二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

終戦62年と柳澤恭雄氏の死

2007-08-28 19:13:34 | ニュースの見方
私が久間事件シリーズの前回分記事{▲久間事件・(9)・海外の反応}、を書いていた日、
   2007/08/23に、柳澤恭雄さん(98)が、老衰でお亡くなりになった。

1945/08/15の未明、NHKの内幸町放送局に乗り込んできた
   陸軍少佐ら武装将兵が、玉音放送を中止し、徹底抗戦を
   訴える放送をさせるように要求した
     (▲出逢いの問題(5)一方通行)。

このとき、柳澤氏はNHKの報道部副部長だったが、これを拒み、
   拳銃を付き付けての強要にも屈せず、拒否しぬいた。

この日正午から天皇自らの重大放送があることを、早朝から
   予告する為に、午前5時前に館野守男アナウンサーが
   マイクの前で、待機していた。
其処に武装した4人の将兵が乱入し、「我々に放送させろ」
   と恫喝した。
館野氏は、丁度発令されていた空襲警報を口実にし、
   警報下では東部軍の許可がなければ電波が出せぬ
   と嘘を言い、抵抗した。
やがて反乱将兵は投稿し、玉音放送の予告は
   2時間以上遅れたが、無事放送できた。

このために、終戦が実現し、
   無事に日本の戦後が始まった、のであった。


いや、正確にはそれでも尚、例えば、(前にも書いているが)、私の幼少時からの親友O君などは、特攻機に乗って出撃して行ったのであった。
然し、天皇意思の周知によって、大勢としては日本軍に戦争を止めさせ、本土決戦が避けられて、日本民族が生き残れた。
その決め手になったのは、柳澤氏、館野氏が頑張り通して、玉音放送を流した事であった。

私が前回の記事を書いていた時間に、柳澤氏が昇天されたと知って、私は感慨深いものを感じた。

なお、館野氏は、1941/12/8の太平洋戦争開戦の臨時ニュースを放送したアナウンサーでもあった。
年配の人には明瞭に記憶に残っている筈の、「臨時ニュースを申上げます。・・・」という、あの朝の放送である。
館野氏は2002/2/28に、87歳で亡くなっている。

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終戦へ向けての懸命な努力には、この柳澤氏、館野氏も含めて、昭和天皇ほか、非常に多くの誠実な人々の、決死の働きがあった。
処で、その様にして獲得した戦後の平和は、どの様に使われ、どの様な価値を持つたのだろう。

「私が前回の記事を書いていた時間に・・・」、と、拘って書いたのは、このことに関係する。
柳澤氏は日本放送協会に入った1938年に既に、当時の協会のありように疑問を持っていた。
その後の人生で、「政府発表を伝達するのでなく、自主取材、現地素材、による報道」を志し、戦後も、「放送記者」という言葉を作り出し、フリーの報道記者を集めて、日本電波ニュース社を設立して活躍した。  しかし、その半世紀の挙句に、
現在の「記者魂をすっかり失ったマスコミ」の姿を、見ることになった。

同じ様な思いを抱いて生きた、開高健も、城山三郎も相前後して亡くなったが、柳澤氏の場合は、特に、自身が命懸けで実現した終戦、それにより獲得された戦後の平和である。 
私が、現在のマスコミの姿を何度も批判し書き綴らざるを得なかった、久間事件シリーズの前回分記事を書いているタイミングで昇天することになった柳澤氏の場合は、特に、その無念に想いが行く。

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 ▲戦後四半世紀しか経っていない、大学紛争の時に、既に、
 「戦争中に何故お前は、戦争反対を唱えて運動をしなかったか」と、教授を吊し上げて得意になっている学生がいた{▲[一戦中派の感慨}、という。 (それは、クラスの中でも特別に出来の悪い学生であったらしいが)。

 ▲今から10年以上も前に、半藤一利氏が或る女子大の教壇から、「日本と戦ってない国はどれか」、と尋ねたら、アメリカを挙げた学生が26%居たそうだ。

 ▲平和の半世紀を過ごした21世紀の現在、日本人の約35%は、日米が戦ったことを知らないという。

 ▲それだから現在、「原爆など落さなくても、日本が負けることは決まっていた」、等の気楽な発言が出るのも無理はない。

「そうではない。 大変な努力を要したのだ」、と云うために、今回のシリーズを含めて、私のブログでは何度か書いて来た。

現在の地球上の多くの土地のように内戦や、テロで荒れることもなく、日本では平和に暮らせている事は、一応、嬉しい事である。
但し、(その代償ということではない筈だが)、多くの伝統的な日本の良さが失われてしまったのは、残念である。

