枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

卯月、八せん終わり

2018年05月31日 | Weblog

 三隣亡である。山に入らないのがよく、況してや、木を伐ったり、接ぎ木や移植も慎みたい。山の神さまは、穢れを嫌い、女人禁制の場所は多い。然しながら、これは職業差別であり、男女の違いも甚だしいもの。国会で、採決された働き方にも疑問が、多く残る。そこんとこ違うでしょう。

 すばる。帰宅したら抱っこである。留守中に、何か怖いことでもあったのか?胸にしがみ付いて離れない。監視カメラがないので、想像するしかないが・・・あらら、何処に潜ろうとしているんだ。服が伸びるではないか。姿は、すっかり大人の大きさなのに甘えは、前よりも激しいすばる。

 一日、不穏な天気で、しんどさが強まった。協力しての業務なのに、自分勝手ばかりをしている。こちらは見守りで精一杯だが、トイレ誘導もするし、記録を書いている。若さで言うなら、横着なことだ。身体が動くこと、様々なことが出来ることは、感謝に堪えないことであり、しあわせよ。

 あれがない。これもない。自分にはもらえない。つまりは、どれもこれもが、自分のものでなくては適わず、人の物なのが気にいらない。文句が多く、不平ばかりを言い、努力しようとせず、学ぶことも疎かにする。皆、自分の想い通りにはならずが、当たり前でしょう。日々の糧に感謝です。

 介護の業務は、当日の勤務者と協力しないと出来ない。自分の感情的なことは持ち込まないで、迅速な対応をすることだろう。自分に厳しく、人にやさしいのも、人間性で求められる。笑顔を絶やさずは難しいが、認知症状に寄り添う心根がなければ、どんなに言葉が丁寧でも、見破られます。

 以前、仲睦まじいご夫婦がおいでだった。奥さまの体調が思わしくなく、ご主人は毎日通って来られていた。他に移られてしまったが、偶然にも遇うと、元気かと声を掛けてくれた。そのご主人が、孤独に行動が怪しくなって入り、顔を会わせる度に、名前は分からんが、顔は覚えていたもの。

 裏も表もなく、相手に接することには、人間の真実が欠如していたら、相手に判ってしまう。やさしい言葉も、丁寧な言い方にも、そこに真心が籠っていないければ、滑ってしまうのだ。してはならないことは、頑として譲らない。そこには危険が伴うからで、命に係わってくる。でも難しい。

 明日は、天気になるかしらん?例年より何十日も早く、梅雨入りしたようだが、ドクダミの花を摘まねばならない。新聞紙の上に広げて、乾燥あせているが、今年は天気の関係で、旨く乾かない。然し、諦めず挫けず、ひたすらしておく。誰かが必要になるかも、と感謝と祈りを捧げて摘むよ。

 端切れを買ってあったのを繋いで、携帯入れを作った。手縫いなので、見た目は悪いが・・・

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信念を曲げぬ・・・

2018年05月30日 | Weblog

 自分の中で迷っている時には、時間をかけて思案するが、決めたなら実行する。結果がどうであれ、他人の責任にせず、貶めず、覚悟を以ってあたりたい。何もかもが巧くいくとは限らずで、落ち込むこともあるのが人間だ。時が過ぎゆくのを待ち、ゆったり構えていたい。然し、これには儲けがない。

 ところが見返りを考えてもいなかったのに、お礼で貰ったり、想いも掛けない展開になることもある。枇杷葉を信じて、ひたむきにしていれば、天と地とが知っているんだな、と驚いた。自分の利益優先より、誰かが喜んでくれればいい。その歓びは、還ってくるんだね。運命の連鎖を想ってしまった。

 勤務先で、残業はもらえないと申告しないが、ずるく立ち回る者は、都合のいいように言っている。そういう者には、神さまはちゃんと知っていて、それなりのことを下すのだ。善行は行えないが、悪行はばれてしまう。隠しても、誤魔化しても、真相は明らかになる。自分の行いは責任の取れる範囲で。

 宮部みゆきさんの新刊。これまでに怪奇話しを読んだが、今回のは総毛だった。人間の強欲、修羅とも言うのかもしれない。けれども、阿修羅は、そういうのとは違い、そのお顔を見れば、何とも不思議な想いに捉われるのだ。生きているからこそ、人減は試される。死への恐怖で、凝り固まってしまう。

