ACEPHALE archive 3.X

per l/a psicoanalisi

精神分析家の行為とそれに住まう欲望

2016-08-26 22:30:46 | 試訳
--L'atto dello psicoanalista e il desiderio che lo abita, Rosa Elena Manzetti


精神分析は、(他の全ての人間的な諸生産としての)一つの症状であるが、その対象は各々の話す存在 parlessere が組み立てることに固有で、そのことのために更に知らずに、快楽 il piacere と死の欲動 la pulsione di morte を満足させるための機会の最も大きなものを得ようとしながら存在において立脚するため、同時にまた他の全ての人間的な諸生産とは違う。そのように話す諸存在に、それらの取り違え〔勘違い〕同様に対象さえも忘れることを強いるある占有のことである。それらの直接の要求の彼岸で、何が話す諸存在を動かすのか?

精神分析家はひょっとして、この要求への返答を持つだろう人だろうか? 彼は症状の原因であるシニフィアンを知り、去勢が実行にある時、ファリックな意味作用 la significazione fallica と人がしがみつく〔かじりつく〕ところの剰余享楽 il più-godere が同一であることについて知ると、私たちは言いましょう。

分析家の知は、不能の知 il sapere dell'impotenza(すなわち、分析的治療の行程が照準を合わせる SsS =知の想定された主体の盲目な路地)と不可能の知 il sapere dell'impossibile(パスの装置において目的とされる分析的行為についてのある知)のあいだで揺れ動く、ある逆説的な知である。

実際、分析的知 il sapere analitico を無意識的な知 il sapere inconscio から区別することが必要である。無意識の知は、解読可能である主体なきある知であり、ところが一方、分析的知は行為についてのある知、シニフィアンを通して接近できないある知、知のゼロ地点である。

分析におけるある主体を、他の分析家たちを生み出すための場が占めるべき対象a のこの見せかけ sembiante の場についての知であるところの、知の恐怖の方へ導く、行為の恐怖に直面することが問題である。

しかしながら、ラカンは精神分析家に行為のポジションに留まらないように促す。彼は、無意識との関係を更新し、分析家の欲望を再生するために、精神分析家に分析主体に再びなること、分析主体の道と分析的行為を交互にさせることを促す。分析家の欲望はしたがって、分析的知に与えるべきある貢献を内包する。

分析家の側の解釈の水準で想定されるのは、分析的行為(ほとんど議論されない概念)である。

まず最初に、分析家のポジションはその非-行動 non-agire から特徴づけられているので、精神分析における行為について語ることは一見矛盾しているように思えるであろうことに、私たちは気づく。制度〔施設〕における臨床についてのセミネールの一つのために仕事をした人たちが私たちに解説するように、事実は、行為 l'atto は行動 l'agire ではない。行為は常に、ある言うこと un dire に根拠がある。

ラカンは、彼のセミネール『精神分析的行為』、そして 『他のエクリ』で公表された「パリ・フロイト学派での講演」の彼の発言の中で、パスは、分析主体から分析家への推移はまさに分析的行為の問題であるので、その中で現れる瞬間において確証されうる行為による契機であることを、浮彫りにする。

ラカンは、彼の教えの全編成に沿って分析的行為について従事するが、特に1967年以降、分析的行為についてのセミネールの中で、『他のエクリ』で公表されたこのセミネールの報告で、セミネール『一つの大文字の他者から小文字の他者へ D'un Autre à l'autre』の1969年6月4日の講義において、専念する。

分析家が、分析家に関する彼の規定をそこから引き出す分析的行為はどのように特徴づけられるのか? セミネール『精神分析的行為』の中で、ラカンは私たちに、その行為における精神分析家は、(欲望の原因の対象の役割の)知のあるプロセスの中で、支えとして提供されると述べる。このことは、幻想によるある種の親密さを持つ、したがって幻想の基本的諸要素を明らかにする、シニフィアン的現実化以外は問題でない知の原因となる。私たちは70年代の終わりにあり、そしてラカンは分析の終わりは幻想の横断 l'attraversamento del fantasma により構成されることを考察する。

分析的行為が存在するように、分析家がその主体のための欲望の原因対象の見せかけの場を引き受けるだけでよいのではないことに私たちは気づき、欲望の原因対象の支えのそのポジションにおいて身をささげることが、続いて分析において獲得された知に結び付いた知のある種のプロセスの中で為される必要がある。

この知はラカンによって、治療から導かれる分析家の利益として使われていない。彼の位置は、知の受益者であることには属さず、啓示の手段である。このことは、分析家のポジションを特徴づけ、そして分析家の資格を制定する知ではないことも意味する。このことは、それどころか確かに、精神療法家が諸症状とそれらの治癒に関する決定された諸問題の上のある知の保有者と見なされる、精神療法の領域の共同体より、留意がいる。

もし、欲望の原因対象は行為のボルト〔支え〕であるなら、これは主体のため以外に、分析家が仕事をするためにあることを意味する。このため、ラカンは分析的行為にある精神分析家は考えないと述べる。対象の見せかけとして、そして知の主体としてではなく機能する限り、分析主体は、最終的に彼を支えていた知の分析家を主体的に解任するに至るために、(転移の源泉である)知の想定された主体における信でもって始められた全行程をなすべきだった。ここに、分析的行為の一つの特殊性がある。

