二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

広島原爆60周年(1)

2005-08-07 06:57:39 | 独り言
原爆60周年である。 変人キャズ氏の「人類滅亡論[3]自然科学の進歩による滅亡」 に、広島原爆投下に絡む非常に重大な事実、しかも従来報道されてない事が紹介されている。
変人キャズ氏はこの話を何人かの身近な人に話した時に、自身よりもほんの少し若い人達が、当時の事情を全く知らぬのに愕いたと書いているので、私は此処に若い人に向けて多少の説明をする。
つまり、このブログ記事は変人キャズ氏の上記記事の解説だと思って頂きたい。


原子爆弾の原理を最初に着想したのは、ハンガリー出身の物理学者レオ・シラードであった。
ナチスの手を逃れてドイツから米国に亡命したシラード、アインシュタインの二人は連名で1939/8/2付けでル-ズベルト大統領に「ドイツが原爆を開発する恐れがあること、米国が迅速に対応する事」を求めて書簡を送った。
この提言がル-ズベルト大統領を動かし、其れに依って大統領は1939/10/21に「ウラン委員会」を設置した。 第二次世界大戦中に、米国は国防研究委員会を設立し英国と共同で極秘裏に研究開発を進めた。 これが原爆開発のマンハッタン計画である。
マンハッタン計画による原爆実験(暗号名「トリニテイ」)は1944 春に、計画責任者グローブス将軍が科学者を統括するオッペンハイマーと協議して、開始された。


ルーズベルトは原爆の完成後は、日本の都市に落とすのでなく、威力を示すデモを行なって脅しとして使えないか、とチャーチル英首相に書簡を送っている。

科学者達がドイツの原爆開発を怖れた理由の一つは、当時第一級の優れた物理学者であるハイゼンベルグがドイツに留まっていたことであった。
ハイゼンベルグ自身ははドイツの若者達のために留まっていたそうだが、彼がドイツにいる以上は、原爆を開発する可能性があったから、オッペンハイマ-は、親しかったハイゼンベルグの暗殺計画まで実行しかけていた事が後にバレた程である。


原爆の政治史には、ポツダム会議(1945/7/17~8/2)の時点に於ける各国の思惑が大切である。
1945/4/12 にルーズベルトは死去(63歳)し、副大統領のトルーマンが大統領に就任した。


中西部の貧家出身で高校卒後、銀行員、農業を経て政治家になったトルーマンが、ルーズベルトの急死で予期せぬ大統領になったことと、 コーデル・ハルの後任として7/3着任したばかりのバーンズ国務長官は強硬姿勢を打出したことが、 日本にとっては不幸であった。

ポツダム会議の時点で、原爆という強力な武器を入手した米国は、その以前と変わってソ連の参戦は無用の事になった。   一方、ソ連は日本からの終戦仲介依頼をはぐらかし、取り合わぬ様にして、ドイツ降伏後に対日戦を既成事実化する事に懸命であった。

 ▲7/16原爆実験成功、7/21マンハッタン計画責任者グローブス将軍からポツダム滞在中の陸軍長官スチムシンに報告書が届き、大統領トルーマンと国務長官バーンズに報告され、チャーチルにも報告書が渡された。
 ▲17日」ポツダム入りしたスターリンは(実験成功は未だ知らなかったが)マンハッタン計画の情報をスパイを通じて得ていた。

トルーマンはソ連参戦の前に日本の降伏を得たかったが、ソ連は逆に原爆投下以前の対日戦参加の既成事実を作りたかったのであった。


 ▲7/17 ルーズベルトに当初、原爆開発の提言をした物理学者レオ・シラードは、科学者有志69人と共にトルーマンに手紙を送り日本へのデモンストレーションを提案し、原爆投下に反対した。  オッペンハイマ-は後に水爆反対で追放されました。

 ▲7/22 チャーチルは「原爆は最後の審判だ」といい、原爆使用派のトルーマンに好感を持たなかった。 (ルーズベルトは前にも書いたように、脅しに使えるという考えであった。)

こうした流れの中で、米国の良識派は日本が早期に降伏して呉れる事を期待し、強硬派は対ソ外交への思惑も含めて原爆の使用を急いだということだと思う。


この様な歴史の進行の理解の上で、変人キャズ氏のブログに紹介された事実の意味が理解出来るのです。
「ドイツ降伏後の広島原爆投下の直前に、
ハイゼンベルグからの仁科氏宛(他に嵯峨根氏宛も)の手紙が、米軍機により広島に投下されました。」 

原爆投下直前という時期。 ハイゼンベルグという人物。 大統領の交代これ等の事実と[意味]を、敢えて解説した次第です。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。