事実は映画よりも奇なり

乳がんで余命2週の告知もキリスト教の27歳の裏千家師範は延命薬で百八夜を内鍵付きの病室にて戦うも・・・

まだ会えない娘に伝える看取りの家

2012年07月17日 21時10分07秒 | 介護   

7月17日
看護師さんに尋ねたいのに忘れていました。 
介護において勃起した男は居るのでしょうか。居たとすればどういう状況下だったの、と。大失敗。
おふくろ、また倒れんかなぁ。
ほら、「親は生きている間に使え」って諺にも有るでしょ。
因みに私の場合は  パイプカット 分身で漫才された剃毛から白い巨頭から点滴 ですが南阿蘇での如何なる厳冬時 病院へ行こう: 雪の結晶の傍らで奇跡の夏下冬上に抱かれる 病院へ行こう: ダイヤモンド・ダストは音色に抱かれてこその素晴らしさ においても経験したこと無いほどに縮こまってた。
これも恥ずかしいのですが。

上記は、そろそろ面白おかしく投稿しなければならない、という強迫観念に囚われての気の迷いであり本当の私ではありませんので悪しからず御了承ください。 

あっ、思い出した。
私が入院すれば良いんだ。
だって外来で入院話も出たんだった。母と枕を並べてのね。
母と子の看取り看取られ の中から、5月18日の件ですよ。

 

 

7月8日
去年七月への 介護 【 病室の母 】 一覧 における介助は八ヶ月間でもなんてことなかった。が今回は二ヶ月で、もうヘトヘト。

心身ともに あらすじ 【 朝顔 】 へと早く切り替えなければならない。

 

 


7月7日

退院は午後三時過ぎだったはず。
現在は十時近い夜です。今まで連絡が無いということは、無事「女の家」に落ち着いたのでしょう。
まずは一安心。 

もう、
その「女の家」からの電話にはビクビクする毎日が始まっているのです。 


2012年7月6日 金曜日

退院は明日ですが、私が病院に出向いての介助は取り敢えず今日まで。
短いようで長かったぁぁぁ 内臓を患った通院中の身でもあったしぃぃぃ

このまんま誰からも「お持ち帰り」されないのかしらん。
さみちい。
前回のリハ病棟の看護師さんたちは人生経験豊富な女性が多かったけれど、今回の一般病棟は若気の至りに陥りやすきお年頃が、、、なだけに残念無念。。。

トボトボと行ってきますか、、、

たらいまぁ。

看護師が白衣の天使だなんて嘘っぱちだぁぁぁ
朝顔に一人で立ち向かっている後ろの密室にて私より若そうなおっつぁんに、
「(摘便)してあげましょうか? できますよ!」 
って優しくホントに穏やかな声で言ってあげてた若い衣、
私のなんて支え持ってもくれません。
重いも疲れ果ててるってのに。
悪魔だっっっ 

 

7月5日

PCは現在、日曜(退院翌日の8日)からを見据えた活動の在り方を模索ちう、、、

2年もTwitterやっててRTの存在理由が判らなくなりました。よって封印します。

 

7月4日

29日の帰宅から30日と完全にPCを休めたお陰で楽になりました。
ありがとう。
今日も含め、あと3日間、頑張るもん。

「もう救急車は呼ばない」 そうです。
この趣旨の答えを何度私は聞かされたことでしょうか。 
4月27日に搬送された二度目の今回は「寝たきりとおむつの余生で介助決定した」と諦めかける私でした。
が、7日土曜には吸い取りパット無しのリハパンで退院です。
看護師、療法士、助手、病院関係者の方々には心より御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
三度目も貴方方のお世話になるかも、わかりません。
よろしくお願いします。
その時には又もや肉体労働者の出番となるのでしょう。
それまで英気を養います。

 