 妬んではならず、羨むことも避け、悲観もせず、自分に見合った生き方と、悟れる者ばかりではないから、人を殺め、陥れ、嘘をつき騙す。そういうのが心を透かして視えるので、何だかとても淋しくなる。苦労した等、序の口である。上っ面のところだけ話しても、真実は通じない。宇宙も神も一つである。

 還暦を過ぎたら、怖い物は無くなった。死んでいる者に、恐怖を感じることも少ない。この世とあの世の境目に、留まっていることの方が恐ろしい。そういった想いが災いをもたらし、嫉みの中に巣を作って棲む。人間は、愚かだと知っていれば、厄も転じるが、凡そ欲には勝てない。

 夕方の天に眼を遣ると、月が輝いていた。これほどまでに美しい、恒星の光を知っている?

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卯月、望・大潮

2018年05月29日 | Weblog

 曇り空の天気に、鬱陶しさを感じながら、蒲団干しを断念する。雨がなければ水遣りを、と思っていたらしょぼしょぼと降り出す。友人が来て、直ぐに帰ったが、その間には続いていた。帰った途端に止む。ペットボトルの汲み置きを、鉢物に注いでおく。天の恵みはあり難い。

 すばるも、我が家に慣れてきて、自分の居場所を認識したようだ。体は大きくなっても、仔猫気分でじゃれる。それでも手加減を覚えたようで、無茶苦茶にはしない。枇杷葉茶もよく飲み、すこぶる元気である。気温の変化に敏感で、寒いと蒲団に乗っかって来る。お利巧です。

 先日、テレビで猫や犬の特集をしていたが、中でも猫の抜け毛にびっくりした。すばるは、毛繕いをするが、あれ程ではない。ブラシで梳く等問題外で、枇杷葉茶を飲んでいるので、非常に少ない。従って掃除も簡単である。人間と同じの暮らしの方が、猫にもやさしいのにね。

 樗・栴檀。この樹も、地方によっては、呼び名が異なるらしい。それでも、この時期にはまるで、木に雲が乗っているような感じで、花が咲くのを覚えておきたい。だからこそ、読んで字の如くなのであろう。花の匂いは芳香がするが、気に留めないと分からないものであるが。

 福島さんの著作に、藁1本の革命。と言うのがある。この書籍の中に出て来るのだが、昔は農薬代わりにしていたようで、何処にでもあったようだ。大木になることから嫌われ、伐採されてしまった。もう一つには、刑場で曝し首を懸けていたところから、忌られたものらしい。

 我が家にも植えておきたいところだが、後の始末に困るので、何処か他に植えてもらえないかと探している。田舎の山々には自然そのものに、薄紫の花が揺れる。季節の移り変わりに眼を向けて、心豊かに暮らしたい。庭ではクリスマスローズが終わりを迎えている。ありがとう。

 午後からは、Aさんちに行って、手当てをする約束だが、雨でよかったと思う。のんびりと施行できるのもありがたい。こういった行為には気分も拘るので、ゆっくりできると落ち着く。休日の時間を出掛けて、治療に当たるのは疲れるが、歩けなくなると、Aさんは窮地に陥る。

 昨夜、枇杷葉温圧療法を、背中にしたのが好かったのか、今朝は痛みがない。咽喉の扁桃腺の熱は、通草酒で落ち着いている。腎臓の機能が低下しているのは知っていたが、自分のことを後回しにしていた。蒟蒻を出したこともあり、捨ててしまうにはもったいないので施行した。

 昨年の枇杷葉の、結実状態である。裏年だったが、意外とたくさんの実が収穫できたよ。

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冷え性に・・・

2018年05月28日 | Weblog

 勤務先の若いのが、あちこちと冷えると言うので、自宅まで来てもらう。お灸をしながら、様子を見る。何回か訪れており、枇杷葉での手当てはしているが、これからは冷房が入るので、身体の冷えは避けられない。枇杷葉温圧療法をすることにして、鍋に蒟蒻を浮かべて温める。

 火傷をさせたら困るので、慎重に当てていく。その手当てをしながら、DVDを観るというので、指輪物語を差し込む。所要時間を見なかったため、手当てが終わっても映像は続いている。何と、3時間近くあるではないか。迂闊であったと途中で止めた。既に午後の4時を過ぎた。

