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メタファーと転移を巡る断片的考察 (1)

2017-03-20 19:50:48 | 精神分析について
「しかるに、かの認識が究極目標として達成するものは、ただ、——破滅のみ、なのである。」Nietzsche


Lacan が Saussure から拝借したシニフィアンは、レトリックの問題と神経系の感覚的受容において惹起される微表なイメージを架橋しているとも、読めなくはないだろうか?

その中でも、語本来のレトリカルな在り方を示すのが、メタファーであり、転移の謎めいた性質も、これに帰せられる。それは認識の伝達ではなく、感覚の臆見の伝達である。

表音文字の文明においても、メタファーはそれよりも古い、象形文字としてみなされているということに留意がいる。


Agamben のニンファにも見られるが、哲学はなぜ概念を形象-イメージで伝達しようとするのか? あるいは、哲学とレトリック、転移 Übertragung の関係とは? 精神分析も、こういう問題を取り逃したらいけない。

Freud と Nietzsche を巡り、この転移 Übertragung による伝達が、メタファーやレトリック、神経刺激の量の問題、哲学で脇に追いやられがちな感性、イメージ、想像力のテーマをも含むことは、精神分析にとって示唆的だと言える。

つまり、古代的なレトリカルな問題が、無意識の象形文字と詩的な韻律を繋いでいるということでもある。 精神分析はやはり、文字とパロールの両輪を実践上のパラダイムとして保持していると言える。それは、理論的な認識の伝達ではない。

精神分析における転移は、語の転義である。 それは、感覚における刺激を、形象として移しているに過ぎない。

そう考えると、Lacan のシニフィアンの論理を、Nietzsche 的な記憶術の問題として、捉え返したくなる。この両者は、比較考察されてもいい問題を共有している。

シニフィアンは、“ロジックとしてのみ扱えば”精神の入墨と言いたい。 だが、シニフィアンを、“レトリックとして”感覚化すれば、身体の出来事になる。


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