還暦を過ぎて以来、物事に対する好みがどんどん昔に帰る。ことばも学校で習ったようなものより、子供の頃使っていた方言や訛りのほうが先に浮かぶ。タガメ・ゲンゴロウ・ミズスマシ・アメンボウ、懐かしいねえ。60年前に覚えたことばは即座に浮かぶけれど、10年前のものはほとんど忘れた。成人して以後覚えた知識なんか、所詮は付け焼刃か厚化粧のようなもの、日を追ってボロボロ剥げ落ちていく。外国語や学術用語、ひとや動植物の名前が特にひどい。よほど脳味噌をしぼらないと浮かんでこない。いくらしぼっても思い出せないものも多い、たぶん永久に失われたのだろう。
食べ物に対する好みの変化(退化?)なぞ、我ながら驚くほど昔に帰った。子供の頃うまいと思ったものがしきりに食べたい。2年前から春先の味噌玉を求めて『すや亀』に通うようになったし、今日は評判の醤油豆を聞きつけ、妻科(つまなし)の『井上醸造』まで、自転車で往復1時間かけて買いに行った。昔の味、本物の味、大感激。考えてみれば、『すや亀』も『井上醸造』も、生家から15分も歩けば行けるところにある老舗。このデンでいくと、「日本一の蕎麦屋」も、歩いて5分もかからないところにある『山屋』さんってことになるかも。ひとは土から生まれ、土に還える。どうやらこの身も、産土(うぶつち/うぶすな)に向って、暗黒星雲に吸い寄せられる星々のように、渦を巻きつつ近づいているのだろう。