村上春樹を英語で読む

なぜ、こう訳されているのかを考える。

語り手の「僕」と登場人物の「僕」―他人の気持ちはわからない?

2015-03-31 19:49:55 | 村上春樹を英語で読む
村上春樹の一人称小説の英訳において、語り手「僕」は、登場人物の「僕」とその他の登場人物の舞台上での演技を、外から眺めて語っているのではないか、というのが本ブログの最初の記事で扱ったことであった。つまり、「語り手の僕」と「登場人物の僕」は、同じ人物ではあるが、本人と分身のような関係になっているのではないか、ということである。
一人称小説『国境の南、太陽の西』に次のような箇所がある。下はその英訳である。

(1)僕は用心して十分ばかりその近くをぶらぶらとして時間を潰してから、その喫茶店に入った。
I killed ten minutes or so sauntering back and forth, then ducked into the shop.

「用心して」が訳出されていない。これは、小説の登場人物「僕」の気持ちを表しているのであるが、語り手の「僕」にはわからないので、訳出されていないのではないか。
たまたまこの例の場合だけそれが訳出されていないのではない。以下類例を列挙する。

(2)僕はうっかり彼女を追い越したりしないように注意しながら、彼女のあとをずっとつけていった。
Taking care not to overtake her, I followed her for a long time.
「うっかり」が訳出されていない。

(3)そして手もとにあった新聞を手に取ってそれに目を通すふりをしながら、それとなく彼女の様子を窺っていた。
I took up a newspaper that was lying there and, pretending to read, watched what she was doing.
「それとなく」が訳出されていない。

(4)仕事は案の定退屈なものだった。
The job was a total bore.
「案の定」が訳出されていない。

(5)僕は彼女を必要としていたし、彼女だってたぶん僕を必要としていた。
I needed her, and she needed me.
「たぶん」が訳出されていない。

(6)でも僕らはその十五枚ほどのレコードを何度も何度も繰り返して聴いた。だから僕はそれらの音楽を今でも、それこそ隅から隅までくっきりと思い出すことができる。
We listened to those fifteen records a thousand times, and even today I can recall the music-every single note.
「くっきりと」が訳出されていない。

(7)そこで僕は正式なクロールのスタイルを身につけ、週に二回本格的なラップ・スイミングをやるようになった。そのおかげで肩と胸があっという間に大きくなり、筋肉は引き締まった。
I mastered the crawl and went twice a week for lap swimming. My shoulders and chest filled out, and my muscles grew strong and taut
「そのおかげで」が訳出されていない。

(8)食べることのできない食品のいくぶん長いリストを持っていた。
We both had a long list of foods we didn't want to eat.
「いくぶん」が訳出されていない。

(9)中学校に入ると、僕はふとしたきっかけで家の近所にあるスイミング・スタールに通うようになった。
In junior high I started to go to a swimming school near my house.
「ふとしたきっかけで」が訳出されていない。

(10)でも僕は彼女の顔だちの中にはっきりと「自分のためのもの」を感じることができた。
But there was something in her face that was meant for me alone.
「はっきりと」が訳出されていない。

(11)そして手もとにあった新聞を手に取ってそれに目を通すふりをしながら、それとなく彼女の様子を窺っていた。
I took up a newspaper that was lying there and, pretending to read, watched what she was doing.
「それとなく」が訳出されていない。

(12)「あなたの家のお母さんとお父さんは仲がいいの?」
 僕はそれにはすぐに答えられなかった。考えたこともなかったからだ。
"Do your mother and father get along all right?"
I couldn't answer right away. I'd never thought about it before.

「から」が訳出されていない。次例は類例である。

(13)今にも雨が降りだしそうな天気だったから、屋上には僕らの他には誰もいなかった。
It looked like it might rain at any minute. We were all alone.