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「ノーキョーという言葉を憶えるまでは、日本は、世界で尊敬される国であった」、というのは、その端的な表現である。
明治の初期に文明先進国に行った多くの日本人が、ちょんまげ・袴の異様なスタイルで出掛けても、その訪問国で大層尊敬の念を集めた話が、沢山ある。
そのため、鎖国をやめ、開国して僅か40年後には、世界の一等国として処遇されることになった。


昔の日本には、夫々の地域・職域で伝えてきた、情緒とか、気配りとか、精神的な高さがあった。
例えば、江戸っ子はユーモアを解しない『野暮』を最も軽蔑したが、それは一つの文化であった。
京、大阪にも、地方にも、土地土地で、伝統が誇りを以って伝えられてきた。
それらが戦後の半世紀で、すっかり消滅した。

1940年に中学校進学率は20%であったが、1972には大學進学率が20%を越し、その頃、日本の大学の数はヨーロッパ全体の大學の数を越していた。
この頃から、大学を卒業しても四則演算が出来ない者が現われ、欧米人は「ノーキョーという言葉」を憶えた。

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最近、ある中年のご婦人Aさんを、私がからかって、「貴女のような、お若い方はご存じないでしょうが、私の若い時に米国との戦争中に・・」、と話を始めたら、相手の方が一枚上手で、
「へえー。日本が米国と戦争したこと有るの?。知らなかったわ。それで、どちらが勝ったの」、
とやられて、一瞬、詰まり、やられた!、と思った。 からかわれたのは、私の方であった。

落語には、この手のからかいがよくあり、昔の人々はそれを楽しみ、それを解さない人を、『野暮』、と呼んだ。
現在では、テレビのお笑い番組では、下らない駄洒落を言っては、相方の頭を手で叩く様な、芸ともいえない見世物で売る連中が幅を利かせている。

私の地元にいろいろな成人サークルの会があり、8月は終戦の思いに連なるので、その様な話をする機会が多くあった。
そこで、このAさんの話を披露すると、驚いた事に、10人の内9人までが、「まあ、何て物知らずな」とか、「知らない訳はないでしょう」、と云うのであった。
Aさんのジョークを面白いと理解したのは、一割ほどの人しか居なかった。
私は現代人が、ここまで、『野暮』になっているとは気が付かずに居た。
ブログ記事の記述法(2) 、の話:なども、その一例であろう。

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『気配り』についても、現代人は本当に退化したと思う。
通りを歩いていて向こうから来る人とぶつかるのは、自分の都合以外は考えない人間が増えた為。
こちらが遥か遠方から相手の進路を見て調節して行くので大抵は避けることが出来ても、何しろ相手は前を見ないで進行してくるのだから、中には避けきれずに衝突する事もある。
高速道路での追突事故などは、昔ならば無かった筈の、人災である。

エスカレーターの移動板に少しくらいの不具合があっても、昔の人ならば足元を見ているから、足に負傷する事はなかっただろうが、
現在は立派な成人が穴に足を突っ込んで、怪我をする。

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日本人が此処まで、『野暮』に成り、『気配り』を失ったのは何故だろう。

幾つか原因が有るだろうが、その一つに、私は戦後社会の政治システムで、 日本人全体で稼ぎ出した富を何故か、一部の人の懐だけにつぎ込むメカニズムが出来て、海外で顰蹙を買うような連中だけが海外旅行が出来るように豊かにした、ということに有ると思っている。

最近極めて短期間に、松岡利勝、赤城徳彦、遠藤武彦と3代の農水大臣が、立て続けに辞任に追い込まれたことと、嘗て、日本人で海外旅行をするのは、「ノーキョー」だと認識された事とは、明確な因果関係がある。


給与所得者が僅かの給与にも税金をむしり取られる所を、銀座のクラブ辺りで、その百倍以上の収入を得る人種は全く税金を納めないし、高級乗用車や宝石を買えた。
(金が全てではないとはいうものの)、働き蜂が報われず、日本に豊かさを齎した自動車、電機の働き手が、非生産的な仕事をしている連中よりも、貧しい生活に置かれた。
その結果として、大學工学部の機械工学、電気工学は現在最も人気がなく、最低学力レベルの高校生の行く所となった。
医者だって、過酷な労働で社会に奉仕する勤務医が、それを辞めて開業すると、半分の労働時間で二倍の所得が得られると聞く。
何かが間違っていた、と思う。

私などがこの様なお節介な記事を書く時代まで見届けて、柳澤氏は昇天する時に何をお考えになっていたのだろうか。


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