ばれたのもナットク

 

≪ 6月5日の観光 おわり ≫

 

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4 コメント

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餃子 (チビまま)
2013-07-07 02:53:52
こんなタイトルでごめんなさい・・・。
でも、ポーランドの餃子も美味しそうですね!フィーリングが多彩で飽きなさそう。私も食べたいな~
そういえば、餃子って世界共通の食べ物だと思います。
日本や中国はもちろんこと、トルコやロシアでも家庭料理であるそうです。イタリアのラビオリもそうだし・・・でもやはりロシア料理にあるからポーランドにもあるのでしょうか??

それにしても本当にこうして実際に足跡を辿るだけでも(私はハナママゴンさんのブログでですが)当時のユダヤ人が受けた迫害のひどさを目の当たりにできますよね。今まで優秀なキャリアを持った人たちが、突然家畜以下の扱い、そして虐殺される・・・胸が詰まります。

どうか二度とこんな犯罪が起きませんように。

最後の写真、絵葉書みたいですね。ほんと、美しい街です。

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ポーランド料理 (ハナママゴン)
2013-07-08 03:04:59
なるほど、そういえば餃子もどきの料理、外国にも多々ありますよね。
人間考えることは同じということだしょうか。
ポーランドは周囲を多くの国に囲まれていますから、周辺諸国の料理が入り込み、ポーランド人の口に合うよう変化を加えられ、なかで定着したものがポーランド料理になったようです。
どの料理も日本人(特に肉・脂ものの好きな)の口に合いそうです。
欲をいえば、量を半分にして、半分のお値段で提供してほしい・・・ あれこれ試してみたいのに、一品でかなりお腹が一杯になってしまうので。 

ユダヤ人の迫害、・・・クラクフだけでも暗澹たる気持ちにさせられますが、アウシュヴィッツはまだこれから。
本当に、二度と起こって欲しくない最悪級の戦争犯罪です・・・

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Unknown (naoko)
2014-03-03 20:15:50
こんにちは。
はじめまして。

先日、クラクフへ旅行へ行ってきました。
一番の目的は、アウシュビッツ収容所。
カジミエ地区、プワショフ収容所跡地なども巡ってきました。

プワショフについては、あまり詳細な情報がなく、きちんとたどり着けるかどうか不安だったのですが、ハナママゴンさんのブログを見つけ、とても参考にさせてもらいました。

詳細で丁寧な説明と、たくさんの写真。
本当に参考になりました。

アイフォンにハナママゴンさんの地図などの画像を保存して、それを頼りに歩くという感じで。
おかげで、見たかったものを見つけることもできて、本当に感謝しています。


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コメントありがとうございます! (ハナママゴン)
2014-03-05 03:43:51
プワシュフ収容所跡地は、ほんと情報が少ないですよね。
それでも何とか行って来られたので、今後行く予定がある方の参考になればと思ってしつこく詳しく書きました。
なので、お役に立てて本当に嬉しいです。
わざわざお礼のコメントをいただき、こちらこそ感謝です。
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