山の恵み里の恵み

キノコ・山菜・野草・野菜の採取記録

飯田線に乗ってきました

2009-03-31 17:36:46 | その他
 市田(いちだ)駅近くのお蕎麦屋さん『信濃江』。「あらびき蕎麦粉」のざるそば。自称そば通(ざるそば鑑定士)をうならせる逸品でした。粉よし、打ちよし、ツユよし。あー4時間も汽車に乗り詰めで来た甲斐があった。余りに感心したので、粉はどこのものを使っているのか訊ねたら、高森町の地粉の由。さーすがー!店の若い女の子が下伊那ことばで「地粉を使っとるんだに」とでも言ってくれたらいっそう嬉しかったんだけどね。ま、無いものねだりだったかもね。唯一残念だったのは、大根おろしがついておらず、わさびも練りわさびだったこと。
 別にそばを食べるために市田くんだりまで来たわけじゃない。店の評判を知っていたわけじゃない。ジュリアスシーザーばりに言えば「来た見た食った」、昼前だったので食堂を探したら、たった一軒この店があった、ってだけのこと。うどんでもあれば有難い、全国各地の「名物手打ちそば」にはさんざっぱら懲りているから。しかしこの店には蕎麦しかない。まーいいか、空腹がちょっと満たされればじゅうぶん、駅の立ち喰いだと思えばいいさ。ところが驚いた、こりゃー一級品だぞ、戸隠宝光社の『山笑(さんしょう)』以外にも絶品そばを出してくれる店があったんだ、日本も捨てたもんじゃないぞ。
 例の『青春18きっぷ』。期限は4月10日。残り3回分のうち、3月下旬に日帰りで1回使う心積もりだったのが、「寒の戻り」が続き、消化が危うくなった。この寒さじゃあ海も山もぞっとしない。かと言って美濃や甲斐は桜が開花したらしいから、花見騒乱に巻き込まれる恐れがある。高速道路「乗り放題千円」とかで、CO2とゴミを出しに来る連中が集まるようなところもヤバイ。そこでフト思いついたのが、飯田線往復。朝の直行列車で飯田まで行き、駅前のラーメンでも食べてトンボ帰り、ってのはどうだ。いや待てよ、飯田はちょっと危険だ、「お花見」に遭遇したら大変だ。
 いっそのこと山吹あたりで降りて、天竜川を眺めて来ようか。名所旧蹟なし、神社仏閣なし、観光スポットなし、我が「浮浪の旅」にぴったりだぞ。しかし昼飯はどうする。駅弁拒絶症、コンビニおむすび拒絶症じゃないか。せめて田舎食堂ぐらいなくっちゃ。というわけで選んだのが市田。45年前に一度降りたことがあるけれど、確かなーんもないところだった。ここなら帰りの汽車まで1時間ある。うどんでも食べて、天竜川を眺めて、じゅうぶん余裕がありそうだ。汽車賃は往復6千円弱。2千3百円で乗れば大儲けってもんさ。
 下伊那は曾遊の地。沿線の風景は抜群。東に赤石山脈、西に木曾山脈。ノロノロ列車に何度いらいらさせられたことか。しかし今回は久しぶり。懐かしいなあ。市田はホント何もなし。しかしひとびとは元気そう、これがいいのさ、鈍行の旅の醍醐味さ。相変わらず汽車はチョーのろのろ。おまけに上下にがたんがたん揺れること揺れること、辰野からの1時間45分、まるで馬に乗っている(乗ったことないけど)みたい、しかも往復。こりゃー面白い、得がたい体験だ、よーし次もまた乗るぞ、そして市田で降りて蕎麦を食べるんだ。