「から」が訳出されていない。「屋上には僕らの他には誰もいなかった」の原因が「今にも雨が降りだしそうな天気だったから」というのは語り手にはわからないのではないか。

(14)ナット・キング・コールが『国境の南』を歌っているのが遠くの方から聞こえた。
Off in the distance, Nat King Cole was singing "South of the Border."

「聞こえた」が訳出されていない。英訳は外から分かることを書いている。語り手は、他人(この場合は登場人物の「僕」ではあるが)の立場に立って、外界を理解しない。


以上の例は、村上の一人称小説の英訳では、語り手の「僕」には、登場人物の「僕」の気持ちはわからないのではないか、という仮説を立証するためのものである。
 (この項続く)


「アンティーク」と「アンチ巨人」―空間から時間へー

2015-03-31 18:16:33 | ことばの意味を実感する
「アンチ巨人」という言葉があります。その他の球団にはあまり「アンチ(anti)」は付きませんから、「巨人軍」の偉大さが、言語学的にも証明されています。これを日本語にすれば「反・巨人」です。つまり「アンチ(anti)」はこの場合、「反、相対する」の意味です。
 「アンティーク」と言えば「骨董品」です。英語のantiqueの頭のantiはこの「アンチ」なのです。そして、続くqueの部分は「見る」の意味なのです。ちなみに、ポルトガル語ではantiguidadeで、後半のguidadeは英語のguideと同系で、queと同系ではありませんが、同じく「見る」の意味です。つまり、antiqueとantiguidadeは、その発想においては同じ語と言えます。しかし、どう考えれば、「反」+「見る」で「骨董品」になるのでしょう。
 これを考える際にヒントになるのはancient(昔の)です。頭のanciの部分は少し変化していますがantiと同系です。それに、これも少し形が変わっていますが、-an(…の性質の)という語尾が付いて、「前の」の意味になります。つまり、この場合のantiは「時間的に前」なのですが、「空間的に前」であれば、当然「相(あい)対する」ことになります。そこから「アンチ巨人」の「アンチ」が出てくるのです。つまり、antiqueの方は「(時間的に)前」であるわけです。そして、そこから「昔のものに見える」となり、「骨董品」を指すわけです。
 ちなみに、英語のendもこのantiと同系で、「(前に見える)末端」です。英語のendは今では「終了」という意味で用いられることが多いようです。しかし、例えば、一時間の映画が「終了」するとしたら、その時点は時間の矢の「先端」であるはずです。ということで、endは「終わり」になったり、これから先の「目標」になったりするのです。ここで、前回扱ったの「末」の字を思い出して下さい。共通点が見出せるはずです。
 このように、「空間関係」が「時間関係」へと変化するのは、人間言語に共通と思われます。英語のduringは「…の間」を表す前置詞ですが、この語は英語のtreeと同系かもしれません。日本語で「木」を表すtreeはもともと「堅いもの」の意味で、堅いものは変化しない。その「変化がない」ことが「継続」を表し、「…の間」を表すようになるというわけです。ちなみ「耐える、我慢する」の意味のendureの後半のdureもduringと同系です。「じっと動かない」様子が「耐える」につながるのです。
 英語のquietは「静かな」の意味ですが、この語が英語の接続詞while(…の間に)と同系です。こちらは「静かな状態」を「間(あいだ)」と捕らえたのです。ちなみに、漢字の「間」に「しずか」の訓があるのも同じ発想がもとにあるものと思われます。英語のstillも「静かな」を表しますが、「動いていない」ことから「変化がない」→「まだ、なお」となりました。「まだ…している」とは、変化がない状況を描写するものだからです。
 また、源氏物語に次のような箇所があります。

おぼし出づること多くて、靭負(ゆげひ)の命婦(みやうぶ)といふをつかはす。夕月
夜のをかしきほどに、いだしたてさせ給ひて、やがてながめおはします。(桐壺)

 最後の「やがてながめおはします」の部分を山口明穂は「そのまま外を眺めていらっしゃる」と現代語訳しています。つまり、現代語においては、「そのうちに、まもなく」の意味である「やがて」が、古文においては「そのまま」という状態を表しています。「変化のない状態」を表す語が時間関係を表す語に変化しているのです。

