以前、こんな記事を読んだ。
アフリカの奥地を取材した人の話。
原住民の子供らに“缶ジュース”をあげようとしたら、
母親が跳んで来て、取り上げて返してきた。
母親が言うには「やめてください。この子は、
今後もずっと、缶ジュースを買うことも、
飲むこともできないのですから」
おいしい味を知ってしまうと、それを欲しがり、
かえって不幸になる、というのだ。
考えさせられる。一生知らずにいた方が
その子らにとって幸せなのだ。
多くの種族の文明が 外来の文明によって滅びていった。
それを思うと、その母親は賢明である。
ありがた迷惑、いらぬおせっかいを、我々は時として
していないだろうか。
山本有三の『波』。「ドブの中のボウフラが かわいそうだからといって、
一匹一匹救い上げて洗面器に移しかえてやったとて、
それがボウフラにとって幸せだろうか」というような一節があった。
結局、自分のためということになりますが、このみかえり
を求めるから情けをかけるのでしょうか?みかえりは求めるものではなく、結果として自分に報いがあるのですよ、という仏教の精神を説いているように思えます。