村上春樹の一人称小説の英訳において、語り手「僕」は、登場人物の「僕」とその他の登場人物の舞台上での演技を、外から眺めて語っているのではないか、というのが本ブログの最初の記事で扱ったことであった。つまり、「語り手の僕」と「登場人物の僕」は、同じ人物ではあるが、本人と分身のような関係になっているのではないか、ということである。
一人称小説『国境の南、太陽の西』に次のような箇所がある。下はその英訳である。
(1)僕は用心して十分ばかりその近くをぶらぶらとして時間を潰してから、その喫茶店に入った。
I killed ten minutes or so sauntering back and forth, then ducked into the shop.
「用心して」が訳出されていない。これは、小説の登場人物「僕」の気持ちを表しているのであるが、語り手の「僕」にはわからないので、訳出されていないのではないか。
たまたまこの例の場合だけそれが訳出されていないのではない。以下類例を列挙する。
(2)僕はうっかり彼女を追い越したりしないように注意しながら、彼女のあとをずっとつけていった。
Taking care not to overtake her, I followed her for a long time.
「うっかり」が訳出されていない。
(3)そして手もとにあった新聞を手に取ってそれに目を通すふりをしながら、それとなく彼女の様子を窺っていた。
I took up a newspaper that was lying there and, pretending to read, watched what she was doing.
「それとなく」が訳出されていない。
(4)仕事は案の定退屈なものだった。
The job was a total bore.
「案の定」が訳出されていない。
(5)僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。
I needed her, and she needed me.
「たぶん」が訳出されていない。
(6)でも僕らはその十五枚ほどのレコードを何度も何度も繰り返して聴いた。だから僕はそれらの音楽を今でも、それこそ隅から隅までくっきりと思い出すことができる。
We listened to those fifteen records a thousand times, and even today I can recall the music-every single note.
「くっきりと」が訳出されていない。
(7)そこで僕は正式なクロールのスタイルを身につけ、週に二回本格的なラップ・スイミングをやるようになった。そのおかげで肩と胸があっという間に大きくなり、筋肉は引き締まった。
I mastered the crawl and went twice a week for lap swimming. My shoulders and chest filled out, and my muscles grew strong and taut
「そのおかげで」が訳出されていない。
(8)食べることのできない食品のいくぶん長いリストを持っていた。
We both had a long list of foods we didn't want to eat.
「いくぶん」が訳出されていない。
(9)中学校に入ると、僕はふとしたきっかけで家の近所にあるスイミング・スタールに通うようになった。
In junior high I started to go to a swimming school near my house.
「ふとしたきっかけで」が訳出されていない。
(10)でも僕は彼女の顔だちの中にはっきりと「自分のためのもの」を感じることができた。
But there was something in her face that was meant for me alone.
「はっきりと」が訳出されていない。
(11)そして手もとにあった新聞を手に取ってそれに目を通すふりをしながら、それとなく彼女の様子を窺っていた。
I took up a newspaper that was lying there and, pretending to read, watched what she was doing.
「それとなく」が訳出されていない。
(12)「あなたの家のお母さんとお父さんは仲がいいの?」
僕はそれにはすぐに答えられなかった。考えたこともなかったからだ。
"Do your mother and father get along all right?"
I couldn't answer right away. I'd never thought about it before.
「から」が訳出されていない。次例は類例である。
(13)今にも雨が降りだしそうな天気だったから、屋上には僕らの他には誰もいなかった。
It looked like it might rain at any minute. We were all alone.
「から」が訳出されていない。「屋上には僕らの他には誰もいなかった」の原因が「今にも雨が降りだしそうな天気だったから」というのは語り手にはわからないのではないか。
(14)ナット・キング・コールが『国境の南』を歌っているのが遠くの方から聞こえた。
Off in the distance, Nat King Cole was singing "South of the Border."
