のぶちゃんの自叙伝

明治43年生まれの父が書いた激動の明治・大正・昭和を生き抜いた一サラリーマンの自叙伝を紹介する。

第5章 高文受験を始める(5)

2007-05-31 13:53:33 | Weblog
毎年の行政科合格者に東大生が殆ど全部占めていて、彼等は学年試験の余勢を
かって大勢であちこちトグロを巻くように集まって若い元気な声を上げている。
私は二歩も三歩も遅れている自分に惨めさがあった。またこちらには2年のブランクがあったのだ。
試験場に入って鉛筆と消しゴムを置き備えられた六法全書を脇に置き、紙切れに
問題が筆字で書かれているのを見ると妙に慌てさせられた。

第5章 高文受験を始める(4)

2007-05-26 16:00:39 | Weblog
昭和10年の夏に吉川君と2人で鎌倉の海の家に行ったが、その時、耳に海水が
入り中耳炎になり金田医院にしばらく通った。夏の暑い陽気にあって、いらいら
した気持ちが続いた。
勉強の方法はどんな厚い本であろうとその内容をノートに書き写すことであった。
この方法は司法科向きではあるが行政科向きかは分からなかった。

第5章 高文受験を始める(3)

2007-05-24 15:45:39 | Weblog
私のすぐ前ではAという四報科を受けるのが居たし後ろにはひとりSというのが
行政科をねらっていた。私より2つ位年若であった。
昭和10年6月に初めて受験をした。然し1日目の試験科目は憲法であって
「天皇機関説」が告発されていたが何を答案にかいて良いかわからなかった。
私は答案に自信がなく2日目はパスした。

第5章 高文受験を始める(2)

2007-05-19 11:57:07 | Weblog
私大でも採用後高文をパスすれば特典があった。雇員でいて、苦学して高文を受けるという人もいた。
我々の部屋にもそう言った学生服の者が5~6人は居た。さて私だが、これは田中さんに触発されてやり始めと思われるが、兎に角とんでもない所に就職してしまったわけだ。結局昭和8年に入った我々仲間7人で専売局に居残ったものは結局私1人になってしまったのだ。第1回目の応試は昭和10年6月であった。

第5章 高文受験を始める(1)

2007-05-18 11:11:15 | Weblog
私が専売局に採用されて初登庁の日に大卒の連中が20人位一室に集まった時に、
7人位は私大で残りの13人は国立大学である。彼らの文科系は全員高文をパスしていた。最もパスしていた者しか採用していなかった。
高文とは内閣が行う高等文官試験のことである。大蔵省は厳格でありこれが必要資格であったようである。専売公社は大蔵省の外局官庁であり必要なかったのかもしれない。

第4章 環状道路完成(7)

2007-05-12 14:20:32 | Weblog
年末になると店の手伝いをする。この時分は店が半分印刷所になっており、
手動式だが2台あって母も臨時に着替えの前に立ってガッチャンゴーをやっている
。私は活字を拾う手伝いをする。除夜の鐘が鳴る前に天ぷらそばを食べて街の景気を見に行ったりする。
昭和9年の正月は5時起床して西新井大師へ25歳の厄払いの初詣ををする。
午後からは役所の秋山君が自宅に来て囲碁をやり一緒に部長、課長などの上役の家に年始回りをする。
玄関に名刺受けがあってそれに置くのだがいかにもお役所の形式的礼儀である。
元旦には新宿界隈の7つの寺で七福神の泥人形を初詣の人に呉れるのだが
私も歩き回って集めて舟に乗せ店のウインドに飾った。

第4章 環状道路完成(6)

2007-05-08 16:07:45 | Weblog
私はこの時分、掛かりつけの吉田医院に通って背中に注射を受けに通った。
1回2円だと言う高価なものであるが、それがとても痛いのであって、
辛抱強く1日おきに通った。これは吉田医院の奨めで私の結核予防のために
最新薬をためすよう両親から言われたもので食塩注射のようなものであった。
それ以外肝油のくさいのを鼻をつまみながら飲み続けたこともあった。
これらがその後の健康のためになったかわからないが肝臓の方は丈夫であった。