「本末転倒」は何が「転倒」しているのかー上下関係についてー

2015-03-31 18:09:23 | ことばの意味を実感する
漢字「上」の反対を表す字は「下」です。「上、(下)」は手のひらの上(または下)に点をつけて、手のひらの上(または下)を示す字です。このような漢字の成り立ちを「指事」と言います。「本」の字も「指事」ですが、では「本」の反対の字は何でしょう。この質問に対しては、ほとんどの人が答えられません。「本」という字は「木」の下の方に横棒を一本引いたもので、「木」の下の方を指しているのです。つまり「根本」の「本(もと)」です。では、逆に「木」の上の方に横棒を引くとどうなるでしょうか。「末」ができあがります。つまり、「本」の反対は「末」なのです。「末」は「木の上の方」を指す字なのです。ちなみに、「本」の字が英語で言えばbookを指すのは、この字本来の意味とは関係ありません。「本」の字が英語で言えばbookを指すのは、bookを「一本」などど「本」で数えたからのようです。ちなみに漢字の本家の中国語でbookは「書」です。
 普通の日本語使用者にとって、「本」の反対の字が「末」であることは意外に思えるようです。それにもかかわらず、私たちは「本末転倒」という四字熟語を正しく使っています。ちょうど「オー・ド・トワレ」は「オー」や「トワレ」が何のことか分からなくても、全体として何のことか分かっているのと同じです。逆にtoilet waterは、それぞれの構成要素が単独で何を指すか、カタカナ語を通してなまじ分かっているために、全体が何を指すかが分からなくなっているのです。
 「本」と「末」が反対の意味を表す字だからこそ、この表現が成り立つのです。しかし、「本」は「根本」の「本」ですから、「木」の下の方であると理解できますが、「末」にも「末席」「末っ子」のように、「下」の方のイメージがあります。例えば「末っ子」は、時間の流れを矢に例えたとすると最先端に位置するはずなのですが、家系図などにおいては一番下に来るので、どうしても「下」のイメージが伴います。しかし、もともとは「木の上の方」という意味だったのです。つまり、「木の(枝の)末端」です。このように、今の私たちにとって、「本末」は必ずしも「転倒」していないのです。
 次に英語の場合を考えてみましょう。英語のupは「上の方へ」の意味です。しかし、この語と同系の語にsubmarine(潜水艦)などのsubがあります。こちらは普通は「下の」の意味であると思われています。「海の下」の意味です。つまり、「上」と「下」を表す語が同系なのです。これも「本末」と同様、意外に思う人が多いのですが、実は「下」の方が元で、下にあるものは上がるので、upの意味が出てきました。例えば、井戸は地下からずっと上がってきた(up)ところで「開」の状態になりますが、それがopenです。このopenもupと同系です。カタカナ語としても「アップ」と「オープン」で、なんとなく似ています。
 英語のsublimeには、その訳語が「崇高な」で「高」が入っていることからも分かるように、「上へ」のイメージがあります。ところが、最近では日本語にも「サブリミナル(効果)」などと入っているsublime と同系のsubliminalは「意識下の」です。「下」のイメージです。頭のsubは、上でお話しした通りで、limeは「境界線」です。英語のlimit(限界)と同系です。語としての構成要素は同じでも、sublimeの方は「境界線(限界点)の方へ下から上がっていく」イメージの語で、subliminalは「境界線の下にいる」イメージの語です。語頭ののsubが「下から上への動き」を表しているsublimeは、ラテン語から綿々と続いている語ですが、subliminalの方は最近(と言っても百数十年前ですが)作られた語であることがわかります。
 さて、一般的に「上」のイメージのあるupが「(下から)上へ」であったわけですが、通例upの反対語と思われているdownはどうでしょうか。海岸の「砂丘」を英語でduneと言います。このduneとdownはもともと同じ語です。カタカナで表すと「デューン」と「ダウン」です。なんとなく似ています。古英語においてdownは「丘」でした。「丘の上」にあるものは「下」へ行けますから、downは「下へ」の意味になりました。これも上下関係がよくわからない例です。ちなみにdowntownは「都市周辺の高台(down)からより低い都心(town)へ」と「上下関係」ができていますが、townはdownと同系で、「(丘から降りてきて低いところにある)囲み地」の意味になり、さらに「町」になったのです。発音をカタカナで表せば、「ダウン」と「タウン」ですが、日本語でも「誰」の字を「だれ」と濁音で読んだり、古風な感じですが、「たれ」と清音で読んだりするのと同じです。もともと同じ語であることが実感できるでしょう。
 続いて、「本末転倒」の「転倒」です。例えば、走っていて「転倒」するとは、「倒れる、こける」の意味です。しかし、「本末転倒」の「転倒」は、その意味で「倒れている」のではありません。「倒」の字の真ん中に見える「至」は「矢の至る所」を表し、「倒」は「引き返すこと」を意味します。つまり、英語のreturnのような語感です。そこで、「本末転倒」「主客転倒」などの「転倒」は「たおれる」の意味ではなく、「くるっと回って、もと来た道を戻る」ことを表しています。そこで、「本末」が逆になることを表すのです。