「聞こえた」が訳出されていない。英訳は外から分かることを書いている。語り手は、他人(この場合は登場人物の「僕」ではあるが)の立場に立って、外界を理解しない。
以上の例は、村上の一人称小説の英訳では、語り手の「僕」には、登場人物の「僕」の気持ちはわからないのではないか、という仮説を立証するためのものである。
(この項続く)
一人称小説『国境の南、太陽の西』に次のような箇所がある。下はその英訳である。
(1)僕は用心して十分ばかりその近くをぶらぶらとして時間を潰してから、その喫茶店に入った。
I killed ten minutes or so sauntering back and forth, then ducked into the shop.
「用心して」が訳出されていない。これは、小説の登場人物「僕」の気持ちを表しているのであるが、語り手の「僕」にはわからないので、訳出されていないのではないか。
たまたまこの例の場合だけそれが訳出されていないのではない。以下類例を列挙する。
(2)僕はうっかり彼女を追い越したりしないように注意しながら、彼女のあとをずっとつけていった。
Taking care not to overtake her, I followed her for a long time.
「うっかり」が訳出されていない。
(3)そして手もとにあった新聞を手に取ってそれに目を通すふりをしながら、それとなく彼女の様子を窺っていた。
I took up a newspaper that was lying there and, pretending to read, watched what she was doing.
「それとなく」が訳出されていない。
(4)仕事は案の定退屈なものだった。
The job was a total bore.
「案の定」が訳出されていない。
(5)僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。
I needed her, and she needed me.
「たぶん」が訳出されていない。
(6)でも僕らはその十五枚ほどのレコードを何度も何度も繰り返して聴いた。だから僕はそれらの音楽を今でも、それこそ隅から隅までくっきりと思い出すことができる。
We listened to those fifteen records a thousand times, and even today I can recall the music-every single note.
「くっきりと」が訳出されていない。
(7)そこで僕は正式なクロールのスタイルを身につけ、週に二回本格的なラップ・スイミングをやるようになった。そのおかげで肩と胸があっという間に大きくなり、筋肉は引き締まった。
I mastered the crawl and went twice a week for lap swimming. My shoulders and chest filled out, and my muscles grew strong and taut
「そのおかげで」が訳出されていない。
(8)食べることのできない食品のいくぶん長いリストを持っていた。
We both had a long list of foods we didn't want to eat.
「いくぶん」が訳出されていない。
(9)中学校に入ると、僕はふとしたきっかけで家の近所にあるスイミング・スタールに通うようになった。
In junior high I started to go to a swimming school near my house.
「ふとしたきっかけで」が訳出されていない。
(10)でも僕は彼女の顔だちの中にはっきりと「自分のためのもの」を感じることができた。
But there was something in her face that was meant for me alone.
「はっきりと」が訳出されていない。
(11)そして手もとにあった新聞を手に取ってそれに目を通すふりをしながら、それとなく彼女の様子を窺っていた。
I took up a newspaper that was lying there and, pretending to read, watched what she was doing.
「それとなく」が訳出されていない。
(12)「あなたの家のお母さんとお父さんは仲がいいの?」
僕はそれにはすぐに答えられなかった。考えたこともなかったからだ。
"Do your mother and father get along all right?"
I couldn't answer right away. I'd never thought about it before.
「から」が訳出されていない。次例は類例である。
(13)今にも雨が降りだしそうな天気だったから、屋上には僕らの他には誰もいなかった。
It looked like it might rain at any minute. We were all alone.
「から」が訳出されていない。「屋上には僕らの他には誰もいなかった」の原因が「今にも雨が降りだしそうな天気だったから」というのは語り手にはわからないのではないか。
(14)ナット・キング・コールが『国境の南』を歌っているのが遠くの方から聞こえた。
Off in the distance, Nat King Cole was singing "South of the Border."
「聞こえた」が訳出されていない。英訳は外から分かることを書いている。語り手は、他人(この場合は登場人物の「僕」ではあるが)の立場に立って、外界を理解しない。
以上の例は、村上の一人称小説の英訳では、語り手の「僕」には、登場人物の「僕」の気持ちはわからないのではないか、という仮説を立証するためのものである。
(この項続く)