 朝から、枇杷葉の生葉を採り、ドクダミを摘んで切り、洗濯物を干して待っていた。昼食は、握り鮨を予定で、具を予め準備していた。青紫蘇も、虫の齧っていないのを取り、茗荷は食べられないので、稲荷を出す。ご飯は2合炊き、二人分で足りるかな?充分な分量で、お腹一杯。

 枇杷葉茶と珈琲を出したら、美味しいと飲んでくれた。余り、文句を言わない娘さんなので、大いに助かる。帰る時には、冷たかった身体がポカポカしてきたようで、うれしそうにお礼を述べていた。いえいえ、わたくしに出来ることであれば、してあげられるが、出掛けないから来て。

 Aさんちに水を貰いに行き、枇杷葉の生葉で手当てをする。エキスがあるので、膝に散布しての手当てだ。電気と言うか、ピリピリと送っていくのが分る。Aさんにも分かるようで、気持ちよさそうだ。明日もしましょうか?と尋ねたら、是非にと言われる。それでは午後から参ります。

 帰宅して夕食を戴く。洗い物を済ませて、久々にザ・タイガースのCDを聴いている。田園コロシアムのだが、何よりのお気に入り。身体の回復を、誰も援けてくれないので、蒟蒻を温めて腰に乗せている。すんごく気持ち好いよ。何年振りだろう?自分の身体を、後回しにしてばかり。

 疲れが溜まり過ぎると、却って頭が冴え、眼が開いてしまう。眠ろうと眼を瞑るのだが、そこに展開する不思議な世界に、魅せられていく。夢のようで、違うような、何とも奇妙な世界の出来事に、引き込まれてしまう。この数週間、一体自分は何処にいるのか、皆目見当がつかなくなる。

 どうせなら、瞳みのるさんに遭遇できれば。等自分勝手なことを考えてみるが、これが一向に、不可思議な世界で、到底説明できない。はっきりと覚えているんだからとも思うが奇天烈。これはひょっとして、夢遊病の一種かな。自分が体験したことは意外と、覚えているものだと自覚。

 球根が増えて、白い可憐な花を咲かせている。名前が直ぐに出てこないが、花は季節を忘れず。

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どうなっちゃったの?

2018年05月27日 | Weblog

 原因不明である。ネットに接続出来なくなってしまう。色々してみるが、埒が開かずであった。仕方なく諦めて、枇杷湯に浸かり眠る。今朝は、大幅に寝過ごして、遅刻はしなかったものの、冷や汗をかく。昼食はお好み焼きで、これがまた一手間物であったのも、疲労困憊になってしまう。

 暑さも増し、午後からは帰宅したい気持ちに陥る。何だか、人生の端を思い知って、愕然とする。何時まで仕事が出来るんだろう。枇杷葉のお陰で遣っているが、日々怪しくなってくるのだ。年金は減らされるし、介護保険料は差っ引かれるで、加えて働き方にも、様々な障害が噴出してる。

 わたくしの年齢で、資格と言う程の物も無ければ、雇用は前途多難である。このままで勤務するには、諦めていく部分と、譲れない箇所があって、誠に身を斬られる思いに陥る。以前のわたくしなら、挫折感で立ち上がれない。それでも命がある限りは、何とか維持したく、悪あがきをする。

 野鳥の類が桑に押し寄せている。ヒヨドリの声が、一番鋭くよく分かる。自然からの贈り物に感謝して、口に入れるのも美味しい。熟れてしまったのは、アスファルトに落ちており、通り道なのでタイヤで踏んでしまう。これって、ジュースにできる?取ってまとめるのが手間ではあるがね。

 駐車場から、玄関にかけて、ドクダミの花が咲いている。花の咲いたのから取っていき、小さく切って干す。水洗いをしたら、黴がきて腐るので、飲む時に洗う。お茶パックに入れるのも、使用する分量だけで好い。まとめてしてしまうと、腐らせる原因になってしまうので、注意しましょう。

 毛布を天気の夜、三日三晩干したら、臭いがしなくなるかと竿に掛けている。洗濯するのも、自宅では洗えず、かといって持って行っては厭だ。今年は、クリーニングに出そうかな。好い物は、きちんとしておいたのが、傷まなくていいようだ。料金を惜しんだら、セーターは縮むのであるよ。