「巣」と「大聖堂」

2015-03-31 18:03:14 | ことばの意味を実感する
鳥などの「巣」を英語でnestと言います。頭のneは「下へ」の意味で、残るstは「坐る」で、今の英語で言うとsit downになり、「(たとえば鳥の)坐るところ」であると考えられています。ちなみに、「オランダ」は英語でthe Netherlandsですが、Netherがneと同系で、「下の土地」、つまり、「低地」の意味です。
 「大聖堂」は英語でcathedralです。「カテドラル」というカタカナ語で知っている人もいるかもしれません。本来、ラテン語のecclesia cathedralisを英語にしたcathedral churchのchurchが略されたものです。頭のcatは「下へ」で、hedralの部分は上のnestのstと同系で、「坐る」です。すると、cathedralもsit downになります。こちらは「主教の坐るところ」です。そこで「主教座聖堂」などの訳語もあります。
 頭がhで始まるhedralとsで始まるstが同系とは不思議に思われるかもしれません。おなじみの語で説明しましょう。英語で「六角形」はhexagonです。最近(と言ってももう終了しているようですが)では、「クイズ!ヘキサゴン」というテレビ番組で知っている人もいるでしょう。語頭のhexが「六」です。頭のhをsに変えて、母音を変えるとsix(6)です。「ヘルペス」という病気があります。英語でherpesです。この病気は皮膚の下を何かが這ったようになるのでこの名があります。同じく「這う」ものに「蛇」がいます。「蛇」は英語ではsnakeとも言いますが、特に大きく有毒なものをserpentと言います。この語とherpesが同系です。ここでもhとsが入れ替わっています。
 ということで、nest(巣)とcathedral(大聖堂)は、言葉の意味としては同じだと言うことがおわかりいただけたとおもいます。