精神分析家は、行為が主体を変える一つの言葉 un dire において到来するので、SsS のこの機能を原因におくことのできる唯一の者である。

ラカンは、(行為の観点から)本質的なことは、分析の終わりにおいて分析家が分析主体にとって、欲望の原因対象になることではなく、分析家は最初の頃から全過程に沿って、欲望の原因対象の見せかけとして巻き込まれいているということであるという事実について、とても強く主張する。

もし、対象が突然に現前していて、それについての分析家がその支えなら、やはり彼は対象であるのみならず、それを扱う変化は治療の経過の中である種の攻撃性を持っている。そのため、たとえ欲望の原因対象が治療の始まりから現前しているとしても、作業の終わりで対象は現実的なもの、言い換えれば分析主体により棄却されたものにおいて再び現れるので、分析主体の当然の仕事は全て必要である。そして、分析家はこの排斥された対象を代理するのみである。

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ラカンの理論における分析家のポジションと介入

2016-08-22 19:20:41 | 試訳
--LA POSIZIONE E L'INTERVENTO DELL'ANALISTA NELLA TEORIA DI LACAN


■解釈
INTERPRETAZIONE

解釈の再認 il riconoscere nell'interpretazione が精神分析家の仕事というのは、広く流布した一つの意見であり、この着想は分析家を、言い間違い、症状、つまり無意識の表出の解読〔判読〕者のポジションと機能の中に据える。

ラカンの教えにおいて、解釈の概念は決して精神分析の基本的諸概念の一つを構成しなかった。
ラカンは分析家の仕事の上に中心化された分析的解釈の理論を批判し、彼によれば解釈するのは無意識である。
もし、解釈する者が無意識なら、沈黙において聴取しながら、言葉を自由にさせる必要がそれにはある。この理由でラカン派分析家は、沈黙の聴取のポジションにある。
ラカン的解釈は従って、ポストフロイディアンのそれとは異なり、シニフィエには向かわず、シニフィアンに向かう。

■ラカンにおける解釈についての前提
PREMESSE SULL'INTERPRETAZIONE IN LACAN

- 単一の理論は存在しないが、一連の進展があり、エクリとセミネールに由来する知識を再調整する。
- 中心点は常に、シニフィアンの構造の象徴的登記への解釈の係留 l'ancoramento にある。想像的なものの象徴化の効果から、享楽の効果へ向かうことにより、彼の方向を変える係留。
- ラカン的解釈の一つのスタンダードは存在しないが、ラカニアンたちが避ける解釈の二つの形態がある。転移の解釈 l'interpretazione di transfert と意味論的解釈 l'interpretazione semantica である。転移の解釈は、ディスクールの意味が分析家との転移的関係へ引き戻されるための解釈である。意味論的解釈は、分析家が患者の言表の無意識的意味〔シニフィエ〕il significato inconscio degli enunciati del pz をさらすことを介するある様式である。
この解釈の二つの形態は、禁忌される。何故なら、1) 解釈するべきは分析主体に関する原則に違反する。2) 意味論的解釈の効果は、分析家の権威によって支えられているため、ある間違った主体性の点の上で、分析主体の練り上げ〔推敲〕のプロセス il processo di elaborazione dell'analizzante を妨害する。

■他者と享楽のあいだの精神分析的意味論
LA SEMANTICA PSICOANALITICA TRA L'ALTRO E IL GODIMENTO

精神分析的意味論は、分析主体により産出された一つの意味論であり、分析家の任務は彼の仕事の中で、それを支え、従ってそのディスクールに何も付け加えないことである。

■再認と句読法のあいだの解釈
INTERPRETAZIONE TRA RICONOSCIMENTO E INTERPUNZIONE

実際、この意味論の中心に存在するのは、欲望 desiderio と欲望の欠如 mancanza di desiderio の概念である。論文「機能と領野」における精神分析的意味論は、再認の欲望 desiderio di riconoscimento と欲望の再認 riconoscimento di desiderio の二重の公式における、再認のヘーゲル的概念の周りを回る。
再認の欲望の概念により、ラカンは真理から離れた神経症的主体(その分割された自己意識 il suo sentirsi diviso)のポジションを示そうとする。彼は何を望むか知らないで、自身の外で、他者との関係において、自分の欠如への返答を探す。主体は従って、彼の真理は何に由来するかを彼に告げるのは、他者 l'altro であることを期待するポジションにある。しかしながら、彼の真理を再認させることのできる他者は存在しないので、このポジションは主体に絶え間ないフラストレーションの刑を告げる。主体が他者において彼の真理を見出すことのできるという要求を放棄する時のみ、彼は主体化の行程(=精神分析)を始動させること、つまり由来する歴史と和解することができるだろう。
欲望の再認はまさに、その中で主体が彼の真理を見つける和解のこのプロセスに存する!!!

この再認が心に留めることを通過する方法は、句読法として解釈により与えられる。分析家は、主体を彼自身のパロールに含まれた真理を承認するように導きながら、無意識の解釈を浮彫りにする第二の契機に介入する。分析家は、ディスクールのどのような部分がより重要かを、どんな他者よりもよく知っている。

■換喩的-喚起的解釈
INTERPRETAZIONE METONIMICO-ALLUSIVA

ラカンはフロイトの圧縮と遷移〔移動〕の基礎知識を、隠喩と換喩の概念に翻訳し、これら諸概念を、あるランガージュとして構造化された無意識の機能の基本的諸法則にまで高める。症状は隠喩として特徴づけられ、一方、欲望は換喩としてである。
圧縮→隠喩、ある唯一のパロールにおける圧縮
遷移→換喩、他の諸連想によるある観念 un'idea の置換〔代入、代理〕

欲望はもはや主体の真理についての無意識の意味ではなく、存在欠如 la mancanza a essere の換喩である。もし欲望は換喩であり、欲望は解釈であるならその時、分析的解釈の構造自体は換喩的である!! ???