 勿忘草。白とピンクとブルーがあり、確か三種類買って植えたのが、次第に消えて行った。

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想定外の気温・・・

2018年05月26日 | Weblog

 何という変動のある、今年の気温であろうか。自然界も徐々に壊れているのが、何だか空恐ろしい。かと言って、どうすることが好いのかは、誰にも決められない。そこが難しく、自然に委ねる選擇にも、予測の立たない事態になっている。ここまでの異変には、きっと原因がある。

 原発の再稼働を中止し、プルトニュームの放置を止め、これ以上の核の維持を廃棄することだ。然し、汚染した物には、元には還らない。遺伝子の異常で、この先には何が起き、どうなっていくかも定かではない。二十一世紀は輝かしい未来であった筈が、希望すら見えない世界に。

 足の冷えが治らない、と言う方に、枇杷葉温圧療法を勧めた。鍋に水を張り、蒟蒻を袋から出して入れ、沸騰してきたら火を消し取り出す。熱いので火傷をせぬように、タオルに包んで、患部に当てる。足の裏は、自分で出来るので、熱ければ離し、何度でも当てればいいのですよ。

 一日に3度程を毎日繰り返し、1回の所要時間は20分くらいを目安に。蒟蒻をどのくらい温めるかにも依るが、水が沸騰して5分待ち止めればいい。鍋は専用のに決め、蒟蒻は小さくなるまで使っていく。また小さくなっても、2つを1度にまとめ、最後まで使い切って捨てましょう。

 これからの時期には、一日でも間を置くと腐ります。毎日、継続することに意味があり、三日坊主では治りません。腰痛にも、同じにして用いましょう。じんわりとした温かさに、至福の気分が味わえます。この時、並行して枇杷葉茶を戴くのも、身体の血流を促すので、更なる効果が。

 介護の仕事は、激務が当然ですし、それが施行出来ないとなると、職を変わる以外にはない。わたくしも、年齢には適いませんが、自分で出来る範囲は心掛けてやる。給料を貰っているのであれば、これは当然の業務です。そうならないためにも、枇杷葉は大切な援けです。あり難いね。

 留守番が淋しかったのか、玄関を開けたら、うれしげに走り回っている。なにしょん?と言ったら、餌であった。最近は、枇杷葉茶以外は容れていないが、しっかりと飲んでいる。毛艶も良く、元気であること。昨日の休みに見つけた、右足の爪が剥がれている。枇杷葉エキスに浸ける。

 きらん草は、春の花だ。庭のあちこちにあるのが、あまり目立たなく、花が咲いて分かる。

 

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栴檀咲き出す

2018年05月25日 | Weblog

 何時ものことだが、燃料切れになったら困るし、余裕で補給していかないと、何かがあってからでは遅いと出掛ける。その沿道には、たくさんの栴檀が競い咲く。見上げると咲き始めていた。淡い薄紫であるので、知っていないと見落とす。桐が済み、栴檀が咲き、この後は合歓に変わる。

 季節の移ろいにも、心を留めていないと、四季折々の花は分からない。卯の花の匂う時期、吸い葛や野茨も花は終わる。田舎での暮らしには、自分で見つける愉しみが、あちこちに隠れている。何気なく一日を過ごすのも、花屋に行って買うのも、また喜びがあるが、自然からのパワーを。

 個人的には、枇杷葉からのエネルギーを、たくさんもらっている。生かされていることへの感謝にも併せて、祈ることも必要なこと。桑の実が熟れだして、口に含むと甘い味だ。幾つか頬張りながら、ふと葉を見れば異様な光景である。何の虫かは不明だが、糸を引くように付いているのだ。

 昨年までは、こんなことはなかったのに、といぶかしく思う。裏に越して来た者が、除草剤を撒いたと言っていたが、もしやそれではないのか。虫には避難場所になったのかも知れない。薬の作用には人体へも大きく及ぶものがあり、困ったことでもある。ドクダミが可憐な姿で立つ。

 ハイジの上巻を読み終えて、図書館に返却に行く。新刊案内に、宮部みゆきさんのを見つけ、予約しておく。この世の春には、不思議な情感があったが、彼女の作品の数々は、わたくしの経験をしたことと重なり合う。言葉の持つ意味にも、納得できる箇所が多い。ヨシタケシンスケ脚光。