7月2日

身体に悪くなくて栄養を摂取できる食べ物だけでは体力はつかない。更に身体を動かさなければ。
それも全身で考えても無理な状態と年齢です。足腰なのか上半身に重点を置く訓練なのか、これが回復期でのリハビリです。足腰でも歩行と階段(たとえ三段でも)で方法は異なるみたい。

母の場合は介助を受けての歩行と三段(女の家の玄関口)の昇り降りです。療法士の方々が頑張ってくれました。何時もは「痛い」とか何やら文句をつける母も昨日はべた褒めでした。数年前の当初からお世話になっている男性療法士の方を。 
だから脳梗塞での左手の五本は固まってしまいましたが、手を貸してあげればお腹から20センチは離せる腕です。これでいい。

右手だけでも一人で使えて、介助は必要でも三段は熟せる足腰ならば。

ひとつ、トイレでのパンツの上げ下げを一人では、もう出来ない。
今頃になって、
「お尻は拭けると?」
「拭けるくさ!」
「なら良いね!」
過去の数年でも一度もトイレに一緒に入ってあげた経験を持たない女の家はどうするのでしょうか。 

七日の退院祝い(快気祝い?祝い?)は、せめて自分たちの食べたいものを注文するのではなくて、不味い病院食から解放された母の立場に立っての食べたかった美味しいのを願う。
といっても、ここでも感覚の相違。身勝手さの普段に思い込みから押し付けも自己満足になるのでしょうが。

親兄妹でも住む家が違うのです。
口出しはしません。 

次に救急車で搬送される際には、
「◯◯病院に行って下さい」 と隊員に答えなさい。
行きつけを訊いてくれるから。
すれば、◯◯病院に入院できる。

私だったら九日の月曜の朝には、
足が痛くなっての119となり、
◯◯病院への入院と仕方なくなってしまいますけどね。

 

7月1日

(Twitterへ)

私が、倒れてしまいました。
それでも七日の退院の前日まで、
三時のおやつ、一二度のトイレ介助、夕食後の雑用までの四時間余の一切合財を一日足りとも休めません。
六日の金曜まで何の投稿も活動もできないかも。御迷惑をかけてしまいそうです。
お詫びします。

 

6月29日

その◯◯病院に2~3ヶ月でも入院できないものだろうか。 
あの足腰では「女の家」に移るの無理。自殺行為だ。 

行ってきます、、、

 

6月28日 

2005年の骨折 【 病室の母 】 は滑るマットレスに足を取られたのが原因。
今年2012年4月27日の今度は 母と子の看取り看取られ 冷えるからと滑るのに靴下を履かせての転倒で打ち身。
さて、次回はどうなりますことやら、、、

さ、今日も元気を出して行きますか、病院へ。

ただいま。

母の願いは、
楽に死にたい。
姪の浜から、庭ある一戸建て(妹の家)から離れたくない。
近所の◯◯病院は父が開業前に勤務した病院であり、そこで私も産まれている。知り合いの女性も入院されたらしい。ここに入院したい母なのですが、、、 

母にも妹にも、何が大切なのか分からないでいる。

私には、
父が残してくれた母の土地家屋を、アノ極悪非道の医者に騙し取られた負い目がある。 

 

6月27日

(ウソか真か、妹が言うには)一人住まいする現在の私では訪問介護もヘルパーもリハビリも通所リハビリも何もかもが受けられないそうです。通所リハビリにて通った◯◯病院にも入れないそうだ(母は泣いていた。楽に死にたいのに、と)。
姪浜を離れたくない母の本音を妹は手助けしてくれているつもりなのでしょうが、、、 

病院での介助で昼間に八時間を完全に拘束される年中無休より、必要時に介助すればいい住まいでの24時間がずぅぅぅっっっと、私には楽なんですけどねぇ。

昨日は手すりに掴まりながら、ヨロヨロですが一人で何とか立てていた。
甘やかさなかったからみたい。
さて今日はどんな喜びをプレゼントしてくれるのでしょうか。
そろそろ行ってきまっすぅ。 