■幻想の意味論から寄せ集め〔混合〕の意味論へ
DALLA SEMANTICA DEL FANTASMA ALLA SEMANTICA MISTA

60年代の講義の中で、ラカン的教義における、ある混合物の意味論 una semantica mista が発展する。
一方で、幻想とリビードの意味論が、他者 l'altro から(特に、欲望の他者 l'altro del desiderio から)構造化し、そして無意識の意味作用 la significazione inconscia の中心としての幻想の概念の周りを回る意味論として、検討される。
他方、幻想とリビードの意味論は、そのことをある曲がり角に導くだろういくつかの理論的矛盾を開く。現実界の登記のその練り上げの中心の置き直しと、ラカンがその中で享楽の現実界を組み込む寄せ集めの諸公式 le formule miste と、主体がその中で構成されるシニフィアンの構造における対象の始動である。??

〔訳注:?? が末尾に記されている一文は、文章の構造上、次のようにも解釈はできる。筆者自身、判断し兼ねているようにも思えるが、以下にもう一つの訳文を掲載しておく。

→現実界の登記のその練り上げの中心の置き直しと、ラカンがその中で享楽の現実界と、そして主体がその中で構成されるシニフィアンの構造における対象の現実界を組み込む寄せ集めの諸公式 le formule miste の始動である。〕

■解釈 VS 行為
INTERPRETAZIONE VS ATTO

70年代から晩年まで、享楽から一つの意味論は構築するだろう。この骨子においては分析における主体のパロールは、大他者 l'Altro に向けられず、享楽の支え supporto do godimento である ??

■分析的行為
L'ATTO ANALITICO

ラカンは分析家の存在の問題に、その欲望の側面からのみならず、その行為の側面から取り組む。
最初はラカンは、(後にするように)行為 atto と活動 azione のあいだを区別しない。続いて、それらを区別し、事実、行為だけではなく、また活動だけではないのも同じく、しかし、行為が活動の芯 il cuore を設立し、行為なくしてある初まり un inizio は存在しないだろうと主張する。ラカンはルビコン河を渡るシーザーの決心により、行為の一つの例を引く。
行為の諸次元:
1) それを成し遂げる主体についての行為の変化的-変形的次元:行為が不可逆的な変化を導き入れたために、主体はもはや以前のそれではない、一度完結した行為。象徴的な限界を越えて行くこと。
2) 行為の瞬間的-断続的次元:それは、最初と後のあいだにある切れ目を導入する。
3) 違反〔侵犯〕的次元:それぞれの真の行為は、コード、法を越えることをもたらす一つの行為である。
4) 行為の保証のない次元:それは他者 l'altro により権限を与えられてはいないが、選択、そして外部のどんな保証もない一つの行為は、決断することを求められた主体に代わりうる。

分析的行為はそれぞれの分析の開始に介入し、そして行為は言うことによって生じ、しかしとりわけ、行為は享楽の水準に現れる。

精神分析的臨床は転移の下での一つの臨床なので、行為は転移的な座標の外では見つけえなく、転移の一つの支えである。

分析的行為を介して、どのようなことが分析の終わりに分析家に帰せられるだろうか知らないふりをしながら、分析家は分析の開始と知の想定された主体の創設を認可する。最初の分析的行為は、歪曲された知の想定された主体でもって機能する。

分析家と彼の行為の運命は、廃棄された-対象 oggetto-rifiuto の純粋な機能へと凋落するそれである。この意味で、その結末にある分析的行為は悲劇的行為に例えられる。運命は捨てられた存在のそれである。

■分析家の欲望
IL DESIDERIO DELL'ANALISTA

分析家の人格の主体性、つまり分析家の諸感情とは関係はないが、分析的関係の内部の彼の象徴的ポジションにおける分析家の存在に収まる一つの機能である。
分析家の欲望は、分析主体をその内容物で満たすように仕向ける彼の内容物を欠いたある操作的機能として形成される限りにおいて、分析的治療のボルト〔支え〕である。

■フロイトの欲望
IL DESIDERIO DI FREUD

何年かのあいだ、ラカンは分析家の欲望とフロイトの欲望のあいだのある等価を支持した。フロイトの欲望については、表現の客観的意味を含意し、つまり、フロイトにより着想された概念に注目する。

■分析家の欲望
IL DESIDERIO DELL'ANALISTA

治療において作用することであるに加えて、分析家の養成において決定的なファクターでもある。自然な欲望ではなく、それに従い、分析主体のポジションから分析家のそれへの移行を成し遂げるに至るそれらの主体において、分析が産出する未だ知られていない欲望である。


DOMENICO COSENZA

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転移の格差?