 昼食は、冷麺にしたが、冷たいのが嫌いなので、茹でた直前で食べる。すばるは酢が嫌いのようで、近寄らない。アイスキャンデーは好きで、特に練乳部分を舐める。蒲団を仕舞い、パソコンを開いて座る。気温も適温で、眠さも増していく。ハイジの下巻を読まなくては。仏像解説もだ。

 我が家の枇杷葉は、商売をしているのではないから、料金は貰わないでいる。仮に受け取ったとして、効果がなかった場合、返金を余儀なくされるし、そういった手間が面倒である。心が通じればいいことであり、解る方には惜しまない。リエさんやしーちゃんはまた別枠で、愉しみで送。

 一日経つ毎に、太陽の光と、月の雫を浴びて、育ちゆく枇杷葉だ。可能な限りは、自然のままにしておき、心をかけて遣りたい。水や風に、心で思いつつ、無事に収穫できますように。甘くて美味しくなって。と祈る。葉が齧られているのは、きっと病んだ者等が訪れてきたものだろう。納得。

 金星と月の姿が隠れると、宇宙には数多の星が輝く。自然からの力を、身体中に注いで。

 

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ハイジ

2018年05月24日 | Weblog

 長編を短くしたのは、中を端折っているので、肝心のところが不明だ。県立図書館から、岩波少年文庫で上・下で送ってきた。今まで知らなかった箇所が明らかになって、そうだったのかと納得する。アルム爺さんにも、戦争の傷痕があった。戦いは、何時の世にも、心を閉ざさせてしまう。

 ハイジに対する姿には、最初から拒みはなく、素直で真っ直ぐな孫への、朴訥な愛情が窺える。実写版では、そこのところは設定を変えていたが、文字と映像の違いだろうと思う。何れにしてもハイジの心根が新鮮で、自然に溶け込んでいく様子が、まるで自分のように捉われるのも嬉しい。

 児童書も、古典的な物語は、時代を超えて読み継がれるし、子ども時に読んでいてもだが、歳を重ねて再読してみるのも悪くない。どんな小さな箇所にも、隠されている愉しさがあり、謎解きの出来ることも有る。読書の愉しさには、その時々の心が現れて、違った自分に遇えるのもよろこび。

 人間の生き方にも、様々な形があるが、自分に正直にだけは生きたいもの。天知る・地知る・人知る・我知るである。22日は旧暦の、卯月八日で、釈迦牟尼の生誕日だった。天にも地にも我独り・天上天下唯我独尊。産まれながらにして、悟りの境地にあったものか。宗教とは心の依り代か。

 今朝、出がけには玄関まで出てきて、甘えたすばるだが、勤務先に着いて、餌を充分に遣ってなかったのを思い出す。帰宅して、ちょっと機嫌斜めであった。今は、居何時もの場所で、毛繕いをし、丸くなって眠っている。熟睡ではなく、薄目を開けたり、様子を窺っているのも可笑しい。あはは。

 実際、1年と2ケ月経ち、体自体も大きくなって、肉も程々について、しっかりしてきている。箪笥の上に上がって、下りられないと鳴いていたのが、お利口さんになって、何をしたら、叱られるかが分ってきたようだ。留守番もちゃんと出来る。仕事に行くのと、休日は理解度が異なるようだ。

 揚羽の幼虫。毎年、必ずやって来て、卵を産みつけていく。黒い小さなのが、次第にこの姿に。

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枇杷狩りに・・・

2018年05月23日 | Weblog

 新聞の広告に、枇杷狩り募集がある。ところが停車する場所は遠い。早朝にそこ迄は行けない。今年は、祝島のはどうかなと思う。購入のメールを送ってみよう。淡路島へも何度でも行きたいが、田舎の事情もある。こうなったら、運転手付きで行って来る?我が家にもあり、サンタ枇杷葉です。

 夏の陽射しを遮り、涼しい風を通す枇杷葉だ。この数日も、暑さなど感じさせない爽やかさで、あり難い枇杷葉である。Aさんに、我が家の生葉を持って行ったら、効き目が違うと言ってくれた。それが分るようになったのもうれしい。枇杷葉など、何処のも同じと思えるが、育てる者にも依る。

 手当てを終えて、枇杷葉茶を飲み、最中を戴く。粒餡の何とも上品な感触に、程好い甘さが美味しい。名古屋名物の・・・も出されて口にしたが、奇妙な味であった。熊笹に包んだお菓子で、蓮根と甘みの対比が絶妙である。初物を戴くと、寿命が75日延びる、と言うがこれなら納得しますね。

