現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

北原雅長の墓が浜松に

2021-02-08 19:59:25 | 会津藩のこと

突然見知らぬ方から電話。会津若松の森川様。民謡尺八をされているという。

私の事を人づてに聞いて、電話をかけてみたとのこと。しばし、会津の事で歓談する。

その中で、会津藩筆頭家老北原采女(雅長)の話が出た。ついでにネットで検索してみたら、なんと北原雅長の墓が浜松にあるとのこと。

それも、先日ブログに書いた築山御前の墓がある西来院

築山御前は、松平元信(後の徳川家康)のpedz正室で、長男信康、長女亀姫を生んだ。同盟関係にあった織田信長から謀反の疑いをかけられ、天正七年(1579)、長男信康とともに殺された。行年三十八。


築山御前の墓
(法名:清池院殿潭月秋天大禅定法尼)

 

その西来院になぜ会津藩筆頭家老「北原雅長」の墓が?

北原雅長は、天保十三年(1842)会津藩家老神保内蔵助の次男として生まれた。

(兄は神保修理。鳥羽伏見の役で徳川慶喜公とともに藩主松平容保が藩士を置き去りにして江戸に逃げ帰った責任をとって切腹させられた。その妻雪子は会津戦争で西軍に捕らえられ、辱めを受けるよりはと自決した悲劇の人)。

雅長は次男なので母方の北原家を継ぎ、北原雅長となった。

北原家の祖は保科正光の子。秀忠の胤正之が高遠の保科正光に預けられた時、養育係となり、以来会津藩の筆頭家老となる。

戊辰戦後には明治二年、萱野権兵衛の切腹に立ちあった。

後に長崎県吏となり、明治二十二年(1889)初代長崎市長となった。

その後東京下谷区長を務めた後引退。

その後は浜松に暮らし、和歌に親しみ、大正二年(1913)七十二歳で没。

 

京都守護職時代の会津藩の動向を記した「七年史」(1904年4月発刊)を執筆した。

この書で、京都守護職松平容保がいかに孝明天皇から信頼を得ていたかの証となる御宸翰の存在を明らかにした。

このことが、薩長閥の明治政府に不都合となり、北原雅長は不敬罪で投獄された。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。