2016-08-20 18:00:37 | 精神分析について
*Twitter に投稿したコメント


分析の入り口であるにせよ、出口であるにせよ、知はそれ以前に無意識に想定されており(そこから転移が生じる)、享楽もリビード的な投資がされている。精神分析は、その無意識の享楽の在り方をダイレクトに変えるから、主体の変化が、何らかの形で生じる。

そういった意味では、分析の始まりは愛に関係するし、終わりでは享楽に関係する。転移を愛と享楽のあいだに見出すのは、適切に思える。

陰性転移においては、主体がその享楽のポジションを変えたがらない、それに相当なリビードが投資されており、断念することができない。それが、憎しみや葛藤、アンビヴァレンスとしての反応を引き起こすと言える。

ただ、その享楽へのこだわりが、現実に見合うかは問われてもいい。


そう考えると、愛と享楽の間に、「転移の格差」が既にあると見なせそうだ。

無意識は、その舞台であり、ドラマでもある。無意識の欲望の主体とは、その現実的なものの切れ目であり、対象とは割り切れなさだ。

そして、何よりもそれを言葉の経験のみを通じて体験するのが、精神分析の核心であり、醍醐味でもある。

精神分析は、何よりもパロールの実践なのだ。


転移の舞台〜Intermezzo〜

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陰性転移:治療学から症状へ

2016-08-18 21:03:02 | 試訳
--Il transfert negativo: dalla terapeutica al sintomo, Alejandro Reinoso

フロイトにとって、陰性転移 il transfert negativo は第一に、分析すなわち無意識の解読に障害をなしていた、ある敵対〔敵意〕の感情だった。しかしながら、それは治療への抵抗、つまり連想の中断 arresto delle associazioni として、恋愛性転移 il transfert erotico を用いるようにして、私たちに働きうるということを告げるだろう。フロイトは、陰性転移は“治療しうる”精神神経症 le psiconevrosi “curabili” における愛情転移 il transfert tenero と一緒に生じることを明確にするため、ブロイラー Breuler の“両価性=アンビヴァレンス ambivalenza”の用語を再び取る [1]。転移の取り扱い〔使用、操作〕に関しては、それは基本的な動因として、解釈とセッティングの条件を参照させる。そのために、フロイトが『終わりある分析と終わりなき分析』の中で述べるだろう、陰性転移の白熱した地帯を通過しない、最後まで導かれた分析はない [2]。したがって、フロイトにとってこの転移は、袋小路の類いに属するある現象ではなく、むしろ構造的である。

ラカンは、知の想定された主体から転移を定義する。しかし何が、陰性転移の中で知によって生じるのか? 陰性転移は、誰かの目の特徴を受け継ぎながら(この場合は、分析家の)、つまり点検し、または疑いながら、縮減〔退引〕する。このように初期のラカンは、転移における攻撃性の想像的ライバル意識〔競争、対抗意識〕の眺望のさらに先に進む。

ミレールは、私たちに知らせる。


“疑念は知の低い段階〔水準〕であり、証言が利用できないので証明できないある知である。まさにこの理由により、疑念はとても固執する〔しつこい、頑固である〕。人が証言を自由にする時、問題は完結したと見なされる。反対に、疑念は開かれたある縁〔余白、欄外〕を残す” [3]。


“疑念の下の sotto sospetto”分析家は、開かれた縁にあるこの知の照合〔確認〕の帰結である一方、解釈は常によこしまな〔悪い〕斜面の上にあり、神経症的信念の流れの上でもあり、パラノイアの確信の流れの上でもある。陰性転移は分析家の知に向かってはないが、分析家の存在(それは、憎しみの対象になりうる)と関係がある。しかし何故、憎しみは分析家の存在へ向きなおるのか? 主体の眺望から、(アガルマ的対象としての)分析家は主体を存在欠如 la mancanza-a-essere に対決させる。

症状と陰性転移の関係はどのようなものか? 分析家は症状の治療上の機能を解き放ち、同様の症状のエゴ〔自我〕同調的な egosintonico 均衡をかき乱す [4]。このように、享楽の安定性のズレ、つづいて招来する喪失により、大他者への敵対〔敵意〕が浮かび上がる。

知についての愛、無意識における信、そして話す症状の場は分析の旅立ちを開き、“分析的ドラマの開始の結び目 il nodo inaugurale del dramma analitico”を入り込ませる。ラカンが陰性転移を、精神分析における攻撃性でもって in L'aggresività nella psicoanalisi 定義するように。その中で“知の想定された主体 il soggetto-supposto-sapere が‘パロールを想定された症状 sintomo-supposto-parola’であり、そして分析的実践が症状の言葉を検証させることに由来する” [5]一つの論理によって。

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愛について

2016-08-08 22:30:38 | 試訳
--Sull’amore. Intervista a Jacques-Alain Miller
「愛について:ジャック=アラン・ミレールへのインタヴュー」


Psicologies〔以下、P〕: 精神分析は、愛について何か教えるでしょうか?

Jaques-Alain Miller〔以下、M〕: とても、愛がきっかけである一つの経験ですので。自動的な、そして多くはしばしば無意識的な、分析主体が分析家に抱き、人が転移と呼ぶその愛が問題です。それは一つの虚構の〔偽の、見かけ倒しの〕愛ですが、真の愛の同じ布地にも属します。その力学は明らかです。愛は、私たちの本当の真理について知っていると考えられる人に向かうのです。しかし、愛は、この真理が愛すべきで、心地よいだろうと想像することを許す一方で、事実は、非常に支えることが困難です。

P: それでは、愛は実は何を意味するのでしょうか?