 すばるの甘えた、寒がりが、腕をチュウチュウしてくる。毛布を仕舞いたいのだが、ニャアニャアと五月蠅い。流石に湯たんぽは、水を抜いて終った。秋になったら出番があり、それまでは分かるように置いておこうと、寝室の片隅に寝かせてある。昨年は置いた場所を忘れて、大騒動になった。

 雨の一日であった。水遣りをしなくていいので、やれやれである。芍薬がそろそろ終わりかな?ドクダミが白い可憐な花を、雨に打たせている。葉は、スペードの女王で、オネーギンのオペラを思う。チャイコフスキーの手掛けたもので、金貸しの老婆を殺す場面と、破滅に堕ちてゆく過程に拍手。

 山桜桃梅が硬く青い実をつけているが、これが熟れたら、あっという間に野鳥に遣られる。子どもの頃に口にした時には、大味であったが、我が家のは甘い。糠と塩がいいのかも知れない。尤も、肥料は他には入れない。自然への感謝と、祈りがあればいいようにも。あり難いことで、虫も啄むよ。

 すばるは、カーディガンの胸の処に丸くなっている。ちょうどねんねこのようで、気持ちがいいのかもしれない。実に甘えたである。我が家に来て1年以上経過しており、慣れたことにも依るが、何せ保護者はわたくしだけであるので。銀河も、誰も居なくなったから、仕方なく居てくれたような。

 昨年の、枇杷葉の結実したところだ。6月の中旬過ぎから、徐々に熟れて来る。今年も送れるよ。

 

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こりゃ、駄目だわ・・・

2018年05月22日 | Weblog

 口は災いの元でもある。女三人寄れば姦しいとは、字が語っているもの。或いは、人の行為が、どんなことになるとか、相手の者は何を況と、聴くことも大切だろう。そうでなければ、枇杷葉の力・パワーを感じ取れるものではない。医者に行っても治らないことには、きっと何らかの要因がある。

 信じることの真実には、清らかさもあるし、純真さも併せ持つ。そういったところの本質を、自分で確かめてみようと、何故思わないのだろう。相手任せであったり、都合のいいことばかりを考えるようでは、到底叶わない。言葉の一つひとつが、胸の中に沁み込んでいかねば、通じ合えないものだ。

 人間は、年齢を重ねて行くと、あちこちガタが来て、支障を懐ものだが、それらを援けてくれるのが、枇杷葉でもあるのだ。細胞を活性化させ、血液を浄化させる。然し、うぬぼれてはいけない。歳相応の身体であることを知り、無理や無茶をしないこと。限度を心得て行動したいものだ。感謝のみ。

 わたくしは、信じるに値する者でありたい。信頼を裏切ることなく、加えて押し付けず、最善を尽くせたら、自分の使命も達成できる。どんなに遠く離れていても、愛することはできるし、波動を感じることも可能だ。それら凡ての行いに、決して恥じない生き方をしたいもの。心身共に浄化は稀。

 介護の仕事には、腰痛は付きもので、腰が痛いと業務は出来ない。最悪、仕事を替えるか、治療に専念するか、何れかだろう。仕事をしながらは、無理でしょう。個人的な見解を言えば、二兎を追う者一兎も追えずで、そんな自分勝手と言うか、甘えた考えでは、人の心は離れていってしまうでしょう。

 わたくしには、自然が知らせてくれ、多くの物を教えてもらった。何もないことは恥ずかしくもなく、自然への祈りと感謝があれば、生かされていることの有難さが分る。苦しみも嘆きも、幸せなことに気づけば、よろこび以外にはない。人間である前に生き物として、命を与えてもらったことに感謝。

 宇宙の彼方より帰し者。人類の偉さなど、微塵もない世界だ。自分は、何処から来て、何処に往こうとしているのか?あの阿修羅王の如く、時空を超え、幾多の世界を翔けて、尚さ迷う哀れな生き物。人間と言う無様な生き物は、地上を這うことしかできないのか。鳥は空を飛び、魚は海の中を泳いで。

 サンタさん枇杷葉と、りささんの枇杷葉の間の、枇杷の木の下に植えているのが咲いた。

 

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