「ブレーク(break)」の意味

2015-03-31 17:55:20 | ことばの意味を実感する
「(引っ張った結果)糸が切れた」は英語ではThe string was brokenで、私たちが「切る」という日本語から思い出すcutは用いません。それは、英語のcutは「刃物を用いて切る」ことを表すからです。
 では、英語のbreak とはどのような現象を表す語なのでしょう。『ウィズダム英和辞典』には、原義は「(打撃を与えて)ばらばらにする[なる]」とあります。石器を作るために、大きな石を「砕いて、バラバラにする」というのが原初的イメージでしょうか。しかし、それでは上のThe string was brokenは説明できません。また、「自然破壊」などという場合の「破壊する」も、比喩的ですが、「自然」を「バラバラにする」といった感じがありますから、breakになりそうな気がします。しかし、この場合の「破壊する」はdestroyです。
そこで、やや抽象的に考えて、breakの基本義を、「均質な連続体を、そうでないものにする」と考えてみましょう。つまり、ピンと張った一本の「連続体」である糸を、もとの「連続体」ではなくするのです。原初的イメージの例として挙がった「石」や「岩」のような立体も、やや程度差はありますが、一応「均質な連続体」です。
 「(水やガラスが光を)屈折させる」を表すrefractという語があります。頭のreは「元へ」で、fractはbreakと同系語です。間にfragile(壊れやすい)を入れると繋がりが見えてくるでしょうか。そこで、refractはbreak backの意味であると言えます。つまり、光線が「屈折」することもbreakしているのです。そして、もちろん屈折しても、光は物理的には「連続体」であり続けていると考えられますが、一本の直線ではなくなっているので、「連続体」ではなくなったとも考えられるでしょう。そこで、「骨を折る」では、必ずしもバラバラになったわけではありませんが、breakが用いられます。
その「連続体」は「糸」、「光」、「骨」のような「線状」をなすものだけではなく、「面状」のものの場合もあります。Her face broke the surface of the water.(彼女の顔が水面に現れた)『ウィズダム英和辞典』などがその例になります。ただし、この場合は「表面」としての「面」で、「紙」のような状態のものは、「均質な連続体」ですが、「紙を破る」は英語でbreak paperとは言わず、tearを用います。
 それは、「紙状」のものの原初的イメージが、動物の体から「引き剥がした皮」で、その「引き剥がす」動作が英語でtearだからです。ちなみに、「皮膚病学」をdermatologyと言いますが、頭のdermaが「皮膚」で、tearと同系です。また、「飾り布」を指すdraperyも同系ではないかと考えられています。つまり、今の私たちにとっては、「引き剥がした皮」が「紙」のようであると思えますが、歴史的には逆で、「紙」が「引き剥がした皮」のようなものなのです。そこで、それを「破る」はtearなのです。「布(cloth)」も、paper と同様ですから、tearを用いますが、その場合、日本語では、「破る」も用いられますが、「裂く」とも言います。「びりびり」という音が「破る」で、「さー」という音が「裂く」のイメージでしょう。そう言えば「裂く(さく)」は「さ」で始まっています。ちなみに、「花が咲く」の「咲く」も「花弁が裂けるようにして広がる」ので、「さく」のです。
では、break the skinという英語がありますが、これはどういう意味でしょう。この場合のskinは、体の表面の「皮膚」であって、引き剥がされた「紙状」のものではありません。また、日本語訳は「皮膚を傷つける」になり、「皮膚を破る」にはなりません。
 「破る」という日本語は「「ものの一部にすきを作り、そこから全体を破壊することをいう」と白川静『字訓』にあります。そこで、日本語では、比喩的に「ジャイアンツを破る」などと、「相手をうち負かす」の意味にもなります。
 また、時間的な「連続体」の場合にはbreak the silence(沈黙を破る)などの例があります。比喩的な用法は、基本義から遠ざかっている場合が多いので、説明が難しくなりますが、一例として「約束を破る」を考えてみましょう。英語でbreak a promiseです。この場合も「連続体をそうでないものにする」で説明できます。反対の「約束を守る」はkeep a promiseです。Keepには「(ある状態を)保つ」の意味があります。つまり、keep a promiseとは、実際に行動に移すまでpromiseを「保持し続ける」ことを表すのです。そこで、keepは「連続体」をなすと考えられますので、反対はbreakになるのです。
 さて、上で、「自然破壊」の「破壊」はdestroyである、と言いましたが、この語の頭のdeは「反対」を表し、残るstoryの部分は、現代英語のstructure(構造体)と同系ですから、destroyは「構造をなしているものをそうでなくする」の基本義を持つと考えられます。そこで、「線状」「面状」のものは当然ですが、均質な立体である「石」や「岩」も「構造体」ではありませんのでdestroyできないのです。