きのこ名人の死

2009-03-25 09:07:00 | 山の恵み
 きのこ名人がまたひとりあの世へ住み替えました。清水和夫さん、西山信田(にしやまのぶた)で70年余り、篠ノ井西部丘陵から大岡村にかけて、きのこも山菜も、一木一草にいたるまで知り尽くしていらっしゃった、仙人を絵に描いたようなおかたでした。世の多くの「名人」は、一子相伝どころか、我が子にさえきのこの「シロ」を教えないそうですが、清水さんは度量が広く、長年かけて見つけたマツタケやホンシメジの「シロ」に友人知人をどんどん招待し、きのこの見つけ方や見分け方、生えている場所の特徴など、微に入り細に入り、文字通り手を取るようにして指導してくれました。
 ご自分のマツタケ山(持ち山)を一度案内していただいたことがありますが、落ち葉を掃いて地面をきれいにしておくための熊手を肩に、マツタケやホンシメジの生えているところを教えてくれましたが、ときどき「あ、そっちへ行っちゃダメ、そこを踏んじゃダメ」と大声で注意され、どうしてかと思って足をとめると、「ほら、そこの落ち葉の下にマツタケがある、ウシビタイ(黒皮、別名おしょうにん)がある」と指差す。厚く積もった落ち葉を剥いでみると、たしかにキノコが隠れている。
 シモフリ(シメジ)と良く似たキノコがあると、「ほら、これがニタリヤ(似たり?)と言うやつ、こことここが微妙に違う」と示してもくれました。高級キノコ以外にも、数多くの種類を教わりました。アカンボウ(さくらしめじ)、キシメジ、キナコタケ(こがねたけ)、オニギリタケ(からかさたけ)などなど。
 ホンシメジは自然界からはほぼ絶滅、クロカワ(クロッカワ)も大方採り尽くされてしまった今、見つけてくれる名人がいなくなっては、ほかに誰が見つけられるのか。長野市南石堂(いしどう)の名人、居酒屋『幸べえ』のマスター、はお亡くなりになって久しく、知る限りではたったおひとり残った上田市国分(こくぶ)の名人も、先頃脳の大手術を受けられたとか。三大名人がいなくなったら、この世は真っ暗闇、あー、世界はどうなってしまうのか(チト大袈裟過ぎ?)。

麦作ふやすべき

2009-03-23 16:23:37 | 里の恵み

 黄河上流域(オルドス地方)は何年も前から大旱魃だとか。もともと乾燥地帯だから、今更驚くこともないけれど、そのおかげで中国が小麦不足になれば、オーストラリアの旱魃による麦飢饉も加わって、これから小麦の輸入量激減→価格高騰が一層激化するは必定。心配だなあ。パンが食べられなくなる、ラーメンが食べられなくなる、ウドンが食べられなくなる。農家の皆さん、せいぜい麦を作ってくだされや。
 先日甲州往復、続いて北信濃→上越→安曇→筑摩と汽車でひと回りしていて、やや期待がもてそうに感じました。どこも大半の田んぼは相変わらず「寝かせた」ままとは言え、昨年よりは多少青々と麦が育っているところが増えたんじゃないかな。麦価上昇につれて、放っておいても麦栽培は増えるかも知れないが、そんなに悠長にもしていられないよ。いつぞやの「凶作」のときのように、大慌てで外米輸入なんてブザマな失敗をしないようにね。既に手遅れかも知れないけれど、ただただ手をこまねいているよりはマシ。どんどん麦作を奨励しなければいけないんじゃないかな。
 ただ農家に期待なんて口で言うばかりじゃいけない。昔は二毛作が当たり前、寒冷地以外では黙ってたって冬は麦、夏は米を作っていた。農家が麦をやめたには、もちろんそれだけの理由があった。米豪の圧力(どれほどひとに迷惑をかければ気が済むんだ!)、大量に安価で麦を持ち込まれたんじゃ、零細な「三チャン農家」は太刀打ちできっこない。冬から春にかけての田園風景はずっと前に一変してしまった。麦畑が消えた。麦踏みの光景が見られなくなった。しかし状況は変わりつつある。麦も自給しなければ立ちゆかなくなってきている。さあ、どうする、どうする。
 提案①: 麦の栽培面積に応じて、米の減反を免除する。栽培しない、もしくは寒冷地のため栽培できない農家には大幅な減反を課す。飼料用米・バイオ燃料用米ってテもあるそうだから、「それじゃあ一家心中せなならん」なんて泣き言は言わせない。
 提案②: 「不耕者」(既述)には麦作を強制する。最低自分もしくは家族分の麦は自給すべし。麦が作れないときはジャガイモでの代替を認める。政財官学界のオエライサンなどで、どうしても「手が回らない」(そんなヤツいるかなあ)場合は、麦代の倍額を課税する。(アメリカとは違うんだから、「
税率90%」みたいなことは言わない)。
 輸入小麦にべらぼうな関税を課して、国内の生産農家を保護する、なんて姑息な手段はもはや通用しない。いくら金を出しても売ってくれる国がなくなってきてるんだから。マグロと同じさ。みんなが自分の食べる分は自分で作るようになれば、国内外を問わず、そもそもヨソから買う必要もなくなる。
 オンモに出れなくて家に閉じこもってばかりいると、我ながら言うことが次第次第に過激になっていくなあ。気をつけなくっちゃ。