M: 愛は実際は、何か、それを愛しながら、自分自身についてのある真理に人が接近できると信じることです。人は、その返事、または私たちの《私は誰? Chi sono ?》という問いへのある返事を大切にしまう彼または彼女を愛するのです。

P: なぜ、何人かの人は愛することができ、他の人はそうではないのでしょう?

M: ある人たちは、他者の中に愛を引き起こすことができ、それは恋愛関係、いうなれば、男と女です。それらのボタンを、愛してもらうために、彼らは押すことができます。しかし、彼らは必要で愛するのではなく、むしろ彼らの獲物で追いかけっこをします〔訳注:直訳すると、猫とネズミで遊ぶ〕。愛するため、人は固有の〔自己の〕欠如を受け入れ、私たちに欠けている他者が必要であることを認めるべきです。ひとりで完全な存在であると信じる人たち、またそうあることを望む人たちは、愛することができません。そして時折、彼らはそのことを、苦しみで確かめます。彼らは誘導し、集団を魅了しますが、愛の冒険と歓喜は知りません。

P: 《ひとりで完全である》、ただある男のみ、これを信じられる…

M: その通り! ラカンは《愛は持っていないものを与えること》と言ってました。このことが意味するのは、愛することは固有の〔自己の〕欠如を認め、それを他者に贈ること、他者の中にそれを据えることです。人が所有しているもの、幾らかの財産を与えるではなく、幾つかの贈り物は、自分自身の限界を超える、所有していない何かを与えることです。このため、人は固有の〔自己の〕欠如、固有の〔自己の〕《去勢 castrazione》を、フロイトが言っていたように請け合うべきです。そしてこのことは、 本質的に女性的です。人は実はただ、ある女性的なポジションからのみ愛します。愛することは、女性化します。この理由で、男性において、愛は常に少し喜劇的です。でも、もし人が滑稽さ〔馬鹿らしさ、たわいなさ〕から臆病なままなら、それは実際には、自分の男らしさについて自信がないからです。

P: 愛することは男性たちにとって、少し難しいようですね?

M: もちろん、そうです! 恐らく、恋をした一人の男は、この愛は彼を不完全さ、依存のポジションに置くので、彼の愛の対象に対し、傲慢さ〔プライド〕の爆発、攻撃性の振動を持ちます。このため、愛した時に、不確か〔宙吊り〕になった男性的ポジションを取り戻すように、愛していない女を欲望することができます。フロイトが、男性における《愛情生活の堕落〔低俗〕degradazione della vita amorosa》と呼んだのは、この原理です。愛と性的欲望の分裂 la scissione dell'amore e del desiderio sessuale です。

P: そして、女性においては?

M: より一般的ではないです。しばしばよくあるケースでは、男性的パートナーのある分割 un sdoppiamento があります。一方では、彼女らを楽しませ、彼女たちが欲するのは、愛人=恋人 l'amante です。しかし、女性化され、必然的に去勢されているのは、愛する男 l'uomo dell'amore でもあります。しかし、“一つの男性的ポジションを選ぶ女性たちがいる”を命じるその解剖学はありません。それについては常にそれ以上です。家での、愛のための一人の男性 un uomo per l'amore と、インターネット上で、道路で、電車の中で出会った、享楽のための何人かの男性たち degli uomini per il godimento …

P: 《常にそれ以上》?

M: 女性らしさと男性らしさの社会文化的な諸ステレオタイプは、最大に変化〔変異〕しています。男性たちは、その適切な諸感情〔刺激〕を受け入れ、愛し、自ら女性化するよう促され、それに反し、女性たちは、法制上の名の下に、ある種の《男性への衝動=衝迫 spinta all'uomo》を示し、《私も anche io》を繰り返して言う傾向があります。同時に、同性愛者たちは、結婚や親子関係のような、異性愛者たちの権利と象徴の回復要求をします。ある時代の不変性と対照をなす、多大なる役割の不安定さ(愛の劇場の一般化された流動性)に由来することです。愛は、社会学者ジグムント・バウマン Zygumunt Bauman が認めた、《流体 liquido》になります。各人は、固有〔自己〕の個人的《生のスタイル stile di vita》を発明し、楽しむことと愛することの固有〔自己〕のモードを引き受ける傾向があります。伝統的なシナリオは次第に古くさくなります。彼らに順応するように仕向ける社会的情熱は消滅はしていませんが、減少していっています。

P: 《愛はいつも、交換し合う L'amore è sempre reciproco》と、ラカンは言ってました。それ今日の文脈においても、まだ真実ですね? これは何を意味するのでしょう?

M: このフレーズは、それを理解することなく、あるいは誤解〔勘違い〕しながら繰り返されています。彼〔その人〕が私たちを愛するように、誰かを愛すれば十分という意味ではありません。馬鹿げたことでしょう。こう意味します。《もし私があなたを愛するなら、それはあなたが愛すべきだからです。愛するのは私ですが、あなたも巻き込まれています。何故なら、あなたの中に、私があなたを愛することを引き起こす何かがあるから。一つの堂々巡りがあるので、相互的です。あなたのために私が育む愛は、あなたが私のために存在する愛の原因に由来する効果です。したがって、何かのための余裕〔ゆとり〕があります。あなたにとって私の愛は、ただ私だけの事ではなく、あなたの事でもあります。私の愛は、おそらくあなた自身知らないあなたについて、何かを告げます。》これは一方の愛が他方の愛に返事をするだろうという保証はまったくありません。この事は、生じる時、常に奇跡の配置 l'ordine del miracolo に属し、前もって計算できません。

P: 固有の全ての人、偶然に固有の全ての人には出会われません。何故、彼なのでしょう? 何故、彼女なのでしょう?

