かつて日本は美しかったからの転載です。
南京での虐殺があったと言い出したのは、蒋介石の国民党であり、これは全くのプロパガンダでした。当時国際連盟は、日本よりも蒋介石政府よりでしたが、それでもあまりに嘘だとわかりきったプロパガンダだったので、国際連盟は無視して取り上げませんでした。
南京事件として日本と国民党の戦いがあったのは、1937年のことですが、この時虐殺があったと言っているのですが、その後大東亜戦争時に南京に駐留していた日本軍は、敗戦まで何事も無く支那人と平和に付き合っていたようです。多くの南京市民も平和に暮らしており、日本軍に商売でものを売りに来たりしていました。本当に虐殺事件があったのならば、そんなことはないのではないでしょうか。もちろん、敗戦後は敗者に対しての態度はかなり前とは違いますが、それでも一応駐留日本軍は無事に南京から帰還できました。
南京虐殺で死刑になった松井石根大将は軍規に厳格であることで有名な人で、また人格者であり、その軍隊は非常に規律正しかったのです。その松井大将のもとで、よりによって南京大虐殺が起こったという捏造で、死刑にされ、未だに日本人からも靖国参拝にA級戦犯が合祀されているから、首相が参拝するのはダメだとか言われて汚名を着せられ続けているのです。これはあまりにも、国家のために働いた人に対する大きな不敬であり、国を上げての裏切りともいえるのではないでしょうか。
今の教科書は、南京大虐殺のことをきちんと検証もしないで、あったと決めつけて勝者が敗者を裁くという茶番の報復裁判である東京裁判の主張をそのままに載せて、子どもたちに教えているのです。このような勝者の歴史がどれほど正確だというのでしょうか。
最近では、『南京の実相』という詳しく科学的に検証してその捏造を暴いた本も出ていますが、それなのに、旧態依然として、教育委員会は東京書籍などの、捏造をそのまま載せた教科書を採用しています。
これは子どもたちに対する大きな罪だと思います。自分の国を愛せないような教育をすることは、子どもたちに心理的に大きな傷を負わせてしまいます。国家民族の先人の罪が自分の血の中にあるということは、無意識のうちに、自分を愛せない人格をつくり上げる可能性が強くなります。
青少年の自殺の遠因になっている可能性すらあるのです。自分の尊厳を持てない人間に、いくら生命尊重を教えても、それは言葉だけの空回りに過ぎません。人間は汚い、残虐なものだと、そんな思いしかない人間、人間の崇高さを感じられない人間、そんな人は、自分に対しても、他人に対しても、冷酷な気持ちしか湧かないのです。自分を愛せない人間は他人も愛せないと、よく言うのは本当であり、自分を尊く思わない人間は、他人をも尊く思わないのです。
自分の尊さを感じる一番近道は、自分の命のつながりをたどって祖先、先人のすばらしさを感じることです。人間を貶める教育、自虐史観、唯物論教育による日教組による性教育など、人間の精神の気高さを教えないで、ただ科学的事実だけ教えて人間が育つと思うのは、青少年の心理のデリケートさを全く無視していると思います。
東京裁判で捏造された南京虐殺
南京虐殺をデッチ上げ、松井石根は死刑にされた。
作家の早坂隆氏は中共の南京へ行き、南京大学のキャンパスに近い料理店の一席で学生に「松井石根は日本陸軍きっての『日中友好論者』だった」と言うと、学生は「それは信じられない。日本人はもっと歴史を学ぶべきだ」と返してきたといいます。松井石根(まつい いわね)・・・昭和12年(1937年)の第二次上海事変から南京戦にかけて方面軍司令官だった人です。戦後、東京裁判で「南京大虐殺」の罪で死刑となりました。
東京裁判は「極東国際軍事裁判」と言い、第二次世界大戦後の昭和21年(1946年)年5月3日~昭和23年(1948年)11月12日にかけて 行われたもので、戦争犯罪があったとして連合国側が一方的に日本の指導者を裁いたものです。こ の東京裁判はOSS(アメリカ戦略情報局)が深く関わってい ました。OSSは戦時中から日本の敗北を前提に日本の軍事的壊滅と社会の攪乱を目指した「日本計画」を作っていました。戦後、連合国はナチス・ドイツのユ ダヤ人迫害を「人道に対する罪」という事後法で裁くことが出来ると考えていましたが、日本にはそのようなものはない。そこでその方策を「日本計画」の一環 としてOSSが任されることになります。
その基本案を作ったのがチャールズ・ケーディス大佐で、彼はOSSの欧州担当でマルクス主義者です。彼は日本をドイツと同じように犯罪国家にしたてようと画策しました。戦後、GHQの民政局の課長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本を内部から破壊する工作を行います。憲法もケーディス大佐が中心に推し進めたもので、日本を破壊し、共産革命をおこすためのものです。
GHQは神道指令で「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と名称をあらため、昭和20年(1945年)12月18日から日本の新聞各紙で「太平洋戦争 史」という日本軍断罪の連載をはじめ、ここではじめて「南京虐殺」が登場します。この「太平洋戦争史」は以前にOSSによって「平和と戦争」というプロパ ガンダ記事として前もって作られていたものでした。
この南京虐殺のもととなったのは支那の国民中央党宣機構の顧問だったティンパリーがつくったプロパガンダで、これにOSSが飛びついたわけです。
東京裁判では南京虐殺を陳述しても証人が出廷せず、反対尋問が行えないような証拠が多量に採用されました。しかし、さすがにナチスのような共同謀 議、共同計画によって部下に残虐行為を命令した、許可したという事実は何一つ出てきませんでした。逆に、松井石根は軍紀を厳しくするよう命令を出していま す。検察側もこれには参り、司令官だった松井石根の訴因第1から第54までは無罪とし、第55(俘虜および一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法 規違反)のみ有罪として死刑としたのです。
松井被告に対して多数判決は「・・・ これらのできごとに対して責任を有する軍隊を 彼は指揮していた。これらのできごとを彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務も持っていた。同時に、その権限ももって いた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任がある」というものです。
南京虐殺そのものが捏造であるのに加えて「不作為」の責任というものが過度に拡大解釈され、松井大将は死刑となりました。
東京裁判の南 京事件の判決文の中には殺害した人数が3通りもあり、一方では20万以上、一方では10万人以上となっています。なんというデタラメでしょうか。判決文は 判事が書いたものではなく、別途判決の起草委員会が作成したもので、公判中に指摘された誤りは訂正されずそのまま使われています。判事たちは判決文を論議 するために召集されたこともありませんでした。結論ありきの世紀のインチキ裁判であり、そこで南京虐殺はでっち上げられ、松井石根は死刑になったのです。
参考文献
「歴史通」WiLL2010.1 『戦争犯罪人という烙印』田中英道
小学館文庫「パール判事の日本無罪論」田中正明(著)
小学館文庫「南京事件の総括」田中正明(著)
中公文庫「秘録 東京裁判」清瀬一郎(著)
文藝春秋「松井石根と南京事件の真実」早坂隆(著)
日新報道「南京の実相」日本の前途と歴史教育を考える議員の会(監修)
参考サイト
WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」
添付画像
松井石根(PD)
なぜ南京大虐殺は捏造されたのか?
http://www.youtube.com/watch?v=iPhyKUmxwm0