小説『雪花』全章

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小説『雪花』第二章-6節

2017-05-27 15:17:58 | Weblog
 
   六

長形で広い部屋だった。土の壁が薄いせいか、中はひんやりと冷えていた。
 右方向にある机の前に一人の中年女性の看守が座っていた。浅黒い肌で、ぼっちゃりした体で綿入れの軍用服に包まれていた。
 机側面の上には、鉄鋼の格子を填められたガラス窓があり、弱い光が差し込んでいる。左方面の角には、小さいテーブルと椅子二つずつが置かれていた。天井に近い壁にも、同じように鉄鋼の格子を填められたガラス窓があった。
 中に入って凡雪が机に近づくと、看守は気味悪げに一瞥した。凡雪は小さくお辞儀した。
 看守は、椅子を鳴らして立ち上がり、喉元から絞り出すような声で「面会?」と尋ねた。
「はい」と凡雪が母の名前を教えると、看守は姉妹を見詰めて表情を少しだけ緩めた。
 看守は、机の魔法瓶を片手で持ち上げて、片手のガラスコップに白湯を注いだ。魔法瓶を机に戻してから、口で浮いた茶の葉をふぅふぅと吹き冷ますようにした。
 ぐいと、一口を飲んだ看守は「李亜萍の娘か」と、姉妹を上から下まで眺めた。
 看守は、片手のコップを口につけて、一口がぶりと飲み干した。
 コップをぽんっと机に置いた看守は「今、連れてくる」と、事務的な好調で伝えた。
 看守は、鍵(かぎ)を左側の鉄の門の鍵穴に差し入れて、引き摺るような重い音で、門を、がち、がちと、軋ませた。
 門を開けると、看守は、少し彷徨ってから、門の中に入った。余所者が入り込まないための用心のようだ。
 門が閉められると、コンクリートの地から心の底まで震わすような不快な音がした。
 一瞬、恐怖する気持ちが否応なしに兆し、凡雪は戦慄の息が漏れ、一歩おずおずと後へ退った。姉妹は、冷え冷えとしたコンクリートの地に立ち、森閑とした静けさに包まれた。
 凡雪は周囲を見回した。すると、左の壁一面に貼り付けた紙に書いた毛筆(マオビー)の文字に目が引き寄せられた。凡雪は一歩さっと壁に近寄り、息を呑んだ――。
「線と点の太い字。顔真卿(イエンツンチン)の書体……間違いない、お母さんの筆跡だわ」
 凡雪は呟きながら凝視した。すると、脳裏にふと、母のウェーブが掛った笑顔が現れた。
 雲煙(うんえん)が湧いてくるような母の筆勢に、母の全てを見透かしているように感じ、凡雪の視界が滲んできた。凡雪は手を上げ、丁寧に母の肉筆を撫でながら「母(ママ)は、こんな場所で」と声を漏らした。
 肩に負った布袋を、前にあったテーブルに下ろした凡雪は、再び紙を眺めた。
 紙の冒頭部分には、毛主席語録の一節が書かれていた。次は、禁じることや思想を改造するなど、スローガンがぎっしりと書いてあった。
 横にいた凡花は、一歩ゆっくり後ろへ退いて、更に確かめて、凡雪に告げた。
「間違いない、お母さんの字だわ!」
 母の毛筆(マオビー)字(ツ)は明晰で、筆跡には、ゆとりのある気軽な雰囲気も漂っている。
 まるで璃积村の中を優雅に舞う美しい蝴(ふー)蝶(ティ)(蝶(ちょう))のように感じて、凡雪は、自分の目が濡れてゆく様子を、はっきりと自覚した。
 その時、門が、かちっと、開くの音がした。凡雪は目を音の方角へ向けた。
 門から出てきたのは、五ヶ月ぶりの母だった。一瞬、母の姿が、凡雪の言葉を塞いだ。凡雪は、全身にびっしり鍵(かぎ)を掛けられたように硬直するのを自覚した。
 母の顔は、げっそりと痩けた頬から、下顎(したあご)にかけて、皺が深く刻まれていた。支給品の受刑服を着た母の身体(からだ)が、以前より一回りは確実に小さくなって、痩せていた。頭髪は、四十半ばとは思えないほど白くなっていた。
 想像を越えて老い衰えた母の姿に、凡雪は目が引き裂けるほどの驚きを覚えた。凡雪は、ただ黙って立っているしかなかった。
 母は凡雪と凡花のほうへ、ゆっくりと近づいてきて、二人をしみじみと眺めた。
 母は微(かす)かに笑みを浮かべて「雪(シゥエ)、花(ホァ)……元気?」と静かな声で訊ねた。
 暗い影を感じさせない母の瞳に、凡雪は、心で母(ママ)に呼び掛けた。傍目にも隠しようがないほど眼(イエ)泪(ルイ)(涙)が激しく、次から次と流れた。
 親子三人は、テーブルを挟んだ椅子に座っていた。

 つづく

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