歩ける道(4)

2009-03-23 13:30:44 | その他
 A級道路。完全分音分煙化された道、つまりケモノ道の脇に添えられた「歩道(sidewalk)」じゃなく、都会の路地や田舎の畦道のように、クルマやバイクの侵入から守られ、かつ車椅子やシニアカー(セニアカー)にもやさしく整備された道。もちろん今やほぼ絶滅しかけているとは言え、僅かに生き残った部分をつないで、町から町、村から村、町から村、駅から駅、せめてバス停からバス停を歩けないものか。
 先ごろテレビで『街道てくてく旅』なるものをやっていたけれど、見るに耐えなくてすぐに消しちゃった。あまりにも惨めったらしい。轟音をたてて走り過ぎる大型トラックすれすれ、毒煙を吹きつけられ、泥水を浴びせられ、小石を飛ばされ、タイヤの下に吸い込まれそう。安心安全なくして何が「てくてく旅」か。
 B級道路。ケモノ道の脇でも、歩道幅が最低でも1間半ある、もしくは軽トラかガートラがまれに通るだけの農道。車椅子や自転車では無理なハイキングコース/登山道。何よりも歩行者の安心安全が最優先だからね。
 無いものねだりばかりしていても始まらない、一部はB級が混じっていてもいいとしよう。命の安全はもとより、肉体的精神的健康が脅かされることなく、ひとびととの触れ合い、自然との触れ合いを楽しみたい。とは言え、過度な大回りをさせられるようじゃあ困る。いくら「オクルマサマ」大威張りのご時世でも、そこまで犠牲を強いられるいわれはない。かと言って、不平不満ばかりじゃみっともない。まずは不言実行。
 ルート①。長野市街地中心部(citycentre)から南へ、丹波島(犀川対岸)までの1里弱。相生橋(あいおいばし)から丹波島橋まで、裾花川右岸(一部左岸)の堤防上が、最初から最後までA級。長野駅と県庁から橋までの数百メートルはB級だけれど、四季折々の河畔風景を楽しめる絶好の散策・ジョギング・サイクリングルートでっせ。急ぐときは自転車で、余裕があるときはテクで、何度も楽しませてもらってます。
 ルート②。丹波島から松代中心地までの1里強。先日再踏破してきました。古戦場八幡原(はちまんPARA)までは、途中不通区間(狭い歩道さえ無い)があるため、少し迂回して路地と農道を辿らなければならない。地元民の案内がない場合は、ネット地図を最大限拡大してルートを探る必要がある。熟練の「道探し(rootfinder)」じゃないと無理かな。八幡原から千曲川を越えて町の入口までは、『松代街道』脇のB級道、入口から中心までは細い道を選び選び、あっちに曲がりこっちに曲がりしなければならず、方向音痴のひとには厳しいかも。
 山菜きのこルートの山道を除けば、町から町へ歩いて行ける道としては、いまのところ上のふたつしか見つけていません。丹波島から川中島駅は通行不能。篠ノ井駅までのルートは半分ほどまでは見つけたけれど、その先は未知数。戸隠までは市街地から芋井村荒安(あらやす)までが難しい。古来いくつもあった道筋が、『地附山(じつきやま)崩落』以後、ひとつを除いて全て不通(ケモノ道化)になってしまい、唯一のルートも一部消滅しかけていて、知るひとしか知らなくなっちゃってます。
 「歩ける道」をさがしに、汽車で遠くまで行くのもオツだけれど、更に近間でも確保しなくちゃね。ガンバロー!

