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per l/a psicoanalisi

アリストテレスとアガンベン(そして、精神分析)

2017-02-13 18:20:42 | Essay
※Twitter へ投稿したものに、若干の編集を加えたもの。


アリストテレスの四原因説に、時間軸と階層軸があるのを聞いて、なるほどと思った。
(起動因から目的因が時間軸で、質料因から形相因が階層軸)
そう考えると、内在性は峻厳な階層性があるとも言えそうだ。
(質料因と形相因は、内在因でもある)

アガンベンのロジックを、この時間軸と階層軸に分けると、展開が見えやすいかもしれない。
基本、彼は内在と超越の“あいだ”や“閾”から、この両方向を論述しているわけだし。

彼の論点の分かりにくさは、アリストテレス的な原因に、常に既に、グノーシス的な二分法を見て取るところに表れている。《例外状態 stato di eccezione》然りだが、それが一致する《オイコノミア oikonomia》にも、それが顕著である。

ギリシア哲学において、原理と卓越性〔徳〕は一致するわけだけど、それらを“固有のもの”と呼ぶ。
そう考えるなら、その原理は既に、“階層的な相”を持っていまいか? だから、この第一原理は、内在に関する問題なのだ。

理論的知を仮に認めるにせよ、テオーリアがそれ自体の観照的な在り方を含んでいるなら、それは制作的知とは区別される。そして、理論的な知をその徳性と切り離し、制作的な知に従属させるなら、それは問題の蒙昧化を招くに違いない。

(ちなみにだが、アリストテレスの起動因の影響には、アナクサゴラスの知性 nous があるようだ。これは、宇宙を秩序づけ、生成する論理でもあるが、アリストテレス以降にも様々な形で復活しているように思える。ストア派的な宇宙観も然りだろう。)


「あらゆる知識に関して、それ自体とは異なる別のものをそこから求め、また知識は有用でなければならないと要求することは、善いものと有用なものとが、その根本において、どれほど遠く隔たっているかについてまったく無知な者のすることである。」(アリストテレス『哲学のすすめ』)

アリストテレスは、必要なもの、あるいは“副原因”と呼ばれるべきものと、他方で、たとえそれからそれとは別のものが結果として生じることが一切ないとしても、それ自身のゆえに愛好されるものを善いものとして、峻別している。かと言って、アリストテレスは経験を蔑ろにしているわけではない。

実際に、アリストテレス的な知性の問題は、その能力を“持つこと”と“使用すること”の違いとしても論じられている。ある注を記す。「知る能力がある (dynamis)、つまり知識をもっていること (ktēsis) と、それを現に用いていること (chrēsis) の対照がこれまでにも示されてきている」。

アガンベンもこの chrēsis という用語は、パウロ論(『残りの時』)でも論じていたが、アリストテレスの力点も、現にそのものが用いられている、という方に向いている。


仮にこういう例を出そう。精神分析について、あるいは精神分析のために何かを論述するのと〔これ自体は、そのものの善さではなく、制作的な知識としての改変を被っている〕、そのものとして既に善いものである、精神分析の知識を働かせている〔実践している〕のでは、どちらがいっそう善いか?


「たとえば、われわれは、健康それ自体のほうが、健康のためになるものよりも、よりいっそう善いと言うし、またそれ自体の本性によってそれ自体として望ましいものは、それをつくり出すものよりも、よりいっそう善いと言う。」「さらにまた、飲みながら楽しむことと、飲むこと自体を楽しむということは別である。」(アリストテレス)



†目的因と形相因の結び付きへの批判について(不動の動者か偶然の賭けか?)
†偶然性と目的論的な超越性との間の隔たりについて(遊びか神の退引かエクリチュールの舞台か?)


◆付記

初期アリストテレスを読んで面白いのは、物事の原因を“自然”、“技術”、“偶運”として分けているところだろう。

(その後の『形而上学』における、“第一原因”と“不動の動者”の問題や、神学的にも様々な分岐に繋がるのがアリストテレスの妙味)

この内、偶運によって生じたものは目的を持たず、不定であるとアリストテレスは分析している。 精神分析というのは、偶運に積極性を見出し、そこから運命と統治を導くものと言える。偶運によって生じたものは、そのままでは善いとは言えない。

実践に即して言うなら、対象として措定されるものは偶運による(分析家のポジション)。そこから導かれる運命は、自己の統治に結び付く(転移の解消と分析の出口の提供)。

アガンベン、アリストテレスを参照に、第一原因として考えられる問題は、卓越性〔徳〕や統治の技法と関係していることが導けたのは、ここ数ヶ月の収穫であると言える。 これを超越方向に見いだすなら、享楽への隷従という主人ではなく、奴隷の満足に堕落するものになる。(昨今は、自体性から卓越性〔徳〕を切り離し、制作的知に従属させることで享楽を図る論理がもてはやされている)

〈父〉を紐帯とした共同体とは別の意味での、統治性を前景化させた〈主人〉のあり方とその知。それは、ルサンチマンに根ざした平準化、水平化、ポピュリズム化に何らかの影響をもたらすはずだ。それらは、卓越性〔徳〕やその行為を蔑ろにはしないのだから。