のぶちゃんの自叙伝

明治43年生まれの父が書いた激動の明治・大正・昭和を生き抜いた一サラリーマンの自叙伝を紹介する。

第8章戸塚町界隈(10)

2006-02-18 16:37:34 | Weblog
高田馬場駅から目白駅に行きそれを郊外に1~2町ばかり
行くと高野の家がある。大森から引越してきていて、
高野叔父、叔母、尚ちゃん、順ちゃん、、良子ちゃん、錦二さんの外
野村の叔母、正ちゃん、道ちゃんという賑やかな世帯で、
時々遊びに行った。隣にユーモア作家の佐々木那がいて「嫁とり、婿とり」
のモデルになったと聞いている。
高野一家はここで伝染病のチブスにやられ枕を並べて病床に伏すことがあって
後に大森の方に引っ越すことになるのである。
以上で中学の時代(私の14~19才)を終わる。

第8章戸塚町界隈(9)

2006-02-13 15:47:54 | Weblog
私の知っている最も昔の大正時代の駅は丁度谷内六郎が週刊新潮の
表紙に書いているような木造の建物が子供の目であたかも大きな
足駄が崖の上に乗っているように見えたものである。
昔は単線で駅を過ぎると先は田園で戸塚キネマという映画館が
出来たのはズーと後のことである。

第8章戸塚町界隈(8)

2006-02-12 17:40:15 | Weblog
さて自宅の前から駅の方に行くと、雨天の時は道がぬかるみになる。
早稲田から1本道を下駄を履いた学生が通るし、夜学生ももいて
中々人通りがある。気の利いた印象に残る店はなく、雑貨、飲食が
ある程度で平凡な町並みの道であった。
それが高田馬場駅まで通じている。そもそも駅は明治18年に今の
山手線の赤羽ー品川を日本鉄道会社が作ったのである。

第8章戸塚町界隈(7)

2006-02-11 17:35:19 | Weblog
早稲田の書生さん方は正門から関口町、鶴巻町へ沢山下宿していた。
狭い道に古本屋が随分並んだものだ。
戸塚の方は当時は1~2件しかなかった。しかし西条八十が諏訪に
小栗風葉、真山青果が若い時分源兵衛に居たととのことである。
小栗風葉は高田馬場4百何番地の湯玉より少し早稲田より仕立て屋田中
という家に下宿していて、真山青果はその門下生であったようだ。

第8章戸塚町界隈(6)

2006-02-10 17:30:16 | Weblog
面影橋の手前に鎮守の森がある。これぞ我が天祖神社のある所、
9月はじめの祭礼にはこじんまりではあるが、露店、屋台店、手品
などがあって、神楽堂では浅賀の桶屋のオヤジさんが一杯きげんの
赤ら顔でカグラ面の下でゲラゲラ笑いながら芝居をやっている。
この人は江戸前の威勢の良い筋肉のしまって職人で、背中に自慢の
彫り物がある。
時々銭湯で顔を合わせるが熱湯が好きで早稲田の書生達がぬるめようと
水道の詮をひねるとギロリと振り返るのである。
書生達は小さくなって隅の方に座るのだが、私は暑い方に行って湯を
かき回したりした。この親父さんも数年して死没したと聞いた。

第8章戸塚町界隈(5)

2006-02-09 14:36:03 | Weblog
この道はほかの道もそうであったように市内から汚わい車を馬力で
落合の方に運ぶ道でもあった。
私はこの裏通りを抜けて早稲田まで歩きそこから市電で中学に
通ったのである。その時分王子電車は大塚から飛鳥山、王子方面に
市営の電車が走っていた。それが昭和7~8年頃大塚ー早稲田間が
通じるようになったり、都電になっていったのだ。
それ迄、神田川は所々に染物の水洗いをやっていて屋根の上の
物干し台に白くて長いい布が幾つも風にひるがえる風景が
見られたのである。

第8章戸塚町界隈(4)

2006-02-07 17:27:40 | Weblog
それと言うのも早稲田から駅への道は現在の改正道路が出来る
(昭和3~4年)以前の狭い道路であった。
これを佐田稲子「東京地図」中の最終章「道」にこう描写している。
「早稲田の方から来て、高田馬場の駅前でガードをくぐり小滝橋から
中野へ通じている戸塚の大通りは私が小滝橋に引っ越してきた
昭和8年頃はまだアスファルトが新しかった。
私がグランド坂上にある寄席の高平亭に左翼運動の講演会に行った
時の3~4年前はまだ4~5人も連れ立って歩けばいっぱいになる
程の1本道で近所の運動具店と向かいの古本店とはお互い店の明かりで
反射しあっていた」

第8章戸塚町界隈(3)

2006-02-05 14:32:30 | Weblog
さて私は中学時代の行動範囲について、戸塚町界隈を思い起こすままに
書き連ねて見よう。
まづ昭和初期に我が店舗を開き、一応戸塚通りとしては割合斬新な
所も取り入れてしゃれた店構えにお祭り提灯を下げたところは
正に昭和初期草分けの面影を通る人に与えたことだろう

第8章戸塚町界隈(2)

2006-02-03 12:39:02 | Weblog
江戸古地図を見ると図のようになっている。
・その昔源兵衛という人がこの辺りの田畑を開いた。
・昔高田少将忠輝母堂の遊覧地だったのを徳川幕府が
 寛永2~3年に馬場を作った。この附近を高田村という。
・鎌倉時代に小泉姓の武士がこの辺りに土着して、現在唯一つ
 残っている我が墓地に行って見ると、その時分の墓石が
 多く残っている。
・穴八幡、高田馬場、鬼子母神という通路は割合多く人通りがあった。
・早大が明治15年、高田馬場駅が明治43年が出来て、現在の戸塚通り
 が学生に利用されるようになって大通り(昭和3~4年)となった。
・この辺は茶畑が多く又早稲田方面は茗荷畑が多かった。
 塚も多かったので富塚と言った。