歩ける道(3)

2009-03-19 15:25:33 | その他
 『18きっぷ』。「儲ける」から「歩きに行く」にちょっと軌道修正。「儲け」はせいぜい半額割引になればいい、つまり5回で2万3千円分乗れればいいとしよう、と決めて企んだ第2回。快晴の日を待って、きのう北回りで大糸線に乗ってきました。
 いやー、望外の大儲けをしました。前日の雨で黄砂も収まり、雲ひとつない青空。海と山と湖と川とローカル線。海は水平線がくっきり見える日本海。山は真っ白な頚城(くびき)山塊と飛騨山脈。湖は静かな静かな仁科三湖。川は姫川。ローカル線は糸魚川→南小谷、一両のワンマンカー、歩くのと同じ速さ(遅さ)。おまけに車窓風景抜群の信越線・北陸線・大糸線・篠ノ井線と、4つも乗せていただき、感謝、感謝。団体さんなし、グループ客なし、観光バスなし、お土産屋なし、屋台なし、スピーカーの民謡なし、演歌なし。静か。こんなに贅沢させてもらっていいのかなー、2千円ちょっとでこんなに楽しませて見せていただけるなんて、日本は良い国ですなあ。
 『久比岐(くびき)自転車歩行者道』。旧北陸線の線路敷。能生(のう)→浦本(うらもと)、1里半、線路跡だけあって道は平坦、時速1里の標準速度で1時間半。初めてなので、下見のつもり。能生駅から自歩道まではロクな歩道もないところを30分も歩かされて往生したけれど、そこからは快適な歩行者(自転車)専用道。右手に海を眺めながら、どこまでもどこまでも伸びている。いかにもお役所仕事らしく、線路跡を簡易舗装しただけの、実に素っ気ない道。案内地図なし、道標なし、(江戸時代なら1里ごとにあったような茶店風)休憩所なし、ベンチなし、あとは「テメーラ勝手に使いたきゃ使ってもいいぞ」ってなところか。左は線路脇の高い側壁、右は侵入者防止柵で、腰をおろせるところが全くない。今どのあたりにいるのか、浦本まであとどのくらいの道のりなのか、さっぱり分からない。中間あたりに小さな神社があって、海を眺めながら腰をおろせる唯一の場所なんだけど、先行き不透明なために、休んでいる余裕がない。しかしこのナイナイ尽くしのおかげで、通るひともほとんどいない。暑くなく寒くなく、静かな歩きには最適。「歩きにきて」良かった。
 駅から駅、町から町、浦から浦、歩いて行けるところがあるのは嬉しい。岬をまわればまた浦(漁村)があり、次の岬をまわれば次の浦、日本の漁村の原風景。歩道と海はケモノ道に隔てられ、道より数メートル低いところを大型トラックが轟音をたてて往来しているため、磯辺におりることはできないが、どうせ海岸は隙間なく防潮壁とコンクリートブロックが固めているから、水遊びはできない。山奥の人間にとっては、海が眺められるだけでじゅうぶん。海はおだやかな春の海。ホントは荒海のほうが嬉しいんだけど、風が強ければ寒いだろう、寒いのも困る。
 歩きに歩いていると、ひょっと目の前が浦本駅だった。能生とちがい、歩道が駅前を通っているのはありがたい。昔の線路と今の線路がここで合流しているのだろう。次の糸魚川行き列車が来る10分前。「ジャストインタイム」。見込み通りの1時間半で到着。最後はちょっと焦ったけどね。
 浦本から先は糸魚川の市街地のようなので、あまりぞっとしない。次は反対方向に、能生→筒石→名立→有間川→谷浜→直江津を、何回かに分け、季節も変えたりして歩いてみたいなあ。海湖山川のフルコースじゃなく、海だけでもじゅうぶん。汽車賃も往復¥3,500程度、3割引を利用すれば、べつに例の『きっぷ』のお世話になるまでもないだろう。とにかく汽車に乗って「歩きに行く」ところがまたひとつふえたのはメッケモンだ、という次第。
 帰りがけ時間調整で途中下車した穂高駅。近くに老舗っぽいワサビ専門店があり、そこで葉ワサビを一束購入。店のおばさんに「ピリ辛」に茹でるコツ(「あまり熱いお湯でないほうがいいですよ」)を教わり、その通りにしたら本当にピリ辛に仕上がり、いっそうのゴキゲン。昔ばなしのジーサンじゃないが、人間、欲をださないとかえってオモライが多いってことか。