M: フロイトが Liebesbedingung と呼んだこと、愛の条件、欲望の原因があります。それは、ある人々のため、愛の選択において一つの決定的な機能を持つ、特別な特徴 un tratto particolare —あるいは諸特徴の集合 un insieme di tratti —です。このことは、各人に固有であり、単独で内密の固有な歴史に依存しているので、完全に神経科学から逃れます。時折、ごく僅かの諸特徴が動き始めます。例えば、フロイトは彼の患者たちの一人における欲望の原因として、一人の女の鼻の上のあるきらめきを識別していました。

P: 愛がこのような些細な事柄の上に基礎〔根拠〕を置かれていることは、信じ難いです。

M: 無意識の現実性は、見せかけ〔虚構〕を超えます。人間的な生においては、また特に愛においては、人が似たような些細なこと、くだらないこと、《神々しい細部 dettagli divini》に根拠を置く、全てのことの理想がありません。私たちが、フェティッシュのような、その現前が愛のプロセスを駆り立てるのに不可欠である、欲望の原因を見出すのは、とりわけ男性において、ということも真実です。私たちが、父、母、兄弟、姉妹、幼年期のある種の重要人物に引き寄せる最少の諸特殊性 particolarità minime は、女性たちの愛の選択における役割のそれらも擁しています。しかし、愛の女性的形象はしばしば、フェティシストよりもエロトマニア的です。女性たちは愛されること、そして関心、私たちが彼女たちに表明する、または彼女たちが他者の中に想定する愛を望み、しばしば、彼女たちの愛、または少なくとも彼女たちの同意を解き放つ、一つの絶対条件です。現象は、男性的牽引から成り立っています。

P: どの役割も、ファンタスムに原因がないのですか?

M: 女性たちにおいて、意識的か無意識的かよりも、愛の選択によってより、彼女たちは享楽のポジションに対して決定づけられています。男性たちに対し、逆が役立ちます。例えば、まさに行為の最中に、叩かれ、汚され、また一人の他の女であること、あるいはまた別のところにいて、放心しているとただ想像するだけで、ある女性が享楽を達成できること—オーガズム、と私たちがいう—が生じます。

P: ところが、男性的ファンタスムは?

M: 一目惚れにおいて、とても顕著です。ラカンによって注釈された古典的な例は、ゲーテの小説の中における、彼女を初めて見た時、彼女を取り巻く悪漢を心に抱きながらの、若きウェルテルのシャルロットに対する突然の情熱です。ここに、愛を爆発させる女性の母親的態度の身分があります。私の実践で扱われた、ある他の例はこうです。ある50歳のボスが、秘書のポストのため、候補者たちと面会します。20歳の若い女性が現れます。彼はすぐに自身の愛を打ち明けます。何が急ぐ原因か彼に尋ねられ、分析に入ります。そこで全てこのことが突発したということを発見します。彼において、彼が最初の就任のために出席した時、彼自身20歳の時だったということを呼び起こす、いくつかの特徴を再発見しました。ある種のやり方で、彼は自分自身に恋をしました。この二つの例において、私たちはフロイトにより区別された二つの斜面を再発見します。人は、自分または保護する人物(この場合、母親)を愛する、さもなければ自分のナルシスティックなあるイメージを愛する。

P: 操り人形 le marionette である印象が持たれます。

M: いいえ、一人の男と一人の女のあいだには、前もって何も書き込まれてませんし、何の羅針盤も、予め定められた関係もありません。彼らの出会いは、精子と卵子のそれのようにプログラムされていません。遺伝子とすら関係は何もないです。男たちと女たちは、ディスクールのある世界 un mondo di discorso で話し、生き、決定的であるのはこれです。愛の諸様相は周囲の文化にとても敏感です。それぞれの文明は、それが関係を構造化する方法によって、性別の間を区別します。目下、西洋文明で、同時に私たちの自由主義的、商業的、司法〔法制〕的社会において、《多数性 molteplice》が《一 uno》を退位〔失脚〕させています。《全ての生の偉大なる愛 grande amore di tutta la vita》の理想的模範は、speed dating、speed loving と選択的で、連続的、同時的でさえある愛のシナリオの全盛を前に、劣勢になっています。

P: では、継続する愛は? 永遠のは?

M: バルザックは言ってました。《永遠であると信じられない、どうな情熱も残酷極まりない。》しかし、情熱の調子による全ての活気で、絆は支えられるでしょうか? 一人の男が、ただ一人の女に献身すればする程、彼女は彼のために、ある母性的意味作用 una significazione materna を引き受ける傾向があります。彼女が愛されれば愛される程、崇高で触れることができなくなります。女性のこの崇拝をより多く発達させるのは、移された〔遷移された〕同性愛です。アラゴンはエルザのための固有の愛を歌います。死ぬやいなや、何とまあ! ところが、一人の女がただ一人の男にしがみつく時、彼を去勢します。故に、道は狭い。要するに、アリストテレスが言っていた、夫婦の愛のよりよい道は友愛です。

