会津若松の東南、青木村の山腹に竜宮城のような門が見えます。
会津戦争にも焼かれず残った「善龍寺」の山門。その寺の
境内に「奈與竹(なよたけ)の碑」があります。3mほどの
堂々とした石碑で、揮毫は「飯沼貞雄」。自刃した白虎隊士
のうち、ただ一人蘇生し、生き残った人。西郷頼母の妻
「千重子」の甥にあたります。
この石碑は、昭和3年に建てられたもの。西郷邸で自刃して
果てた21人の骨を埋葬した墓は、少し離れた所にあります。
小さな墓石に、ただ「二十一人墓」と彫られているのみでした。
善龍寺は「保科(西郷)家」の菩提寺で、西郷頼母の墓も
あります。「頼母」の墓には、「保科八握髯(やっかひげ)
翁墓」と並んで「室飯沼千恵子位」と彫られています。
妻の姓を「飯沼」と旧姓で書いているのも珍しいことです。
長い間、「奈與竹」の碑の前では8月23日、盛大に墓前祭が
行われてきましたが、「頼母」の墓は、苔むしてお参りする
人も稀でした。「妻子は立派に命を全うしたのに、夫たる
頼母は、逃げまわって生き恥をさらした」というのが長年の
評価でした。
「奈與竹の碑」とは、西郷頼母の妻「千重子」の辞世
「なよたけの 風にまかする身ながらも、たわまぬ節の
ありとこそ聞け」に由来するものです。
会津戦争にも焼かれず残った「善龍寺」の山門。その寺の
境内に「奈與竹(なよたけ)の碑」があります。3mほどの
堂々とした石碑で、揮毫は「飯沼貞雄」。自刃した白虎隊士
のうち、ただ一人蘇生し、生き残った人。西郷頼母の妻
「千重子」の甥にあたります。
この石碑は、昭和3年に建てられたもの。西郷邸で自刃して
果てた21人の骨を埋葬した墓は、少し離れた所にあります。
小さな墓石に、ただ「二十一人墓」と彫られているのみでした。
善龍寺は「保科(西郷)家」の菩提寺で、西郷頼母の墓も
あります。「頼母」の墓には、「保科八握髯(やっかひげ)
翁墓」と並んで「室飯沼千恵子位」と彫られています。
妻の姓を「飯沼」と旧姓で書いているのも珍しいことです。
長い間、「奈與竹」の碑の前では8月23日、盛大に墓前祭が
行われてきましたが、「頼母」の墓は、苔むしてお参りする
人も稀でした。「妻子は立派に命を全うしたのに、夫たる
頼母は、逃げまわって生き恥をさらした」というのが長年の
評価でした。
「奈與竹の碑」とは、西郷頼母の妻「千重子」の辞世
「なよたけの 風にまかする身ながらも、たわまぬ節の
ありとこそ聞け」に由来するものです。