事実は映画よりも奇なり

乳がんで余命2週の告知もキリスト教の27歳の裏千家師範は延命薬で百八夜を内鍵付きの病室にて戦うも・・・

姪の浜で産婦人科を開業していた亡父です

2012年06月24日 20時40分04秒 | 朝顔 「椿灰」 

2012年6月24日

あらすじは、【  朝顔  

 


2009年10月20日

 

 

ピンクリボン運動から女性特有の病気については男といえども他人事ではいられないんです。
早期発見に心がけてください。これは検診に尽きるようです。〝わたしは〟なんて考えずに受けましょう。このブログが良い例です。独身の女性もその気になりましょうよ。残される人の苦しみもあるんですよ。

四十四で他界した父は姪の浜という地で開業医をしていた。
この父の為に有志の方々が集まられて≪相浦三郎君を想う≫なる小冊子が出版された。寄稿して下さったのは地元の経済界に医師会を代表される重鎮の方々ばかりでご健在の方も多い。
内容は〝遊び〟に乗っかる話ばかりです。クラブ、ボート、酒、カメラなどで医療に関しての寄稿は一件もありません。付き合いで寄稿に応じてくださった環境だけで生まれた本ではない証なんでしょうか、文章の背後に〝父を嫌っておられたことが臭う〟投稿もありました。これこそ本物だと私は受け止めております。
歓楽街での女遊びから源氏名まで出された地元では有名なデパートの亡き会長の内容には笑っちゃいました。反面、泣きました。
まさに追悼です。

八月二十五日夜明け前、聖女クララに透明になった彼女の思い出は尽きません。
この娘を妹とする姉との三人の席でのこと、何かの話から亡き父が話題にのぼった熱く長い夜がありましたが、この照れ臭さの中、つい、この小冊子まで一言二言、私は取り上げてしまったのです。
別に色づけしたわけではありません。時代は徳川家康の本のブームでした。読んでいなかった私です。時の姉妹の優しく穏やかで柔らかな映像が明日の音声を想像させるかのように脳裏にこびり付いているんです。

二十五日は他のご先祖の月命日に重なってしまったので、彼女は二十四日とされました。喪中に在る時から既に亡父の追悼本に重ねてしまい、彼女の本を書き上げるのを使命と考えてきた私です。
御山から書き直し書き直ししてきた原稿を積み上げると一メートルを超えていましたが、ほとんど使えません。なぜなら記憶を失っていたときの内容は私自身が意味不明の部分が多いんです。加えて日記は大部分を焼失させてしまいました。焼失前に、時の必要分を書き写していたのが残されているだけです。
この原稿を土台としてブログを書いてるんで時々わたし自身が分からなくなる箇所から順序になってしまいます。困ったもんだ。

嫌な部分での投稿が終わって、一息ついています。まだ頭の切り替えが出来ていません。
明日からは別の苦しみ、離散家族の投稿です。が、これは院長という他人が如何のこうのではなくって自分自身を抉ればいいから気は楽です。
ペンネームについては「八月のクリスマス」ってのを使ってたんですが外国映画に使われ、アッタマきて捨てました。今は別のを使ってますが、これ他のブログのタイトルにしてます。