P: 問題は、男性たちは女性たちが何を欲するか分からないことを語り、そして女性たちのそれは、男性たちが彼女たちから期待していること…

M: そう。アリストテレス的解決に反対することは、ラカンが嘆いていました、他者との一つの性についての対話 il dialogo di un sesso con l'altro は不可能ということです。事実、恋人たちは、もがきながら、(常に取り消しできる)解読のキーを探しながら、際限なく他者の言語を習得することを余儀なくされています。ラカンが、《愛は、持っていないものを与えること L'amore è dare ciò che non si ha》と明言していたように。

(Psychologies Magazine, 2008年10月, n. 278)

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転移関連のリンク(イタリア語)

2016-08-08 02:00:37 | Link
「21世紀における転移」

IL TRANSFERT NEL XXI° SECOLO, di Antonio Di Ciaccia (Dibattito preparatorio Convegno SLP Ravenna)

「愛と享楽のあいだの転移」

TRANSFERT TRA AMORE E GODIMENTO. 14 e 15 giugno a Roma, XII Convegno nazionale della Scuola Lacaniana di Psicoanalisi.
Tema del XII Convegno Nazionale della SLP, Domenico Cosenza


「分析的転移における現実界の出現」(フォーラム)
EMERGENZE DI REALE NEL TRANSFERT ANALITICO, Domenico Cosenza
フォーラムの目次

(ニュース記事)
Tutto tranne che amore. Il transfert, tema del convegno della Scuola Lacaniana. Roma.
Il transfert tra amore e godimento (14 e 15 Giugno)



Il transfert da Freud a Lacan, Mauro Milanaccio

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転移についてのラカンの教えと逆転移の概念への批判

2016-08-05 19:44:58 | 試訳
--L'INSEGNAMENTO DI LACAN SUL TRANSFERT E LA CRITICA ALLA NOZIONE DI CONTROTRANSFERT


■ラカンにおける転移の理論
LA TEORIA DEL TRANSFERT IN LACN

ラカンの教えにおいて、(フロイトの理論に合致して)転移の基礎知識は精神分析の基本的諸概念の一つを構成する。実際、その中で転移は治療の開始についての必要条件として明らかになる。確かに、精神分析家の任務は、転移が治療の原動力になり障害物にならない試みの中で成り立つ。1960年に、ラカンは(『転移 Le transfert』と題された)8番目のセミネールを開催し、その中で分析的転移の彼の理論をより組織的な形で発展させる。このパースペクティヴにおいて、転移は私たちを間-主観〔主体〕性 l'intersoggettività の彼岸に結びつける構造の現象として見なされるべきである。分析的転移の構造が挿入されるのは、もはや“主体から主体への da soggetto a soggetto”間-人間的関係の枠組みにおいてではない。本質なものにおいて、転移は愛であるのだから、(セミネール『転移』を貫く)キーテーゼは、分析的転移の本性 la natura を明らかにするために、愛の本性 la natura とそれが含む謎を問いただすことに存する。その上(分析的転移のラカン的理論において)、愛の次元は知の次元に構造的に結びつく。その証拠に、分析家は分析主体の謎(彼の欲望の原因)を含む対象 (a) になることにより、分析主体の苦しみに関する真理について何らかの知を想定されている限りにおいて、分析主体の分析的転移の中でエロティックに投資されている。知の想定された主体 il soggetto supposto sapere は、その周りで転移と見なすことの全てが分割されるボルト il perno を代理する。ラカンにとって、フロイト以前に(愛の経験の論理を照らす)西洋的思考の伝統についてのあるテクストがある。プラトンの『饗宴 il Simposio』である。『転移』の第1部の全ては実際に、プラトンの『饗宴』への、そしてその登場人物たちによる愛について述べられた諸言説へのある詳細な注釈とともに提示される。ラカンは把握してもらうよう、『饗宴』は、アルキビアデスの(彼の愛の言説とソクラテスへの嫉妬を通過する)闖入がその内容の全てが回転する周りの点を表象する、分析的セッションの報告書〔経験談〕の一種のように考慮されるべきだと主張する。プラトン的な対話におけるソクラテスの機能は、ラカンによって分析家の機能に結びつけられ、その機能は転移の中で、主体を自身の欠如との遭遇に結びつける。ラカンは『饗宴』において、欠如としての愛のある理論を浮き彫りにし、それによれば、本質的なものにおいて“愛は人が持っていないものを与えることである l'amore è dare ciò che non si ha”。事実、(ある愛する人 un amante の経験において)愛が欲望に結びつき選ぶ〔好む〕、彼を彼に欠けている対象にしつつ、自身の欠如を贈ることのできる人としての一人の他者 un altro(愛される人 l'amato)は、人が持っていないものの水準に特有〔固有〕のものである。愛する人とは欲望の対象であり、それに反して、愛される人はこのカップルにおいて、何かを持っている唯一の人として経験される。『饗宴』において、アルキビアデスは愛する人の形象を体現し、一方、ソクラテスは彼にとって愛される人のポジションを体現する。愛の本性を解説するためラカンは、愛をあるメタファー、すなわち(その場所に愛する者が生まれる、愛される者の位置への)置換〔代入〕として定義しながら、“愛のメタファー metafora dell'amore”を考案する。(そこにおいて愛する者が愛される者に姿を変える)このような変転は、ラカンによれば、この変形〔変換〕が愛の現象を、また分析的転移の始動さえも生じさせないことはないのだから、分析的経験において本質的であると示される。したがって、転移愛 l'amore di transfert はこのように、むしろ患者が彼に想定するある真理の保有者の機能に向いているので、治療者への愛ではない。治療者はこの転移による愛 amore da transfert をしっかりと掌握し、それをその無意識的な諸起源に送り返されるべき、非現実的な何かとして見なすべきである。


