のぶちゃんの自叙伝

明治43年生まれの父が書いた激動の明治・大正・昭和を生き抜いた一サラリーマンの自叙伝を紹介する。

第7章 大震災(30)

2005-06-28 17:12:25 | Weblog
東の方を遠く見ると一軒の高い家が燃えているのがよく分かる。
屋根に避雷針があって窓にかけてあるカーテンの飾玉までが火に
透けて黒く写って見える。私はしばらくそれを眺め通した。
今は芝浦方面が燃えているとのこと。そんな話を聞くと西南部に
火が移ったらもう駄目ではないかという恐怖心が起きる。
然しそのうちに東の方が白み出してきた。

第7章 大震災(29)

2005-06-27 16:18:43 | Weblog
そのうち前の人だかりの方で騒がしくなった。なんだろうと思って見ると、
1台のトラックに兵隊が乗っていて乾パンを撒いているのが分かった。
私は妹の波江と共にその方に行った。
人々はわれがちに拾う。私は3袋、妹のは6袋も拾った。
思えばいっせいに立ち上がる前の夕方頃握り飯を少し食べたきりなので
空腹であった。しかし帰りがけに小さな子供が泣いていたので
私が一袋、与へた処子供はピタと泣き止んで私の顔を見た。
赤ん坊を背負っていた母親は目に涙を浮かべてお礼を言った。
(作文のここの所を読むたびに良いことをしたといつも思う)
私はもとの五重塔前に芝生に戻って乾パンを食べた。
軍隊用の固いものだったが塩気があっておいしかった。

第7章 大震災(28)

2005-06-25 15:58:26 | Weblog
さくの下の雑草に虫の声がする。人々のざわめきも段々
落ち着いたようになってゆく。
火は北方から東南に進んで行くようである。
西の空は真っ黒で奥の方は広い緑地帯なので安全であると分かった。
その時境内の増上寺から時あってか時ならねと言うべきか鐘の音がしてきた。
静かな音色に人々の心がしばし休まったのではないかと思われる。
「増上寺のおたまやに火がついた」というデマがあったが嘘だと知れた。
御霊屋は我が祖先のお使いした天英院さまの御霊が祀ってある。
そこに火の手があがったらそれは大騒ぎになったろう。

第7章 大震災(27)

2005-06-24 14:20:24 | Weblog
ふだんの芝公園と違って勝ってが分からず、人波に漂ってあの赤く塗られた
五重の塔の下のあいた所に腰を下ろした。
夜中の1時頃だろう。小母さんは車の中から毛布を出して
地面に敷いてくれた。そこに時計屋の男の子と私と妹2人が寝込んだ。
私は然し寝られなかった。半欠けの月が中天にかかっているのを
眺めただ物悲しい気持ちでいっぱいであった。
父はいったいどうなのであろう。

第7章 大震災(26)

2005-06-23 13:17:30 | Weblog
私達の救いは広い芝公園であった。然し避難人々でいっぱいである。
私達は増上寺の前辺りまで来てここら辺りでひとまず落ち着くこと
にして、母は父を迎えに敏男をやった。
今はどこが焼けているのだろうか、女中風の人がバスケットを一つ
持って通りかかりの人都と母ははなしていた。
敏男が戻って来たがもう赤十字へは警察で通さないとのことである。
5人は唖然としていた時に時計屋の小母さんと番頭さんにあった。
荷車を引いていたのでそれに荷物を積んで貰ってもっと奥の方に
避難することにした。

第7章 大震災(25)

2005-06-21 11:25:16 | Weblog
歩いているというより人と人の間に挟まれてぶら下がった恰好で
荷物が重いので引きずる上を人の足が乗るという身動きが出来ない
程でそれでも僅かなづつ進んで行って、電車通りに出ることが出来た。
電車通りは通りが広いので身体が自由になった。
私の背が大人に及ばないので見えるのは上空の半面が真赤に焦げて
西南の芝公園方面が黒いだけであった。
思えば3万人の死者を出した被服廠の惨状は全面が隅田川で行き止まり
なのでとうとう身動きがつかないまま荷物に火がつき燃え上がって
生地獄となった。思えばその時の状態がこれと同じである。

第7章 大震災(24)

2005-06-17 11:18:54 | Weblog
9月1日は風が一日中強く吹いて、それが火を呼び火が風を強めて
17~18m位になって黒煙を吹き上げ、臭気を運ぶ。
私は漢文にある「五丈原」の歌などを思い出している。
雲が飛んで東天には月が見え隠れしていたようだ。
やがてここにも火の粉が北の方から飛んできてパラパラと
下に落ちてくるようになった。敏男も帰ってきていた。
父は立てなかった。私にはそれが不甲斐なく思えたが父も
心身共に疲れていたのだろう。
火が赤十字社の正門をパッと明るく照らした時に父一人を残し
5人で荷物を持てるだけ持って門を出た。
人にもまれて近くの芝公園に向かったのである。

第7章 大震災(23)

2005-06-16 15:46:20 | Weblog
そこへ水谷時計店の番頭さんが2人で梯子の上に戸板をのせて荷車を
運んできたのでそれに頼んだ積んでもらえた。
非常に嬉しかった。ところがその梯子が途中で折れたのには
びっくりした。それでもどうにか病院の構内に運び入れることが出来た。
私は疲労の余り水谷さんのゴザの上に寝転んでしまった。
父は箪笥を取りに引き返した。
大通りはそんな風な人たちでゴッたがえした。やがて父と
繁男が戻ってきた。私の近くに岡田輝ちゃん一家が居た。
しかし黙って布団に包まっているだけだ。
時々ぽんぽんとダイナマイトの破裂の音がする。
雨が降ってきたがすぐ止んだ。そのうちに父と母が息を切らして
戻って来たので安心してみんなゴザの上に座った。

第7章 大震災(22)

2005-06-14 15:09:31 | Weblog
母が2人の妹と共に数本の雨傘と書物の入った袋を持って先に行く。
場所は近所の人たちとの相談で南の突き当たりにある赤十字社である。
私は父と2人で大きな箱と祖父の箪笥を持った。
しかし中身が重いのでものの200mも行かないうちにへばって
しまった。箪笥は途中の自動電話の所に置いて中味だけを2人で
引きずった。しかし力が尽きてどうにも手が動かない。
ちょうど向かいのパン屋の荷車が数台店先に置いてあったのを
父が交渉して借りようとしあたが、こんなときであるからか
断られた。

第7章 大震災(21)

2005-06-13 14:23:25 | Weblog
地震は絶えず微動が間欠的に続いていたのだがそれが人体に
感じなくなったのは何時頃だろうか?
夜もそろそろ更けかけて来た頃に北の東拓ビルがパッと明るくなった。
そして火の手が見えるや大通り全部の人がワーッといっせいに立ち上がった。
それは大人たちが燃え放題のの火事に対して、かねて覚悟して
待ち構えていたことだが、この峰火のような火の手に期せずして
それはこの界隈の人たちの宿命だあったかのように南の暗い方にむいて
怒涛のように動き流れだしたのである。