ただいま。

退院は7日だそうです。よって私が介助するのは6日まで。 
6日までは何としても、この身体に頑張ってもらわなければなりません。 

 

6月26日

退院が何時になるのか気になって仕方ありません。
というのも、 前回2011年7月の退院から今回の再びの転倒で入院に至るまでの9ヶ月間において、女の家では、ただの一度もトイレどころか食事での介助さえしなかった三人の女たちだから。
前回は手すりに摑まれば何とか歩けた。が今度は立ち上がることすら一人では、出来ない。
そして、こんども退院したら女の家に行く、と言う母。
理由は、 「 女の家 」 0711の最初に三行で投稿済み。

退院した、その日が命日になるかも、とまで私は覚悟している。

今回の入院への9ヶ月は思ったよりは長かった。また転倒するとの思いは当たっていたが。骨折ではなく打ち身で済んだのは不幸中の幸いでしょうが、なにせ48が38にも痩せての、打ち身。この体重の減少は、まさに生死の境でした。
救急車で搬送された今の病院に駆けつけた時には死相も少し現れていた。
女の家に行けば、また転倒するよ。もう解っているんだから、そうなっても俺は病院にも来ないし介助もしないよ。と前回の退院時には念を押していた。だから俺と二人で暮らそうよ。24時間で介助してあげるから、と何度も何度も頼みました。

そういうわけにもいかず、今もまた毎日の病院通いです。

じゃ、今日も頑張りますか。。。 

 

6月25日

ただいま。

今日は眼と仕草の対話に切り替えて言葉は葬りました。
22日から昨日まで三日間の母を観ての対処法です。
正解!
要は甘やかしすぎた私の責任です。
御迷惑をお掛けした看護師、助手、療法士の方々にお詫びします。
ほとんど会話にはしない一日でしたが、母子へと読めるのも腹立ちます。良いのか悪いのか、ぴったり、うまくいきました。
が、そこに気を取られすぎた一日の終りに、どうやらベッドに柵を取り付ける帰り支度を忘れたみたいです。
ま、大丈夫でしょう。
明日、看護師さんに叱られたい。。。 

 

6月24日

復活! 昨日の朝のPC 「コンピューターをロックしています」だってさ。・・ピューターなんて御大層な代物ではないんですが、いい休養になりました。みんな楽しくやってたかいっ。さ、失った24時間を取り戻すぜぇ。飛ばすぜぇ。 2012 06 24 08 18

行ってきます。

ただいま。

俺は病院においてもパソコンにおいても気魄に乏しかった。

一昨日から母は変わりかけていく。昨日(23日)今日と、酷い。それも周囲を巻き込むから、困る。
じゃどうすれば良いのか。
解る。。。 

 

 


 

2012年(平成24年)4月27日の入院 から 6月22日 母と子の看取り看取られ 

 

パーキンソンに加えての、2005年の転倒から、2010年の脳梗塞を経て、2011年7月10日の退院まで 【 病室の母 】 

 

十二夜  一人娘も一人っ子 愛娘が検索から私を見つけて二十年ぶりに名乗り出てくれた。2010年09月19日 22時03分16秒 です。(その後、音信不通)

 

十一夜  家族 「ボクに結婚話がある」と発表した。なんたって一大事な営業になっていた。「分譲マンションが買ってあるらしい。-----。奥様が会いたいんだってさ。離婚の慰謝料を払われるんだろう」 怒り出した母にも私は言った。「なぜ(異母)姉が院長の財産からこんなカネを支払うのか、おかしいだろっ」和やかに庭の老椿に青葉を眺めて一家団欒する幸せな普通の家庭でした。妻が見損なったと言う明るいホームドラマの粗筋を説明してあげるような、隠し事しない夫婦の会話に過ぎなかった。

 

 ・・・・・医師会、財界、法曹界、居心地良き上流社会でしょうが、母が心配している・・・・・

 

 

 

 



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