歩ける道(2)

2009-03-13 11:14:31 | その他
 東のかた遠からぬところに浮かぶ冨士、北には奥秩父金峰山(きんぷせん)、西は八ヶ岳、そして南、眼前にそびえる甲斐駒と鳳凰三山。冨士(登る気にさえならなかった)と鳳凰三山(50年前からの憧れの山塊、若いころは金がなくて、年とってからは体力がなくて、遂にあきらめた)を除いては、いずれも縦走した思い出深く、懐かしき山々。
 雪をいただく山々にかこまれ、小さな公園で絶景に見入っている老残の浮浪者風浮浪者。満開を過ぎて散りかけた梅の林、百年は優に超えていそうな櫻の大木数本。暖かい陽射し、心地よい春風、あたりに人っ子ひとりいない山里の無人駅。売店なし、コンビニなし、食堂なし、土産物店なし、演歌や民謡をがなりたてるスピーカーなし、団体バスの駐車場なし、おば(あ)さんグループの喚声なし。静かな静かな早春の昼下がり。与謝蕪村の南画にでもありそうな、理想郷、桃源郷。
 中央東線穴山駅。小淵沢を過ぎ、長坂・日野春・穴山・新府を経て韮崎に向う車窓から、どの駅で途中下車しようか「品定め」。韮崎(沙漠だった)でラーメンでもとの目論見がはずれ、駅の売店でパンを買っただけで引き返す。さいわい鈍行の運転間隔が30分おきと便利なため、3箇所で途中下車が可能。それぞれ30分ずつ。最初は穴山。次に日野春(ひのはる)。さすがに無人駅ではなかったものの、何もない点では穴山同然。駅の外にささやかな看板が出ていて、『オオムラサキ自然観察歩道』の案内地図が描いてある。次の長坂駅まで、釜無川沿いに10キロ3時間の行程とある。直線距離なら4キロぐらいだから、ずいぶんと回り道だが、ホンモノの歩道ならめっけもの、よし、本当に「歩ける道」かどうか、15分で行けるところまで歩いてみよう。
 クルマに煩わされずに、町から町、駅から駅へ歩けるかどうかは、最初で分かる。駅前は往来が激しい街道筋だが、通りの向こう側に「歩道入口」の道標が見える。細い路地をくだると、もう一本のケモノ道の辻に「→」印。細い山道が奥に向っている。こりゃあ幸先がいいぞ。山道を登りきると、墓地、そしてちょっとした住宅地。住民のクルマしか通らないような細い道。そしてまた山道が川の方向に続いている。しかしここで時間切れ。第一印象は悪くない。もしかしたらホンマモンの「歩ける道」かも。要所要所に真新しい道標があるから、地図も磁石も不要だろう。よし近々、全部を歩き通してみようっと。
 来る前にネットでちょっと調べた限りでは、この「歩道」のことなんか見つからなかったよ。帰ってから改めて『オオムラサキ自然観察歩道』で検索してみたら、詳細なコースマップも「能書き」も出ていた。団体さん向け、観光ツアー向けじゃない、だから「お金にならない」、だから大宣伝なんかする価値がない、ってところなんだろう。これこそもっけのさいわい、「歩ける道」としては絶好の条件が揃っている。
 接続待ちで寄った小淵沢。駅の中に大量に置いてあるパンフレット。『武田信玄の棒道(ぼうみち、とでも読むのか)遊歩道』なるものもあった。こちらは小海線甲斐小泉から小淵沢までの8キロなにがしの「ウオーキングコース」らしい。ただし食指が全然動かない。ユーメー観光地・リゾート地の5キロ圏内には近づかないのさ。
 