■知の想定された主体としての転移
IL TRANSFERT COME SOGGETTO-SUPPOSTO-SAPERE

分析的転移のラカン的理論において、愛の次元は知の次元に結びつく。分析家は養成のあいだ、無意識についてのある知を持つ誰かであるが、彼にその要求を向ける人の欲望については、何も知らない。このため、彼の知は、ただ想定されたある知である。
分析主体が分析家は自分の苦しみの真理について何かを知っていると想定することなしには、真の分析の開始はないでだろう。


■転移は反復ではない
IL TRANSFERT NON È RIPETIZIONE

転移は過去の純粋な反復には減じない。反対に、フロイトにとって転移は単純なかつてあった反復である。


■無意識の性的現実性の発動としての転移
TRANSFERT COME MESSA IN ATTO DELLA REALTÀ SESSUALE DELL'INCONSCIO

〔訳注:この項目については、タイトル末に (?) が付され、割愛されている。〕


■転移のアルゴリズム(より少ないアルゴリズムで)
L'ALGORITMO DEL TRANSFERT (fare algoritmo a meno)

アルゴリズムの上部には、シニフィアンの一連のものがある:他のシニフィアンの間で選択された S=SIGNIFICANTE DEL TRANSFERT=転移のシニフィアン(謎めいた仕方で、ある Sq=SIGNIFICANTE QUALUNQUE=ありふれたシニフィアンによって主体 (s) を代理する)
下部には、私たちはシニフィアンの様々な効果を持つ。それら諸効果は、分析主体のディスクールのシニフィアンのシークエンスを通る。
アルゴリズムはラカンに、分析の開始と終結を形式化することをできるようにする。
開始に関しては、人は転移の謎めいたシニフィアンと、彼の苦しみについて分析家に尋問するための分析家への要求 (Sq) との間の関連を設ける。
終結に関しては、主体が欲する〔望む〕ことを言い知ることについて応答可能になる限りにおいて、知の想定された主体の失墜が生ずる。


■治療における逆転移の利用へのラカンの批判
CRITICA DI LACAN ALL'IMPIEGO DEL CONTROTRANSFERT NELLA CURA

ラカンは、逆転移にとっての転移の現象の必然的な帰結を解釈する。
セミネール『転移』の中で、逆転移の利用に関するラカンの気がかりが際立つ。
逆転移的な眺望において、分析家は治療の中で、彼を主体としての試練にかけることの危険を侵すことをしないで、だが分析主体を固有の無意識的な知、すなわち大他者の場所に近づきやすくしつつ、彼の位置を占めることができる。ラカンのこの眺望では、分析家は彼のポジションを脱主体化すべきで、このことは彼は非情動的 anaffettivo であることを意味しないで、それに比べてセッションで彼は他者のより強いある欲望 un desiderio più forte degli altri、分析家の欲望 il desiderio dell'analista によって動かされていることを意味する。ラカン派の分析家は、患者へのあるシニフィアン的な応答の座である。(患者はそのことを、彼を苦しめさせるそれらシニフィエの周りでの、象徴的練り上げの作業へと返送する。)


DOMENICO COSENZA

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Lacan関連の記事 (la Repubblica.it)

2016-08-03 00:10:14 | 試訳
Jacques Lacan l'inconscio visto da vicino

「ジャック・ラカン 隣人から出会われる無意識」

もし、70年代から出版される『エクリ』が、“どのように come”無意識は機能するのかを示すのだとすれば、Einaudi(※) が9月に出版する予定の『他のエクリ』は、“なぜ perché”機能するのかを次の流儀で告げる。《ラカンはそれは、人間存在の喜びや苦しみであるそれら際限なき反復 infinite ripetizioni が症状に負ける〔譲る〕無意識の動因 il motore dell'inconscio であることを明らかにする》。

※訳注:Einaudi はイタリアの出版社名。イタリア語版の『他のエクリ Altri Scritti』は、2013年9月に出版されている。

ラカンが何かを“明らかにする metta in chiaro”とは疑問でもあるだろうが(しばしば、かの有名な撞着語法 un ossimoro に見える)、しかし Antonio Di Ciaccia(その名前がイタリアでのラカン派の著作の翻訳と編纂に結び付いた分析家)によれば、このようである。(600ページ以上の)『他のエクリ』の発売は、待望されている。なぜなら——『セミネール』と違い、フランス人の師自身によって編集されたテクスト集で——、常に世界の各地域の学生たち(分析家のみならず)によって、最も読まれているからである。そして、53年の開会式のローマ講演 Discorso di Roma からレトゥルディ Lo stordito までの、終には無意識の形成物を読解する分析家の能力(または負の能力)についての省察までの、ある真実で適切な理論的概説を含むその“珍味 chicche”のために。

他のテクスト集は、メルロー=ポンティのような哲学者たちや(ヴェーデキントからマルグリット・デュラスまでの)作家たちに留意する。そして、もちろんジョイス。文体は不連続で、バロック風、冗長的で晦渋なあるスタイルから、“ボシュエ風 alla Bossuet”——編者曰く、無味乾燥で本質的、ミリメートルの正確さで構成されたランガージュ——まで見渡せられる。

〔随時、訳出予定〕

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