山の恵み里の恵み

キノコ・山菜・野草・野菜の採取記録

歩ける道

2009-03-11 17:08:49 | その他
 昭和30年代の話。飯田から三河足助(あすけ)方面へ抜ける、通称参州街道(国道153号線)。阿智村から浪合村へ向う途中、寒原(さむはら)という峠の下に、長さ100メートルそこそこのトンネルがあった。自動車時代到来以前に造られたため、幅も高さもボンネットバス1台がかつかつ通れるぐらいしかない。時たま2トントラックとバスが通るだけで、朝晩歩いて行き来する村人にとっては有難いトンネルだった。中に照明などなく、遠くに見える出口の明かりを頼りに、おそるおそる歩みを進めるしかない。
 ある日の夕方。いつものように村の親子(母娘?)がトンネル内を歩いていた。突如後ろからクルマが進入してくる。こちらもいつものようにライトを点けてなんかいない。音に驚いて親子は壁に張り付くようにしてよけようとする。黒か茶の地味な色の服。運転手は気がつかない。いまどきの「クルマ族」とは違って、気がついていれば、止まるなり、徐行するなり、反対側に寄ったりしただろう。クルマは突進する。人間は逃げる。その後はおきまりのパターン。親子の幽霊がトンネル内に現われるようになり、いつしか「幽霊トンネル」と呼ばれるようになった。
 昭和40年(1965)だったか41年だったか。早春、阿智村駒場(こまんば)からこの街道を辿って浪合(なみあい)~平谷(ひらや)~根羽(ねば)へ向う浮浪者風の若い男。前年から続けている「下伊那巡歴」の一環。くだんのトンネル近くまで来たところで、村人に呼び止められる。「あのトンネルにゃ入っちゃだめだに、幽霊が出るだに」。岩見重太郎とは大違いの臆病者、制止を振り切って突き進むなんてしない。信南(しんなん)バスが来るのを待って、浪合までズルを決め込む。ナニ、多少端折ったって、この先歩く道のりはたっぷり残っているさ。別に学術調査ってわけでもなし。
 「人の道」が「ケモノ道」に成り下がり始めたこの時期、似た話はもちろん全国にゴマンとあるだろう。(なぜか母と娘が轢かれるケースが多い)。「歩ける道」が物凄い勢いで国土全域から消滅し始めたのが、東京オリンピック(1964年)前後。村から村、町から町、村から町、自転車はおろか歩いては行けなくなった。道幅は江戸時代そのままの3間(5.4m)、未舗装、クルマの行き違いができない。オクルマサマが来ると、ひとは道ばたのやぶに飛び込む、家並みの中なら軒下に逃げ込む、山道なら崖下に跳び降りる(まさか!)。高度成長が始まって物流が盛んになり、まず最初にトラックが跳梁し始め、そしてバス。爆音と土煙。いやはや物凄い(活気にあふれた?)時代でしたよ。クルマだって、ひとを轢いてばかりいたわけじゃない。昭和43年春、阿智村から長野まで、2トン車の助手席に乗って引越しをしたとき、道路の右に左にひっくり返っているクルマ、クルマ。何台だったか、とにかく死屍累々、十台じゃきかなかったんじゃないかな。
 「歩ける道は何処行った?」今後天気の悪い(つまり外に出れない)日の暇つぶしに、このテーマを探っていこうと考えています。