歩ける道

2009-03-11 17:08:49 | その他
 昭和30年代の話。飯田から三河足助(あすけ)方面へ抜ける、通称参州街道(国道153号線)。阿智村から浪合村へ向う途中、寒原(さむはら)という峠の下に、長さ100メートルそこそこのトンネルがあった。自動車時代到来以前に造られたため、幅も高さもボンネットバス1台がかつかつ通れるぐらいしかない。時たま2トントラックとバスが通るだけで、朝晩歩いて行き来する村人にとっては有難いトンネルだった。中に照明などなく、遠くに見える出口の明かりを頼りに、おそるおそる歩みを進めるしかない。
 ある日の夕方。いつものように村の親子(母娘?)がトンネル内を歩いていた。突如後ろからクルマが進入してくる。こちらもいつものようにライトを点けてなんかいない。音に驚いて親子は壁に張り付くようにしてよけようとする。黒か茶の地味な色の服。運転手は気がつかない。いまどきの「クルマ族」とは違って、気がついていれば、止まるなり、徐行するなり、反対側に寄ったりしただろう。クルマは突進する。人間は逃げる。その後はおきまりのパターン。親子の幽霊がトンネル内に現われるようになり、いつしか「幽霊トンネル」と呼ばれるようになった。
 昭和40年(1965)だったか41年だったか。早春、阿智村駒場(こまんば)からこの街道を辿って浪合(なみあい)~平谷(ひらや)~根羽(ねば)へ向う浮浪者風の若い男。前年から続けている「下伊那巡歴」の一環。くだんのトンネル近くまで来たところで、村人に呼び止められる。「あのトンネルにゃ入っちゃだめだに、幽霊が出るだに」。岩見重太郎とは大違いの臆病者、制止を振り切って突き進むなんてしない。信南(しんなん)バスが来るのを待って、浪合までズルを決め込む。ナニ、多少端折ったって、この先歩く道のりはたっぷり残っているさ。別に学術調査ってわけでもなし。
 「人の道」が「ケモノ道」に成り下がり始めたこの時期、似た話はもちろん全国にゴマンとあるだろう。(なぜか母と娘が轢かれるケースが多い)。「歩ける道」が物凄い勢いで国土全域から消滅し始めたのが、東京オリンピック(1964年)前後。村から村、町から町、村から町、自転車はおろか歩いては行けなくなった。道幅は江戸時代そのままの3間(5.4m)、未舗装、クルマの行き違いができない。オクルマサマが来ると、ひとは道ばたのやぶに飛び込む、家並みの中なら軒下に逃げ込む、山道なら崖下に跳び降りる(まさか!)。高度成長が始まって物流が盛んになり、まず最初にトラックが跳梁し始め、そしてバス。爆音と土煙。いやはや物凄い(活気にあふれた?)時代でしたよ。クルマだって、ひとを轢いてばかりいたわけじゃない。昭和43年春、阿智村から長野まで、2トン車の助手席に乗って引越しをしたとき、道路の右に左にひっくり返っているクルマ、クルマ。何台だったか、とにかく死屍累々、十台じゃきかなかったんじゃないかな。
 「歩ける道は何処行った?」今後天気の悪い(つまり外に出れない)日の暇つぶしに、このテーマを探っていこうと考えています。