*Twitter に投稿したコメント
分析の入り口であるにせよ、出口であるにせよ、知はそれ以前に無意識に想定されており(そこから転移が生じる)、享楽もリビード的な投資がされている。精神分析は、その無意識の享楽の在り方をダイレクトに変えるから、主体の変化が、何らかの形で生じる。
そういった意味では、分析の始まりは愛に関係するし、終わりでは享楽に関係する。転移を愛と享楽のあいだに見出すのは、適切に思える。
陰性転移においては、主体がその享楽のポジションを変えたがらない、それに相当なリビードが投資されており、断念することができない。それが、憎しみや葛藤、アンビヴァレンスとしての反応を引き起こすと言える。
ただ、その享楽へのこだわりが、現実に見合うかは問われてもいい。
そう考えると、愛と享楽の間に、「転移の格差」が既にあると見なせそうだ。
無意識は、その舞台であり、ドラマでもある。無意識の欲望の主体とは、その現実的なものの切れ目であり、対象とは割り切れなさだ。
そして、何よりもそれを言葉の経験のみを通じて体験するのが、精神分析の核心であり、醍醐味でもある。
精神分析は、何よりもパロールの実践なのだ。
転移の舞台〜Intermezzo〜
分析の入り口であるにせよ、出口であるにせよ、知はそれ以前に無意識に想定されており(そこから転移が生じる)、享楽もリビード的な投資がされている。精神分析は、その無意識の享楽の在り方をダイレクトに変えるから、主体の変化が、何らかの形で生じる。
そういった意味では、分析の始まりは愛に関係するし、終わりでは享楽に関係する。転移を愛と享楽のあいだに見出すのは、適切に思える。
陰性転移においては、主体がその享楽のポジションを変えたがらない、それに相当なリビードが投資されており、断念することができない。それが、憎しみや葛藤、アンビヴァレンスとしての反応を引き起こすと言える。
ただ、その享楽へのこだわりが、現実に見合うかは問われてもいい。
そう考えると、愛と享楽の間に、「転移の格差」が既にあると見なせそうだ。
無意識は、その舞台であり、ドラマでもある。無意識の欲望の主体とは、その現実的なものの切れ目であり、対象とは割り切れなさだ。
そして、何よりもそれを言葉の経験のみを通じて体験するのが、精神分析の核心であり、醍醐味でもある。
精神分析は、何よりもパロールの実践なのだ。
転移の舞台〜Intermezzo〜