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海外ツアー

2006-03-30 21:36:30 | Weblog
海外ツアーに参加して遺跡巡りや綺麗な景色を楽しむのはヒトトキの幸せだと思うが、も一つ物足りない。 イヤだイヤだと言っていたのに、現地に密着した生活が何故か懐かしい。 イランで収入が破格に良かったのに、元亭の2年契約を終えられなかったのは数々の問題があった。

砂漠の砂がテヘラン市まで舞い上がって、床はザラザラ、口の中にまで入ってくるような感じだった。 元亭が選んだ住居はイラン人では中流クラスが住む南地域、普通の外人達は砂風が少ない北の山の上の方に住んでいた。 私達のマンションは、床は石でその上に機械編みのペルシャ絨毯等を敷いていた。 ご当地特有の柄の無いほうきで床を掃くが、塵取りにはザッと砂が集まり、小さかった息子は転がって遊ぶので真っ黒けだった。

買ったばかりのインスタントコーヒーのフタを開けると、スプーンが入る位の穴がラップトップに開けてあって1~2匙取られている。 八百屋で言われた値段が高すぎると思ったから、現地の人が支払っている金額をよぅく見て、同じものを買って同じ額を押し付ける。 店のものは凄い勢いで怒って何か言ってるが、知らん顔してゆっくりと店を出る。 追ってこないから、この手で買い物をしていたけど、何とおつりを細工されて半分に切ったお札も混じっていた。 ホテルで切手を貼って手紙を出すように頼むと切手を剥がされて手紙を捨てられると聞いた。 店に昨日まであった卵や牛乳、バター、羊肉までが無くなり、久しぶりで卵が出たら、人が殺到で割れてしまう騒ぎ。 順番はまったく守らず、欲しいものを連呼して買う。 豚肉やお酒は外人だけは買えるが、店は開いているのに品物が無い日もあった。

健康優良で、歯の他は医者いらずだった私に怖ろしいほどの湿疹が出て、関節が痛み出し、熱まで出て、転々と英語の分かる病院を回っても検査ばっかりで原因不明。 山のような薬を出されて飲んでいたら、買い物中失神してしまった。 もう薬はイヤだと病院にも行かないで、ふて寝をしていたら1ヶ月ぐらいで治ってしまった。 看護婦の従姉妹にこの話をしたら、膠原病っぽいね、と言われたが今でも分からない。 その後もインフルエンザにかかったり、美人薄命かと思った。

息子に言葉を覚えてもらおうとイラン人の保育園に入れたが、生まれつき他人に預けられ慣れた筈なのに、激しく抵抗した。困ってインド人経営のインターナショナル保育園に預けたら、喜んで通ったけど、そこは保育料が高いのに「本日都合により休業」が多く、イヤなら来るなという感じだったので、やめさせて、紹介されたインド人のお婆ちゃんベビーシッターにお願いした。 英語のできるインド人はイランにたくさん住んでいた。 当時のイラン女性は砂漠でテント生活が根だったから、ハウスワークができるほどの能力のある人は、急速な繁栄で増え続ける会社で働けた。 メイドさんを雇ったが、一人目は「今日でお仕舞い!」とニコニコされて行ってしまった。 二人目は、彼女が帰ると冷蔵庫の中身がドンっと減るので、お断りした。 インドバーちゃんは優しくて自分のお孫ちゃん達も一緒に見ているので、息子も嫌がらなかった。 でもこれから控えているのは小学校。 アメリカ人の子供達は一頃の日本でのアメリカンスクールのように捨て鉢な雰囲気が漂っていた。 友人の14歳の息子がドラッグに手を出して、母親と伴に国外追放になった。

元亭の仕事はイラン軍兵士に英語を教えるのだが、最初の大仕事は、まるで小さな子供に対するように声を枯らして静かにさせる。 懲罰は厳しいのに、かい潜ってイタズラをするので参った、と苦笑していた。 音声言語の研究も秘密警察に目をつけられ、少数民族であった研究対象者が迷惑を蒙った。 家の周りをうろつかれて、イヤな思いをした。

日本の会社の語学研修所に採用が決まって、イランを後にしたのは革命2年前で、残っていた友人達は脱出するのに大変な苦労した。 私達一家は危機一髪ちょっと前に、タイで休息をして日本に向かった。 そして美味しい料理も豪華なホテルも縁のない引越し中心の海外ツアーがやっと終わった。

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