「法燈国師覚心」といえば、紀州由良の興国寺の開山ですが、
なんと京都にも「覚心」が開いた寺があります。
京都市右京区鳴滝にある臨済宗建仁寺派の寺「妙光寺」。
こちらのサイトに「法燈国師覚心」のことが、実に
詳細に書かれていました。
「妙光寺」は 弘安8年(1285)に「覚心(1207~98)」に
よって開創された寺とされていますが、実は「覚心」は
ここには長く留まっていません。
弘安4年(1281)亀山上皇は 覚心を都に招いて 禅について
尋ねた。そのときの覚心の回答に感心した上皇は、禅寺を建て、
覚心を開山第一祖としようとしたが、覚心は謝絶し、夜 密かに
抜け出して、紀州の西方寺に帰ってしまったのです。
弘安8年(1285)覚心79歳の時、内大臣「花山院師継(1222~81)」が
北山に妙光禅寺を建て、覚心を開山として迎えたいと
要請した。
しかし無本覚心は 西方寺に留まったままで 京都に来なかった。
「前年に天皇のお心に背いて 西方寺に帰ってきてしまったので
あり、花山院のために上京したのでは、礼を失する」という
道理である。
妙光寺としては「衣鉢を師に返し、塔院を破却しよう」とまで
憤ったが、そんな心情を察して、覚心は突如上洛し、妙光寺に
参じ、また宮中に参内して天皇に謁見し、西方寺に帰った。
その後、覚心の弟子、高山慈照、東海竺源、孤峰覚明、無住思賢の
4人が 妙光寺の住持となっている。
1333年、後醍醐天皇が、鎌倉に叛旗を翻し蜂起した時、三種の
神器とともに妙光寺に行幸している。以後、花山院は南朝方として
仕える。
覚心の弟子(二代目)「孤峰覚明」は、貞和年間(1345~50)の
初めに 妙光寺の住持となった。都の僧俗は争って拝謁し、
足利尊氏(1305~58)・直義(1306~52)兄弟も参禅した。
尊氏・直義兄弟は、後鳥羽院の古廟を改めて寺院とし、
孤峰覚明を開山第一祖にしようと、再三要請したが、
孤峰覚明は拒絶して、夜 ひそかに遁走した。
紀州由良の「西方寺」が「興国寺」と改称するのは、
1340~1346の南朝「興国」年間に、孤峰覚明が南朝二代目の
「後村上天皇」の帰依を受けて、南朝の元号である「興国」を
拝命したからである。
このような経緯で「興国寺」は二代目の「孤峰覚明」以来
南朝方となった。
なんと京都にも「覚心」が開いた寺があります。
京都市右京区鳴滝にある臨済宗建仁寺派の寺「妙光寺」。
こちらのサイトに「法燈国師覚心」のことが、実に
詳細に書かれていました。
「妙光寺」は 弘安8年(1285)に「覚心(1207~98)」に
よって開創された寺とされていますが、実は「覚心」は
ここには長く留まっていません。
弘安4年(1281)亀山上皇は 覚心を都に招いて 禅について
尋ねた。そのときの覚心の回答に感心した上皇は、禅寺を建て、
覚心を開山第一祖としようとしたが、覚心は謝絶し、夜 密かに
抜け出して、紀州の西方寺に帰ってしまったのです。
弘安8年(1285)覚心79歳の時、内大臣「花山院師継(1222~81)」が
北山に妙光禅寺を建て、覚心を開山として迎えたいと
要請した。
しかし無本覚心は 西方寺に留まったままで 京都に来なかった。
「前年に天皇のお心に背いて 西方寺に帰ってきてしまったので
あり、花山院のために上京したのでは、礼を失する」という
道理である。
妙光寺としては「衣鉢を師に返し、塔院を破却しよう」とまで
憤ったが、そんな心情を察して、覚心は突如上洛し、妙光寺に
参じ、また宮中に参内して天皇に謁見し、西方寺に帰った。
その後、覚心の弟子、高山慈照、東海竺源、孤峰覚明、無住思賢の
4人が 妙光寺の住持となっている。
1333年、後醍醐天皇が、鎌倉に叛旗を翻し蜂起した時、三種の
神器とともに妙光寺に行幸している。以後、花山院は南朝方として
仕える。
覚心の弟子(二代目)「孤峰覚明」は、貞和年間(1345~50)の
初めに 妙光寺の住持となった。都の僧俗は争って拝謁し、
足利尊氏(1305~58)・直義(1306~52)兄弟も参禅した。
尊氏・直義兄弟は、後鳥羽院の古廟を改めて寺院とし、
孤峰覚明を開山第一祖にしようと、再三要請したが、
孤峰覚明は拒絶して、夜 ひそかに遁走した。
紀州由良の「西方寺」が「興国寺」と改称するのは、
1340~1346の南朝「興国」年間に、孤峰覚明が南朝二代目の
「後村上天皇」の帰依を受けて、南朝の元号である「興国」を
拝命したからである。
このような経緯で「興国寺」は二代目の「孤峰覚明」以来
南朝方となった。