村上春樹を英語で読む

なぜ、こう訳されているのかを考える。

「共感を抱ける」は英語で?

2017-02-14 13:00:39 | 村上春樹を英語で読む
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』に次のような箇所がある。下はその英訳である。

才能の質量とか、業績のレベルとか、器量の大きさとか、有名の度合いとか、そういう話はとりあえず抜きにして、ただ「生き方の傾向として、共感を抱けるところがある」ということだ。
Questions of talent or productivity or fame aside, what I mean here is that I can feel a sense of identity in the way we live our lives.

「共感を抱ける」がcan feel a sense of identityと訳されている。


「できるだけ崩さない」は英語で?

2017-02-14 12:49:30 | 村上春樹を英語で読む
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』に次のような箇所がある。下はその英訳である。

僕としては小澤さんの話を聞くにあたっても、その姿勢をできるだけ崩さないことを心がけた。
I tried my best to preserve this attitude when listening to what Maestro Ozawa had to say.

「できるだけ崩さないことを心がけた」がtried my best to preserveと訳されている。



「日本語の文章」がstandard written Japanese

2017-02-14 12:48:00 | 村上春樹を英語で読む
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』に次のような箇所がある。下はその英訳である。

たしかに小澤さんには「小澤語」みたいなものがあって、それを日本語の文章に換えていくのはなかなか簡単ではない。
It’s true, the maestro does speak his own special brand of Ozawa-ese, which is not always easy to convert to standard written Japanese.

「日本語の文章」がstandard written Japanese(標準的書き言葉としての日本語)と訳され、standardが追加されている。「小澤語」は、日本語の一種ではある。

「生き生きとした」は「顔」だけ?

2017-02-14 12:32:44 | 村上春樹を英語で読む
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』に次のような箇所がある。下はその英訳である。

もちろん体調は決して万全ではなかったのだが、音楽の話をしていると小澤さんはなんとなく生き生きとした顔つきになった。
As weakened as he was, he took on a new vitality whenever the topis turned to music.

「生き生きとした顔つきになった」がtook on a new vitalityと訳され、英訳では「顔」に限定されていない。

二種の「もちろん」?

2017-02-14 12:31:51 | 村上春樹を英語で読む
『小澤征爾さんと、音楽について話をする』に次のような箇所がある。下はその英訳である。

もちろん違っているところもたくさんある。たとえば僕には小澤さんのような、自然に人なつっこいところはない。もちろん僕にだってある程度世間的な好奇心はあるのだが、それはなかなか表には出てこない。
Of course, we are also different in many ways. For example, I lack his esay sociability. I do have my own sort of curiosity about other people, but in my case it rarely comes to the surface.

最初の「もちろん」はOf courseと訳されているが、第二文の頭の「もちろん」はdo haveと強調のdoを用いて訳されている。