小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

東京オリンピック1964年、その時のアメリカは?

2013-09-20 15:38:45 | 暮らしのジャーナル

佐藤テルさん
 ニューヨークでは佐藤テルさんとご一緒だった。私より2廻りも年上の大先輩。私は愚図のほうではないけれど彼女が ”15分あるわ。ロビーで会いましょう。お着物を着てらしてね。”
着たこともない着物を15分で着て大急ぎでロビーに行くとテルさんは涼しい顔してきちんとお着物を召して私を待っていた。テルさんは元ワコールのデザイナーでご主人は日本自転車協会長。子供もなく、当時でも知る人ぞ知る
リーダータイプの方だった。ニューヨークで会いましょうと東京のアパートに訪ねてきたときは ”そうね。 あなたなら大丈夫だわ” といった。1週間彼女にふりまわされたけれども多くのことを学び、開眼させられた。

ニューヨーク、ニューヨーク
 街に出ると面白いことばかり。ウルワースという今の100円ストアのような店が街の角角にあり、ショーウインドーにはビートルズの音楽と人形であふれていた。英語の歌詞は全くわからず I Want To Hold Your Hand に
耳を傾けても, 「アイウオントホーリョーハーンド」となんのことかわからなかった。 ビートルズ、初めてNY着。若者が押し寄せ卒倒する人がニュースになっていた。レキシントン45丁目にあったYWCAのモーガンホールに
泊まっていた。1週間朝食と夕食付で40ドル。
 世界博覧会開催中。当時の大統領はケネディの後で選出されたジョンソン。民権運動、貧困者への生活サポート、ベトナム戦争。新聞は見出ししか読めなかったのであまり詳しいことは理解できなかった。
 当時の年間収入平均6,000ドル。車のガス、1ガロン30セント。新車が平均3,500ドル、初めて売られるフォードのマスタングが宣伝されていた。アパートの平均賃貸115ドル、映画1,25セント、コーヒー10セント、ドーナツ
5セント、アイスクリーム3つ重ねのてんこ盛りが25セント。
 ブロードウエイでは ”ハロードーリー” ”ファニーガール” ”屋根の上のバイオリン弾き” をみた。途中で大声を出して泣く女性がいたので驚いた。ユダヤ人粛清の話を後で聞いて初めて人種問題について考えさせらた。

黒人で最初のオスカーがシドニー・ポイチエが獲り大ニュースだった。黒人をリンチして殺したククルス クランの事件、黒人問題など日本では考えたこともない問題に直面し、エクサイティングな日々だった。
隣の部屋には高校を卒業したばかりのニューイングランドから来た可愛い子ちゃんが住んでいた。同年配とおもわれ、ディスコに誘われたりモンキースのダンスを教えてくれ、ダンスの帰りにはアイスクリームをご馳走してくれた。
私がキャッシャーに行くとふっ飛んできて、「いいのいいの。私働いているから」 と三つ重ねのアイスクリームを嬉しそうにおごってくれた。

 ドライブをすると初めて見るハイウエイの巨大なビルボードにはバーバラストレイサンドのレコードの宣伝。どえらく大きい。数年後彼女の帽子を5番街の高級デパートメント、バーグドーフに届けに行ったなどとは考えるすべもな
かった。 右端はコインセルフサービスレストラン、ホーン&ハーダー。すべて窓から見える陳列食品にコインを入れると扉があく。もっともアメリカ的プラクティカルなアイデアだと感動した。興奮の日々であった。

当時のバーバラ・ストレイサンド

 

 


1964年のオリンピック:私のセンチメンタル ジャーニー

2013-09-08 20:48:08 | 暮らしのジャーナル

1964年6月24日、日本脱出。憧れの世界へ飛び出す。

 日本では大京町、新宿御苑行幸用の扉の向かい側、慶応病院の坂下、有名人?が多く住んでいた傑作なアパートに住んでいた。毎日神宮外苑の競技場の屋根葺きが始まり、
カーン、カーンとその槌音を聞きながら日本を後にした。オリンピックの年。初めてツーリズムが4月に解放され、すぐビザを取った。13か国を6か月で回る予定。
予備知識皆目なし。大雪山連峰を見ながら、あの山の向こうに行きたいと夢見て育った。当時は帽子デザイナーで、夢中で働いていたので昔のお客様に会うととても恥ずかしい。

 大勢の友人が羽田に見送りに来てくださlった。タラップを降り、階段を上り、バンザイの声に送られてプロペラ機がとびたったときはわれながら感動した。
”私はひとり” 初めて一人きりになった。
素晴らしい冒険の旅が待っていた。途中で寄ったデンバーの友人、勤めていた麹町のベルモードのモデルをしていたフエイス・カークの美しい暮らしぶりに心から感動した。
デンバ―をたつとき彼女が言った。「ニューヨークには普通のアメリカ人でさえ中々いけないのにあなたは本当に勇気があるわ。アメリカの家があると思っていつでも帰ってきてね」
とハグしてくれた優しさは今でも忘れない。思えば長く、そして短いく楽しいニューヨーク生活だった。

 ニューヨークのアメリカの魅力に取りつかれて47年間,振り向かず自分に負けすに生きてきた。
偶然のチャンスで即刻決定して谷中に住むことになり、
2度目のオンピックを日本で迎えることになり、感慨無量である。

感動を分かち合って

 オリンピックのプレゼンをテレビで見た。高円宮妃 久子様が特に一番素敵だった。テレビの映像を駆使して完成予定未来図をみせ、[既にスポンサーの資金がこれだけ集まっています] と大画面に
スポンサーの名前が出て知事が説明た時、勝負が決まった瞬間だったと思う。その時スペインもブラジルもトルコも負けたことを自覚したと思う。
 帰国して驚いたことはみながお金の話を平気で話題するのにいつも恥ずかしいと思っていた。お金を稼げない人はプロとは言えないともいわれた。価値観が変わってしまった日本を寂しくおもっていた。

 しかし企業がこぞってスポンサーになりうる日本はやはりすごーい!

 オープニングの企画は宮崎駿がやってくれるといいなーと思う。アニメや映画はもう作らないというけれどもたぶんそれ以上のことを考えているに違いない。
ディスニーのおとぎの国はもう古い。想像力を駆使した夢の国、ディスニーを超える世界規模の未来に遊ぶ「科学館」を彼が作ったら世界中のマグネットになれるのでないかしら。

 メイン州から来た最後に残されたシェーカーの老婦人の講演会がフォークアート美術館であったとき、(たぶん彼女は今の私より若かったと思う) 彼女が言った。
「私を醜いと思ってくださっても結構です。皺だらけと思ってくださっても結構です。
しかし年寄りだとは言わないでください」と。

お金でオリンピックを用意できるのもすばらしい。しかしそれだけではない。震災の経験で団結した精神力の勝利ではないだろうか。やはり働き続けた精神力のほうに価値がある。

昔から育まれた日本人が誇る日本の精神力でないだろうか。「たそがれ清兵衛」さんを今の日本に連れ戻してきてあげたい。

こぞって心から応援しよう。外国で暮らすと愛国心が高まる。母国がよくなることは本当に誇らしいことだ。帰国してよかったと日本に心から感謝している。

人生は楽しい。夢見るのは楽しい。夢中になれるのも楽しい。小さくてもいい。そこそこでもいい。休みたいとは思ってはいけない。